2009年12月29日火曜日

ハイパーインフレ


旅行前にビクトリアフォールズのホテルに予約を入れようとウェブサイトを見たところ、宿泊料金の表示がなぜか隣国南アフリカの通貨ランドで表記されていた。海外からの玄関口であるはずの国際空港(といっても日本の小規模な地方空港よりもさらに小さい)には両替所すらない。米ドル払いが歓迎されると聞いていたので特に心配はしなかったが。

観光がてら町を歩いていると物売りの若者が寄って来て手に持った札束を見せてきた。見るとゼロがたくさん並んだ見慣れない紙幣で券面にTen Billion Dollas(百億ドル)と書かれていた。その後ホテルのフロントの人と話をする中で、同国ではある日突然何の予告もなくお札が使えなくなり、以前実際に使われていた紙幣が今では土産物として売られているのだと知った。ホテルにも置いているということだったので250億(ジンバブエ)ドル分の紙幣の束を2米ドルで購入した。この通貨の使用停止措置は政府が超インフレに音をあげてのことと想像するが、やることがあまりにドラスティック。ゼロの数がそれほど増えてしまったのはデノミをやる間もないくらいに急速にインフレが進んだためだろう。

説明を聞いてようやく謎が解けた。この国は自国の通貨を放棄したのだ。それまで外貨が歓迎される国には行ったことがあったが、自国の通貨を廃止した国というのは聞いたことがなかった。ただ、自国の通貨を発行しなければそのためのお金と手間が省け、金融政策に頭を痛める必要もなくなる。ジンバブエでは自国の通貨が流通していたときには手に入らなかった生活必需品が海外から入るようになったという。かつてのヨーロッパの小国に見られたように経済的に自立していない国にはありうる選択肢なのかもしれない。

2009年12月28日月曜日

中華大販店


ビクトリアフォールズは間違いなくジンバブエ最大の観光地だが、町はすぐに歩いて回れるくらい小さい。そんなアフリカの奥地の町に「中華大販店」なる漢字の看板を見かけた。アルファベットすら書かれていないのだから中国系の客以外は眼中にないのだろう。こんなところに中国料理屋があることもさることながら、中国系の客だけを相手にして商売が成り立つほど観光客が来るのだとすれば驚きだ。ちなみに私は滞在中一人も日本人を見かけなかった。

アフリカで食べる中国料理というのはどんなものだろうかと思い、滞在3日目のお昼過ぎに行ってみた。その店はお土産屋が数件入っている小さなモールの2階にあり、窓のない吹きっさらしの広々としたフロアに4つほど大きな丸テーブルが並べられ、その一つで中国人観光客と思しき一団がにぎやかに話をしながら食事をとっていた。海外で中国料理店に入ると決まって中国人と間違われる私だが、案の定?店のおかみは私を見ると何か中国語で話しかけてきた。どうやら英語が苦手なようで、私に中国語が通じないとわかったとたん現地人の店員に接客を任せて店の奥にひっこんでしまった。

炒飯と酸辣湯を注文してテーブルで一人待っているとほどなくして大皿に盛られた具の少ない炒飯と小ぶりなやかんいっぱいに入ったスープが小さな器とともに運ばれてきた(ここはアメリカかい!)。食べてみるといずれも味付けが薄く(というかほとんど味がなく)、おそらく私がそれまで食べた中でいちばんおいしくない中国料理だった。それでも客が入るのだから競合がないというのは商売人にとって何とも理想的な状況だ。今回はそれなりのホテルに泊まったのでレストランの食事は決して悪くなく、変な気を起さずにそこで食べればよかったと後悔した。

中国人の団体客が去って客が私一人になると、おかみが私のテーブルにやって来て話しかけてきた。どうやら何人(なにじん)かと聞いているようだったので、以前かじりかけた北京語で日本人だと答えると、ようやく中国語が話せない理由を納得したようだった。おばさんは退屈しのぎに話し相手を求めているようだったが、いかんせんこちらは中国語が話せず、向こうは英語が話せない。以前受けた北京語のレッスンを思い出しておばさんが何を話しているのか推測することはできても中国語で答えることができない。おばさんが鉛筆とノートを出して来て漢字による筆談が始まった。

学生のときに旅行先の台湾でこうした筆談が思いのほか通じて助かったが、相手が簡体字(大陸で使われている単純化された漢字)で教育を受けている大陸の人だとそう簡単ではない。我々日本人が使っている旧式の漢字(繁体字)を相手が理解したとしても、原形をとどめないこともあるほど簡略化された簡体字で答えられると理解するのが難しい。幸いなことに以前受けた北京語のレッスンで繁体字の部首が簡体字ではどのように略されるのかといったことを教わっていたので、おばさんが書くことがある程度理解できた。二度にわたって挫折した北京語のレッスンがこんなアフリカの奥地で役に立とうとは…。

筆談を通じておばさん(名字は“曲”)が遼寧省出身の43歳で、夫を肝臓病で亡くした未亡人であることがわかった。成人した一人息子は故郷の鞍山で“保安”関係の仕事をしていて旧正月には2か月ほど店を閉めて里帰りするのだという。Lilyという英語名を名乗って英語を勉強しているものの、まだほとんど話せないとのことだった。そしてビクトリアフォールズの町は退屈(boring…英語ができないというわりにはこの単語は知っていた)なので、いずれ首都のハラレに移って物を売る商売を始めたいとのこと。

言葉もできないのに単身でこのようなアフリカの奥地にやってきて商売を始めるなど何ともたくましい。長年海外に出て地元に根を張って来た中国人のたくましさは健在のようだ。ただ曲さんがジンバブエに来た理由は今一つはっきりしなかった。アフリカへの影響力を強めようとしているといわれる中国が85歳のムガベ大統領(ジンバブエの平均寿命は50歳という)を病気の治療のために北京に受け入れるという話は地元でよく知られているようで、曲さんがハラレの中国大使館員と付き合いがあるということからすると中国政府が在外公館を通じて戦略的に重要な国での中国人の活動を支援しているのもありえない話ではない(一見ふつうのおばさんの曲さんが女スパイだったりしたら驚きだ)。

世界の人口の5分の1以上を占める中国。海外に出る移民も観光客もこれからますます増えるだろうから、今後そのプレゼンスはますます高まっていくのだろう。ただ料理屋を始めるときは一定のクオリティを確保してもらいたい。

2009年12月25日金曜日

マラリア

香港からヨハネスブルグに向かう飛行機の中、60歳代と思しき南アフリカ人の紳士(白人)と隣り合わせた。話をするうちに、私の留学時代の唯一人の南アフリカ人クラスメートと同じ町の出身で知り合いであると知ってその偶然に驚いた。そのクラスメートは卒業後にバミューダに居を移して投資ファンドをやっていると聞いていたが、その会社は彼の父親が立ち上げたもので、南アフリカではテレビCMをうつなど、知らない人がいないほど有名であることを知った。

これからどこに行くのかと聞かれてジンバブエと答えると、氏が南アフリカでアメリカの大手アパレルメーカーのフランチャイズを展開していて、ジンバブエには工場をもっていたという。政情不安になる前にアメリカの企業に売り抜け、今は彼が経営していたときからいる現地の経営陣がアメリカの企業から工場を買い取った(いわゆるマネジメント・バイアウト)とのこと。こうした話を聞くうちに、同国がムガベ大統領が統治する実質独裁国家であることに気づいた。

勉強不足にもほどがあるが、その後もっと大変なことに気づかされた。マラリアの予防はしてきたかと聞かれたのだ。当地がマリファナの感染地域だと知らず何もせずに来たが、時すでに遅し。ヨハネスブルグで乗り継いでそのままジンバブエ入りする私には今更どうすることもできない。海外旅行といえばビザをとること以外はいつも行き当たりばったりで何とかやってきたが、今度ばかりは大失敗だ。アフリカをなめてはいけない…。

現地で会った外国人観光客に予防薬を服用していないのかと驚かれて改めて事の重大性を認識した。地元の薬局に行って聞いてみたところ、薬が効くまでには飲み始めてから1週間程度かかるので、今から飲み始めても遅いというつれない返事。結局蚊に刺されないようにするしか方策がないことを知らされた。

一口に蚊に刺されないようにするといっても私の場合は容易なことではない。というのも人一倍蚊に刺されやすく、隣に座っている人がまったく刺されなくても体中を刺されることがあるほどだ。蚊だけではない。留学先の大学院の仲間とメキシコのカンクーンに行ったときにはシュノーケリング中に私だけが体中をクラゲに刺されてその晩はかゆくて眠れなかった。

マラリアの予防を怠ったためにジンバブエでの行動がかなり制約されることとなった。真夏にもかかわらず長袖長ズボンを着用し、くだんの紳士に教えてもらってヨハネスブルグの空港で買ったTabardという虫よけ薬を肌が露出している部分に塗り続け、外出から帰ったときには汗の染みた衣服をすぐに洗った。蚊が多く出てくる夕暮れどき以降は一切外出せず、ホテルの部屋にこもった。そして一晩に何度も虫よけスプレーを部屋中に吹きかけた。

蚊に刺される可能性があるアウトドアのアクティビティにも参加しなかったため、滝を見るという本来の目的以外のことはあまりやらずに終わったが、当初フライトの都合で一週間滞在することになりそうだったのを、4日間に短縮していたのが大いなる救いだった。これまで旅行はなるべく軽い荷物で済ませるためにガイドブックも買ったり買わなかったりだったが、今回ばかりは「何とかなる」では済まされないことがあることを思い知らされた。

2009年12月23日水曜日

ビクトリアの滝


ビクトリアの滝は南米のイグアスの滝と違って町(というか集落といった方がいい規模)から歩いて行かれる距離にある。思い立ってすぐに行動に移す私には好都合だ。ホテルが勧めるヘリコプターの遊覧飛行をしてから行くことにした。

遊覧飛行はたかだか12、3分で100ドル以上とられるが、上空から大滝の全貌を見ることができて圧巻だ。断崖絶壁を流れ落ちる巨大な滝の眺めは見事としかいいようがない。しまり屋(“しみったれ”ではない)の私はこうした遊覧飛行をするのが初めてだったが、機会があればほかの景勝地でもやってみたいものだと思った。

http://www.youtube.com/watch?v=Mkl0pQMQ0mY

ホテルに戻った後、カメラをもって滝を見に出かけた。深い谷底から上る水しぶきが夏の太陽の光を浴びて大きな虹をつくる光景がすばらしい。世界三大瀑布を制覇した中学時代の同級生がビクトリアの滝をイグアスの滝よりも上にランク付けしていたが、両者では周辺の地形が大きく異なる。イグアスの滝が広範囲にわたって高い崖の上から水が流れ落ちているのに対してビクトリアの滝は地表にほぼ一直線に巨大な亀裂が走り、深い谷底に大量の水が流れ落ちていく様子を崖の反対側から眺めることができる。

ビクトリアの滝は間違いなく一見の価値はあるが、当地には滝以外にこれといって見るものはない。滞在二日目に滝を見た後は何もやることがなくなってしまった。当初フライトの都合もあって一週間以上滞在することになっていたが、旅程にケープタウンを加えることで4日に短縮できてよかったと思う。

2009年12月18日金曜日

ザンベジ川の夕日


成田から香港とヨハネスブルグで飛行機を乗り継いで24時間余り、ようやくジンバブエにたどり着いた。これほど長い時間飛行機に乗り続けるのはアルゼンチンのブエノスアイレスに行ったとき以来だ。目的はビクトリアの滝を見ること。一生に一度行ってみたいと思っていたところだが、日本から余りに遠くアクセスも悪そうなので、実現性が低いと思っていた。しかし年をとって体力がなくなっていくとますます実現性が低くなると思い、欧米の顧客がメインのわが社のビジネスがスローダウンする年末に思い切って行ってみることにしたのだ。

旅行代理店に勤める中学時代の同級生はその特典を生かして世界中を旅行し、“世界三大瀑布”と呼ばれる北米のナイアガラの滝、南米のイグアスの滝、そしてアフリカのビクトリアの滝をすべて制覇した。彼は1にビクトリア、2にイグアス、3にナイアガラとランク付けしていたが、今年イグアスの滝を見てその大きさと迫力、そして美しさに感動した私にはその上をいく滝というのが想像できず、見てみたいという思いがさらに募った。

ビクトリアの滝はジンバブエとザンビアの国境にまたがるが、その大半はジンバブエ側から見ることができ、その名もビクトリアフォールズという小さな町が観光の拠点だ。空港から町に向かっていくと、平原の彼方に大きな水煙が上がっているのが見えてきた。空高く巨大な水しぶきが上がるというのは相当なことで、滝を見るのがますます楽しみになった。

その日はホテルにチェックインした後、人に勧められたザンベジ川のサンセットクルーズに参加した。大滝の上流でありながら川の流れはゆるやかで、野生のかばの一家が悠然と泳いでいたり、中洲の川べりで野生のワニの子どもが昼寝をしたりしていた。川面を流れる風が心地よく、長旅の疲れを癒すことができた。

2009年12月13日日曜日

ワールドカップサッカー

たかだか予選のグループ分けが決まったくらいで大々的に取り上げる報道ぶりに、また4年に一度のバカ騒ぎが始まるのかと思った。ベスト4を目指す実力が本当にあるのならグループ分けくらいで大騒ぎするなといいたい。

前回のワールドカップで日本の戦績を見事にいいあてたサッカー通の同僚(元サッカー少年)によると、今回いちばん可能性が高いのが1敗2分け、幸運に幸運が重なれば1勝2分けもありうるが、それよりは全敗あるいは2敗1分けになる可能性の方が高いとのこと。グループの中で世界ランキングが圧倒的なドン尻なのだから素人目にも妥当な予想に思える。オランダにとって日本など取るに足らない相手だろうから油断をして2軍選手を出してきて、間違って日本が勝ってしまうなんてことはないだろうかと尋ねてみたところ、「相手が2軍でも日本はまず勝てない。そもそもワールドカップではグループ戦を1位で通過することが重要なのでオランダは手を抜いてこないだろう」とのこと。

私はもちろん日本が決勝トーナメントに進めるなどとは思っていないし、そんなことを期待もしていないが、一日本人として日本が大負けするのは見たくないと思っている。というのも98年のフランス大会が行われていたときに、旅行先の札幌で入った飲食店で韓国・オランダ戦がテレビに流れていて、アジア最強といわれた韓国がまさに完膚なきまでにやられているのを目にしてしまったからだ。4点目が入ったときには「もう勘弁してやってくれ!」といいたくなったが結局5対0で終わった。日本がやられていたら見ていられなかっただろう。

それにしても監督が掲げる目標がいかにばかげているかわかっていないはずがないサッカーの解説者が誰一人として公に疑問を呈さないのだから驚く。サッカーファンの反発を受けるのが怖いからなのか、それともスポンサーの圧力を感じているからなのか。マスコミたるものもう少し客観的なスタンスで報じてほしいものだが、なぜか期待を煽るような報道にばかり終始する。この騒ぎは本番が始まって日本が初戦でカメルーンに負けるか引き分けるかでだいぶ落ち着き、次のオランダ戦に負けることで一気に収まるものと予想するが、どうして毎回同じことを繰り返すのか。そうなることがわかっているのだからもっとほかのニュースに時間や紙面を割いてもらいたいものだと思う。

2009年12月3日木曜日

エコパラダイス

地元商工会議所主催のゴルフコンペ。せっかく入会したので参加してみることにした。いや、正直に白状すれば参加しなければならない状況を自ら作り出してしまったのだ。

事務所に案内のファックスが届いたとき、人にいえないハンディの私が参加するのはどうかと思ったが、入賞者の景品に私の会社で輸入している商品を使ってもらえないかという下心から会議所の担当者に問い合わせの電話を入れてしまった。結局景品は商品券に決まっているといわれ、その後取り紛れているうちに申込期限が過ぎてしまったのだが、商工会の担当者からリマンドの連絡が入った。ここで断りでもすると下心丸出しの現金な人間になってしまう…。

コンペの会場は今年の日本オープンが開かれた超名門コース。参加費やグリーンフィーなどを合計するとン万円になる。このご時世にどのような人たちが集まるのだろうと思いきや、地元の大地主やビル持ち、建設会社、不動産会社、地元選出の国会議員の事務所長といった顔ぶれで、皆お互いをよく知る仲間たちのような雰囲気。プレイ後の懇親会では初参加ということで挨拶をさせられたが、海外のクライアントを相手に仕事をしている私の会社など明らかに浮いた存在。東京とは名ばかりの地元のビジネス界の超ドメぶりを肌で感じた。

それにしてもこんな不景気でも高額なコンペに参加し、懇親会では不景気な話一つ出て来ないのだから、テナントに困らない東京の不動産業者というのは不況にも強いようだ。私はサラリーマン家庭で育ったので地元にこうしたいわば“エスタブリッシュメント”が存在していたことなど知る由もなく、また接点もなかった。私の会社などはまったく異色の存在でビジネス上の関わりもなく、そもそも私がコンペに参加して歓迎されているのだろうかと思った。

このコンペでもう一人異色の存在だったのが一緒にラウンドしたエコパラダイス溶液なるものを販売している会社の社長。このエコパラダイス溶液というのは何でも還元(酸化の反対)を促進する特殊酵素からできていて、建材に使えば害虫を寄せ付けないだけでなく、冬は湿気を放出して体感温度を温かく、逆に夏は湿気を吸収して室内を快適にするという。後日この建材を使っているという、同社が経営する陶板浴の施設に行って室内の空気のさわやかさを実感した。

社長はラウンド後の懇親会で、ここの陶板浴をやっていれば末期がんの患者でも治ると豪語した。おそらく世のほとんどの人が胡散臭いと思う話だが、酸性に傾いた体をアルカリ性に戻すという話は私が以前読んだ米人作家の本の内容と一致していて、私はすんなり受け入れられた。この陶板浴を試してみると、不快指数100%でばい菌やウイルスの巣窟といわれる岩盤浴と違い、湿気がなく、しばらく横たわっているうちにじわじわと汗が出てくるといった感じだった。ここに通い始めた同僚の奥さんは肌のすべすべ感が3日はもつといっているそうなので、難病治療よりもこちらを売りにした方が女性には受けるかもしれない。

積極的に参加したわけではないコンペだったが、結果的には思わぬ収穫となった。地元商工会だけあって陶板浴の施設は自宅に近いし、ここでエコパラダイス溶液を使った容器(中に入れたものが腐らず、ヨーグルトや果実酒を作ることができる)や、水やご飯をおいしくするというセラミックを買ってきては試している。いちばんほしいのはここの建材を使った家(できれば陶板浴付き)だが、こればかりはすぐには手が出せない…。

2009年11月28日土曜日

ボジョレーヌーヴォー

大手スーパーでボジョレーヌーボーが1本800円で売られているというニュースを聞き、いよいよ来たか、と思った。大量に仕入れているからだとかペットボトルに入れて輸送費を浮かしているからといった説明がついていたが、円高がピークに達していた1990年代半ばでさえ小売値ベースで数千円していたものがそれだけの理由でここまで下がるなどということなどない。もともとが安い酒に厚いマージンを乗っけて売っていたのがこの不景気でそれができなくなり、原価に見合った価格に調整されたというのが本当のところではないだろうか。

電機メーカーに勤めていた10数年前、欧州本部の幹部を務めるフランス人が、「もともと酸味が強くて高い値段で売れなかったシーズン初めのワインに解禁日なるものを設けて売り出したところ、高い値段で売れるようになった。まさにマーケティングの成功事例だ。」といっていたが、マスコミもこぞって取り上げてまんまとこうした戦略にひっかかった日本人はいいカモといったところだろうか。このフランス人は、ソムリエコンテストで日本人を優勝“させた”のも日本でワインを拡販する戦略だったといっていた。その真偽のほどはわからないが、確かにその後日本でワインの一大ブームが起きた。

どうして日本人はこうもフランス人のいいカモになるのか。日本に視察旅行に来たことがあるというエジプト人ビジネスマンが、日本人はフランス製だとかイタリア製だとかいうとすぐに飛びつく、となかなか鋭い指摘をしていたが、やはりフランスには多くの日本人に憧憬の念を抱かせる何かがあるのだろう。アメリカやイギリスには同じようなイメージは抱かないところを見ると、やはりすぐれた食文化やファッション、フレグランス、おしゃれな生活用品などが国自体のイメージを高めているのかもしれない。

それにしても業者が流す情報をそのまま報道するテレビ局もいい加減なものだ。今年は50年に一度のできだというが、50年に一度といわないまでも、毎年同じように今年の出来は特別にいいというようなことを繰り返している。ボジョレーヌーヴォーなるものが日本で売り出されてからこれまでできが悪かった年がなかったわけではなかろう。まあワインの出来不出来など世の大勢に影響はないので誤報もありなのかもしれないが。

しかしバブル期には解禁日にまっさきに飲むために成田まで行っていた人たちがいたワインもスーパーで安売りされるようになると大きなイメージダウンだ。かつてのような大きなマークアップもしづらくなるだろう。もともと味のわりに値段が高いので買わずにいた私もここまで安くなると買ってみようかという気が起きてくる。

2009年11月21日土曜日

レンジシェフ

あるテレビの番組で加熱調理の時間を短縮できるというタッパーウエア状の調理器具の存在を知り、さっそく買ってみた。これがなかなかいい。火が通りにくいジャガイモなどの根菜類も効率よく温めることができるし、コンロのように火の加減に注意しておく必要がない。鍋でぐつぐつ煮込むような料理は時間がかかりがちだが、レンジで予め具材に熱を通しておけば仕上がりが早く味もよくしみ込む。焦げ目をつけたい場合はフライパンで表面を焼いておけばよい。コンロの火を使う時間が短い分、焼き過ぎたり焦がしたりする心配が少ない。

この器具を使い始めると何でも面白いように短時間でできてしまうため、自分で料理することが多くなった。最近では鍋とフライパンと組み合わせて同時並行で2品作ってみたりする。一方で出たスープをもう一方の料理に利用できたりして効率がよい。また、自分で料理を作ると自分好みの味にできるのがよい。エジプトの取引先の奥さんに教わった肉料理はニンニクと玉ねぎを使って長時間煮込むのだが、レンジを使えば相当時間が短縮され、また自分で作るのでニンニクも入れ放題だ。

既成概念にとらわれない色々な食材の使い方や調理の仕方を試すことができるのも楽しい。たとえば鶏のから揚げ。から揚げというには油で揚げなければ(ディープフライ)できないものと思いがちだが、うちで使っている油はオリーブの実を圧搾して作った貴重なオリーブ果汁そのものなので、揚げ物に使うのは何とももったいない。そこでレンジで熱を通した後の鶏肉をから揚げ粉にまぶしてオリーブオイルを敷いたフライパンで焼いてみたところ、から揚げそのものの味に仕上がり、しかも揚げるよりも肉がやわらかくジューシーになった。鶏肉を温めた際に出た汁はおいしい鶏がらスープになるので一石二鳥だ。

最近ではテレビのジタン(時間短縮)料理を参考にして新たな調理法を試したり、さらにメニューのバラエティを増やすようになっている。個人的に気に入っているのは肉料理に麩を使うこと。薄くスライスされた肉(切り落としでもよい)を買ってお麩に包んで調理すると分厚い肉と同じ触感になり、しかも味がよくしみ込んでおいしい。しかも肉の脂身のような触感なので誰も麩を使っていることに気付かない。肉の塊を使うよりも経済的なので、同じ予算でワンランク上の肉を買うことができ、しかもヘルシー。言うことなしだ。

こんなことをしているうちにふと思った。これほど食いしん坊で倹約家(ケチではない!)な私がなぜこれまで外食ばかりして自分で料理を作ろうと思わなかったのか?そして気づいた。このような便利な調理器具にめぐりあうとすぐに始めるくらいなので、自分が倹約家ぶりをも上回る相当な面倒くさがり屋であるということに。

2009年11月14日土曜日

アキバ


エジプトの取引先からの突然のメール。知人が来日しているので会ってみてはどうかとのこと。さっそくその知人という人から事務所に連絡があり、週末に会う約束をした。取引先の知人という以上の情報がなく、よく素性がわからぬまま会う約束をしたのだが、滞在中の予定について話す中で駐日エジプト大使が同行するミーティングだの、カイロ大学に留学していた元防衛大臣(環境大臣)との会食だの、元駐エジプト日本大使との会食だのといったことを聞かされてこの人はいったい何者だろうと思った。

土曜日の昼前に赤坂のニューオータニホテルのロビーで待ち合わせて銀座の煉瓦ビルにあるレストランに連れて行った。この店にはエジプトの取引先が作っているオリーブオイル(といってもそのへんで売っているものとは違うオリーブ果汁そのもの)を納めているので、それを味わってもらう意図もあった。そして話をする中で、氏がエジプトの元首相のご子息であることを知った。また、もともとエンジニアであった氏が若い頃、私が勤めていた電機メーカーの旧本社に研修で来ていたという偶然にも驚いた。氏は50歳代と思しき年齢なので、おそらく私が入社する前の話であろう。

食事の後、氏がお土産を買いに秋葉原に行きたいというので付き合うことになった。思えば秋葉原に行くのは久しぶりだ。外国人観光客の定番スポットになっていると聞いてはいたが、実際に行ってみると“免税(duty free)”を謳った外国人観光客向けの店が目立って驚いた。しかも店内には家電製品だけでなく、日本のお土産として人気のありそうなお土産(といっても価格の安い衣類や置物などでMade in Chinaと書かれていたりする)が所狭しと並んでいる。アキバもしばらく来ないうちにずいぶんと様変わりしたものだ。

秋葉原にはラオックスに限らず中国人経営の店が増えているそうで、氏が携帯電話で呼び出したエジプト政府観光局の駐在員の話では我々がいた店も実は中国人経営とのこと。接客にあたっているのはさまざまな言葉を操る若い外国人店員で、商品知識もまずまずでセールストークも要領を得ている。氏の接客にあったったのは流暢な日本語と英語を話すリーという名字の青年で、中国の朝鮮族だとすれば北京語もネイティブ並みに話すのだろう。かつてここで商売をしていた小規模店主にはなかなかこうした店の経営まではできないため、秋葉原が外国人の観光名所に変貌していく中で店を手放したのだろうかなどと想像した。

免税という言葉に弱いのは日本人ばかりではないようで、こうした看板を掲げる店は外国人観光客と思しき人々で賑わっていた。観光客の誘致に励む政府の施策だとすれば十分効を奏しているようだ。しかし国際空港ではなく東京の町なかで免税というのはいったいどういう仕組みなのだろう?見ると観光客がパスポートを提示し、店側が購入した商品を記した書類をホチキスでパスポートのページに留めていく。出国の際にこの書類を外されるのだそうだが、それで海外に持ち出すことを確認できるのだろうか。リー氏に聞いてみると預入れ荷物に入れてしまったといえば誰も確認できないとのこと。つまりは日本人が外国人観光客にお金を渡して電気製品を買ってもらえば消費税分が安くなるということ。消費税が5%の間はたいした金額にはならないかもしれないが、10%にでもなればこうした違法行為が横行しかねない。若干脇が甘くも見える観光客誘致策だが、おそらくそうしたことも想定しながら踏み切ったのだろう。

エジプトからの思わぬ来客のおかげで久しぶりに行く機会を得たが、オタクでもなければアキバ系ともほど遠い私にとって秋葉原は基本的に用事のないところ。噂には聞いていたが、これほど観光地化されているとは思わなかった。銀座や浅草からも近いので、外国からの来客を手軽に連れて行かれる場所としてメニューに入れることにした。

2009年11月7日土曜日

電磁波

投資銀行時代、営業でちょくちょく大阪に行っていた。大阪だと新幹線を利用する人が多いが、私は飛行機派だった。訪問先の一つが空港からアクセスのよい場所にあったこともあるが、新幹線で行くと疲れがひどく感じられたからだ。その後、新幹線の車内は電磁波がすごいことになっているという話を聞き、もしかしたらそのせいだろうかと漠然と思っていた。

広島への出張となれば新幹線に乗っている時間は大阪の比ではない。当然飛行機にしようと思っていたが、仕事を終えて羽田に着ける時間がわからず、最終便に乗れても空港から乗り継げる公共の交通機関はない。しかも以前から聞いていた通り広島の空港はひどくへんぴなところにあり、広島空港から福山までタクシーで行こうものならいくらかかるかわかったものではなかった。東京から福山までの所要時間を調べるとほとんど変わらなかったこともあり、本数が多く、夜遅くでも福山に行き着ける新幹線にすることにした。

東京から福山まで4時間近く。少しでも体力の消耗を減らし、且つ車内での時間を有効に利用できるように座席にノートPCをつなげる電源がついているグリーン車にした。しかし夜の東京駅でガラガラのグリーン車に乗り込んですぐに失敗した!と思った。グリーン車独特のいや〜な臭いが鼻をついたからだ。東海道新幹線のグリーン車に乗るのは久しぶりだったのですっかり忘れていたが、座席に使われている素材が発するのか独特の臭いが車内に充満していて私はそれが大の苦手。そんなところに4時間もいなければならないと思っただけで気分が滅入ってしまった。気を紛らそうとさっそくノートPCをつけてネットにつないだが、新大阪を過ぎる頃にはかなり気持ち悪くなって吐き気さえしてきた。すんでのところで車内販売が回って来て、温かいコーヒーを胃に流し込むことでとりあえず落ち着くことができた。

翌日広島での面談を終えるとその足で次の訪問先がある滋賀に向かった。福山から京都までは新幹線で1時間20分ほどの所要時間だった上、普通車に乗ったおかげでだいぶ楽だった。翌日は滋賀での面談を終えた後、大阪に戻ってもう一社訪問したが、東京への帰路は迷わず飛行機を使った。電車の乗り継ぎがよかったため、2時に京橋(大阪の)で面談が終わった後、3時の大阪空港(伊丹)発の便に間に合い、4時半には新宿に着いていた。この間わずか2時間半。新大阪から品川までの新幹線の所要時間と同じで、京橋から新宿までだと1時間の時間のセービング。やはり飛行機はいい。

後日、通っている整体師さんにこの話をすると新幹線の車内はものすごい電磁波に加えて微妙な振動があって、それが人体に影響を与えるのだといわれた。自分がそれほど敏感な人間だとは思っていなかったが、何度乗っても同じような疲労を感じるのできっとそうなのだろう。今回吐き気までしてきたのは乗っていた時間が長かった上、グリーン車の臭いも加わってまさにトリプルパンチだったからか。飛行機の機内も相当な電磁波があるそうだが、乗っている時間が短い分、人体への影響も少ないという。これからは東京から京都までの2時間20分を新幹線に乗る最長距離(時間)と定めて徹底し、グリーン車は避けるようにしたい。

2009年10月31日土曜日

鞆の浦


突然の広島出張。といっても行き先は広島市内ではなく、福山からローカル線に乗り換えて45分ほどかかる中国山地の山の中。こんなところにグローバルに事業を展開する企業の本社があるのだから驚く。しかしこうした名の知れた企業が安易に東京に本社を移したりしないのだから立派だ。

面談は午後からだったので当日の朝に東京を出ても間に合ったのだが、朝早い新幹線に乗るのも疲れるし、広島県に行く機会もあまりないので前泊することにした。訪問先の企業がある町まで行って泊まろうかとも思ったが、インターネットで調べると一軒だけあるビジネスホテルはあまりパッとしないイメージで(失敬!)、旅館に泊まるには到着時間があまりに遅過ぎる。また、当地に行ったことがある人に聞くとこの町には面談の前に時間をつぶせる場所がないという。このため少なくとも宿泊場所は充実している福山に泊まることにした。

広島県といえば観光で広島市内や宮島、尾道あたりは行ったことがあるが、福山に滞在するのは初めてだ。昔、日本鋼管(現JFE)に勤めていた叔父の一家が当地に住んでいて企業城下町のイメージしかなかったので、観光で行くなどという発想はもちろんなかった。ところが最近のニュースで埋め立て工事の差し止め命令が報じられた鞆の浦が福山市内であることを知って驚いた。テレビに映し出される瀬戸内の風光明媚な港町の風景が一大工業都市のイメージとはほど遠かったからだ。

こんなタイミングで出張が入り、しかも福山に滞在することになろうとは。この上は朝のうちに鞆の浦に行ってみるしかない。翌朝チェックアウトをした後、荷物をホテルに預けて背広姿のまま出かけた。福山駅前から乗ったバスはやがて市街地を抜け、川沿いの道を進むと車窓から見える景色がのどかな田舎の風景に変わった。そして鞆の浦が市町村合併によって周囲の町村とともに福山市に取り込まれたことが想像された -- あとでこの想像が正しかったことを確認したが、福山市に編入されたのは思いのほか昔の1956年とのことだった。

実際に行ってみると想像していた通りの静かな港町だったが、想像していなかったのは当地が万葉集の歌にも詠まれているほど歴史が古く、『美しい日本の歴史的風土100選』に選ばれるくらい古い町並みがよく残っていることだった。そして平日にも関わらず、そこかしこに観光客の姿を見かけた。何でも瀬戸内海のほぼ真ん中に位置し、横断する船が当地で潮流が変わるのを待たなければならなかったため、古代より“潮待ちの港”と呼ばれる重要な港だったそうだ。しかしこの地方の港湾拠点の座を尾道に奪われてから衰退の一途とのこと。

さて埋め立て問題だが住民のアンケート調査では過半数が賛成しているといい、集落の周辺にはその必要性を説く看板や“生活権優先”と書かれた看板などを見かける。尊重されるべきはそこに生活している人たちの声だが、看板に書かれていた説明に今一つ説得力をを感じなかった。道路が狭いとあるが、一応アスファルトで舗装した道路が集落を貫いており、交通量も多くない。交通事故が多いというがそれは道路の問題というよりも運転マナーの問題。集落の狭い道路をスピードも落とさず走ってくる軽乗用車があり、そうした行為をやめさせるのが本質。そして集落の入口から福山市街まで立派な道路が通じている。いずれにしても海岸線の埋め立ては観光客にとっての鞆の浦の魅力を減じさせることは間違いないだろう。

2009年10月24日土曜日

HDR-TG5V

2か月ほど前に大阪から訪ねてきた大学時代の同級生。待ち合わせ場所の東京駅の丸の内北口の改札を出てくる彼の姿を見て開口一番「ずいぶん太ったね。」という言葉が口をついた。するとすかさず「その言葉、そっくりそのまま返すよ。」といわれた。そういえば彼と会うのは2年ぶりで、その間に私の体形もすっかり変わってしまった。

その彼の手もとを見ると見慣れない形のカメラらしきものを持っている。聞くとソニーのビデオカメラだという。そして彼はそれを構えると、何の断りもなく私の姿を撮りだした。ぶくぶくと肥え太った姿を映像に残されてしまってはたまらない、と思ったが時すでに遅し。しっかりと音声付きで撮られてしまった。

彼は昔からのソニーファン。このビデオカメラは使いやすく、映像データをパソコンに保存するのも簡単でとても気に入っているという。実際に持たせてもらうと驚くほど軽量で縦長の形状が何とも持ちやすい。ただ、旅行先にビデオカメラはおろかデジカメさえも持っていかないことが多い私が買っても持ち腐れになるだろうと思った。

それからしばらくして妹の家に遊びに行くと、今年の6月で1歳になった二人目の甥っ子がよちよち歩きを始めそうな様子だった。しかし肝心の妹は二人の息子の面倒をみるので手いっぱいで、下の甥っ子の姿を映像に残す余裕などなさそう。私も二番目なのでほとんど写真が残らない不遇さを知っている。にわかに友人が持っていたビデオカメラのことを思い出した。

ソニーに入社したての頃、新人研修で赤羽にある電気店に派遣された。同期入社の人たちと当時売り出し中だった8ミリビデオのハンディカムを売りに戸別訪問した。このとき電気店の人から入れ知恵されたのが「お子さんのかわいい姿を残せるのは今しかありませんよ。」というフレーズだった。次々に新しい機種が出るので買うのをためらっているお客さんへの殺し文句だ。電気店のおやじさんは確かに正しかった。

事務所近くのソニーショップに行くと友人が持っていたのと同じ機種の展示品が格安の値段で売られていた。しかしたまたま店を訪れていたソニー社員の人にどうせ買うなら新しい機種のほうがいいと勧められた。「でも値段が倍近いと…」などとためらった風な態度をとるとすぐに店長にいって2万円ほどまけてくれた。しかも三脚付き。

新品のビデオカメラを充電するとさっそく妹の家を訪ねた。思えば妹夫婦には長男が生まれたときもかわいい姿を残せるようにとビデオカメラを買って渡した。当時は子どもが彼一人だったので親が撮影していたようだが、二人目だと手が回らないようなので今回は私がやらなければならない。その代わり今回はビデオカメラはあげるのではなく、私がキープする。

この製品、AV(機器)マニアの友人がいう通り、すこぶるいい。軽くて持ちやすく、映像もきれい。これなら旅行に持って行ってもいいと思う。まだやってはいないが、パソコンにデータを移すのも簡単そう。ソニーの商品開発力が健在であることを改めて認識するとともに、私が新入社員だった頃に比べてずいぶんと単価が下がってしまったものだと思った。(私がためらいなく買える価格帯になったことは個人的には嬉しいが。)

2009年10月18日日曜日

ハブ空港

ひと月あまり前に、所属している千葉のゴルフクラブのコンペで地元の地銀の前会長さんとご一緒した。この方は地元財界のトップで、あの森田健作知事の後援者でもある。一緒にラウンドをしている間に聞いた裏話がその後にニュースになった出来事と妙に一致しておもしろい。

まず不正経理問題。このコンペの翌日に健作知事が謝罪し、記者会見場に居並ぶ県庁の幹部職員に向かってこうしたことが行われていることを知っていた者は手を挙げろという様子がテレビで放映された。誰一人として手を挙げなかったが、前会長の話を聞く限り、誰一人として知らなかった者はいないはず。千葉県庁では伝統的に庶務が決裁権のある管理職の印鑑を一括して預かり、本人たちの代わりにポンポンとハンコを押しているというから驚く。監査はないのかとお聞きすると、もちろんあるが皆地元の慣れ合い業者とのこと。やれやれ…。

千葉県でも行政首長が財政の健全化に取り組むために地銀など民間から人を入れて行政改革に取り組もうとしたことがあるそうだが、部長職を減らすように命じたら別の中間管理職をつくって人件費全体が逆に膨れ上がってしまったというから笑える(千葉県民だったら笑えないか…)。

前会長はコンペの翌日に健作知事と成田空港会社の社長との会食をセットアップしているということだった。何でも石原都知事と個人的に親しい健作氏が千葉県知事に当選すると成田の国際線を羽田に持っていかれてしまうのではないかと心配した成田航空会社の社長が知事選挙で対立候補を応援したため、今になって健作氏との仲直りの場を設定してほしいと頼んできたとのこと。しかし当の健作氏は青春ドラマのスターらしく?そんなことは一切気にしていないという。最近健作知事が羽田の国際化を優先的に進めるという前原大臣の言葉に鼻息を荒げて反応しているのを見て、この会食は成田空港会社側の目的を十分に達成したものとみた。

羽田の国際化がもっとも国益にかなっていることは誰の目にも明らか。早く実現してもらいたい。ただ今回のハブ空港論議で一つ思い出したことがある。石原都知事が最初に知事選挙に立ったときに公約としていた横田基地の国際空港化だ。個人的にはこれが実現すればさらにありがたいのだが、“内際分離”の原則についてコメントする都知事の口からはもはや横田のヨの字も出てこなくなっている。アメリカとの交渉が難しいことは想像していたが、今度は千葉県知事が成田の既得権の維持に走り始めているので、しばらくは議論すらできる雰囲気ではないだろう。

2009年10月12日月曜日

特別講義

仕事でお付き合いのある大学から『ビジネス英語』の特別講義の依頼を受けた。しかもテーマは私自身が到底得意とは思えない交渉術。いかにもこうしたことを教えそうなアメリカの大学院に留学していたからだろうか。

断るのが苦手な私は「私に務まるかどうか・・・」などど消極的な発言をしながら話が立ち消えになることを期待したが、こうしたやり方はこれまでの人生の中で成功した試しがない。私の消極的な発言もただの謙遜と受け取られたのか、今回も失敗に終わり、先月になって担当の先生から講義の候補日をいくつか提示された。もうこうなると後戻りはできない。

確かに留学先のアメリカの大学院で交渉の講義を受けたが、どちらかといえば条件交渉でどこを落としどころにすれば双方にとってメリットのある結論に至るかを定量的に分析するといったもので、交渉自体のスキルを磨くような内容ではなかった。民間企業に勤めていた時代を振り返っても、私の実際の経験といえばメーカー時代に行った赤字の子会社の合弁や売却の交渉と、投資銀行時代にやった顧客への営業活動くらいだ。最近は与えられた予算の中でサービスを提供するパブリックセクター絡みの仕事が多いため、交渉をすることもほとんどなくなっている。

とはいえ引き受けた以上はしかたがない。限られた交渉の経験をできるだけストレッチして、学生が社会人になっときに役立つと思える話をするしかない。準備の日数もあまりない中、過去の記憶をたどりながら考えた結果、交渉の成否を決める重要なポイントとして事前の準備、相手との関係作り、効果的なメッセージの伝え方、交渉の締めくくりについて話すことにした。

交渉の事前準備というのは単に交渉で相手に伝えるべきことや目指す結論について決めておくということにとどまらず、相手(の会社)の置かれた状況を調べてより効果的なメッセージを考えておくこと、そして自分に不利な状況があればそれをなくしておくことを意味する。人は自分(の会社)にとってメリットのあることにしか興味を示さないのが常なので、こちらが何かを売り込もうとしているときには一方的に熱意を伝えても無駄で、それが相手にとってどのようなメリットをもたらすかを納得させなければならない。この製品を買えば業務効率が飛躍的に向上するとか、このサービスを使えば社内の固定費を大幅に浮かせることができる、といったことだ。

また、自分にとって不利な状況がある場合は交渉に臨む前に改めておく必要がある。電機メーカー時代に毎年大きな赤字を出していたフランスの子会社の売却交渉を任されたが、最初に買収を申し出たイギリスの会社からのオファー金額は何と1フランだった(ユーロが導入される前の話)。赤字の原因はその子会社に営業力がなかったことで、営業力のあるイギリスの会社が買収すれば十分に利益が出る見通しがあったが、他に買い手がいないだどうと足元を見られていたのだ。このような状況のままで交渉に臨んでもこちらにとっていい条件を引き出せないことは目に見えていたので、この会社との実交渉に入る前にヨーロッパの同業者に声をかけてドイツの会社を新たな売却先候補として見つけてきた。そのことを知ったイギリスの会社はとたんに買収価格を引き上げてきた。

次に相手との関係作りだが、一回売り切りの商売でない限り交渉相手と初めて会ったときには今後の長い付き合いを見据えて好ましい印象を与えておくに越したことはない。身だしなみはいうまでもないが、笑顔で握手をするとか、相手の目を見て話すといったことは基本だろう。自分がそうするのと同じように相手もこちらが信用に足る人物か見極めようとしていることにも留意したいが、こればかりは自分と違う人物を演じてもいずれボロが出るので自然体でいくしかない。そしてすぐには本題に入らず、少し相手とおしゃべりをするのが望ましい。交渉相手が外国から来ている場合には日本は初めてか聞くのもいいし、天気の話でも景気の話でも時事ネタでもいい。これは交渉を行う雰囲気作りに役立つし、いきなり本題に入ってガツガツとした印象を与えないようにするためにも有効だ。

実際の交渉でのメッセージの伝え方だが、私の経験からいうとできるだけ少ない単語数で簡潔にポイントを伝えるのが効果的だ。我々日本人が外国語である英語で交渉する場合はなおさらだ。日本語で商談をするときには長々と周辺情報を述べた後で結論を伝えることが多々あるが、そうした周辺情報は結論の合理性を納得してもらうためのものだったりして、どうしても伝えなければならない内容ではない。英語でそれをやってしまうと肝心の結論がぼやけてしまいかねず、英語が母国語でない我々であればなおさらだ。私も何度も経験しているが、10を聞いて10が頭に残っている人というのはまずいない。よくて半分である。その頭に残っている半分の中に肝心のポイントが入っていなければ10話したこともすべて無駄になってしまう。

もう一つ交渉で重要なのは相手もだらだらと周辺情報を伝えて来ることがあるので、その中で何が自分にとって重要な情報なのかをしっかりと選り分けて、結論と関係ない情報は切り捨てて行くことだ。こうすることで頭の中が整理でき、目指す結論に持って行くことができる。また、相手がいいたいことが10あるのだったらさえぎらずに全部いわせることだ。そうしないと相手に“言い残した感”が残ってしまい、なかなかお互いが納得のいく結論に至れない可能性がある。内容が何であれ、相手がいいたいことはすべていわせた上で関係のない情報は自分の中で切り捨てていき、自分に受け入れられないないことには一言NO(できればI'm afraid not.)で返せばよい。

最後に交渉で出た結論は必ず確認しておく必要がある。何が合意され、お互いが次のステップとして何をするのかを確認するのだ。このステップを怠ると認識のズレが生まれ、交渉自体が無駄になってしまう可能性もある。

ここまで考えてふと思った。私が大学生のときにこのような実ビジネスで役に立つ話が聞けていたならどれほど興味深く、また社会人になった後に役に立ったことか。私に特別講義の依頼をした大学では度々ゲストを招いてこうしたレクチャーをやっているそうで、これはとても好ましいことに思える。積極的に引き受けた話ではないが、こうした取り組みの一助となる機会を与えられたことを前向きにとらえ、学生たちが聞けてよかったと思える話ができるように努めたい。

2009年10月2日金曜日

オリンピック招致

リオデジャネイロの順当かつ妥当な勝利。東京の案の定の敗退。すでに開催経験がある都市で、しかも同じアジアの北京でやったばかり。勝算が薄いことくらい誰の目にも明らかであっただろう。なぜ我々都民の税金を使ってこんなことをやってくれたのかと改めて思う。

開催地を決める投票に参加するIOC委員がもっとも重視するのは開催候補地の市民の支持率という。リオやマドリッドが8割を超えていたのに対して東京はダントツ最下位の56%だったという。百数十億円もの税金を使うならせめて招致に賛成するか都民に事前にアンケートをとってから立候補するかを決めるべきではなかったのか。私のまわりではきわめて関心は低く、招致を積極的に支持していた人は一人も知らない。日本国内の候補地選考で東京と争った福岡・九州であればまだましな数字が出ていたのではないかと思う。

一都民としてさらに気になったのが都庁職員の動員のされ方だ。この4年間もの間誘致活動に専念する人を何人も出せるほど庁内に人がだぶついているのか。今回のIOC総会を見物するツアーは格安な料金にも関わらず一般の参加者が集まらず、それを埋めるように都庁の職員が大挙してプライベートで参加したというが、それほど多くの職員が一斉に有給休暇をとっても業務に支障をきたさないくらい人に余裕があるのか。

今回の開催地選びでせめてもの救いはシカゴも事前の評価通りに敗れたことだろうか。開催地を選ぶ最近のIOC総会では国家元首クラスの参加が当たり前のようになっているが、人気のある大統領とその夫人が総会に参加して演説するという本質とは関係のないことで開催地の座を得てしまうようなことがあっては悪い前例をつくることになっていただろう。

2009年9月25日金曜日

民族大移動

5連休に能登半島を旅し、景気回復のヒントを見たような気がする。飛行機、車、鉄道という3つの交通手段で移動したが、能登行きの飛行機は何週間も前から満席、高速道路の値下げとの相乗効果か観光地や道の駅の駐車場には関東はもとより遠くは東北、北海道や九州のナンバープレートの車があって、連休最終日の東京行きの特急は指定席がとれないほど混雑していた。まるでゴールデンウィークのようで、やはり人は連休が長ければ長いほど遠出をしたくなるものらしい。私もサラリーマン生活が長かったので、いまだに週末や国民の休日でないと大っぴらに休んで旅行するのがためらわれる。

いつも行き当たりばったりの旅行でしのいできた私も今回ばかりはスムーズにいかなかった。連休初日に予約もないまま羽田空港に向かい、幸運にも間際に一席だけ空いたフライトに乗り込むことができ、能登空港でも3社あるレンタカー会社のうちの1社に1台だけ空きが出て車を借りることができたが、その後の宿探しは容易でなかった。それまで想定されていたよりも多くの人たちが能登半島におしかけたせいか、どの町でも宿がいっぱいの状態だったのだ。

一泊目は運良く穴水ですんなりと空いている旅館を見つけることができたものの、二泊目は相当数の宿に電話をかけてようやく輪島郊外に一部屋だけ空いている民宿を見つけた。三泊目に至っては予定していた羽咋(はくい)で空いていたのがあまり泊まりたくない雰囲気のペンションだけだったので、金沢まで出れば何とかなるだろうと夜道を車を走らせて行ったもののホテルはことごとく満室で、そこからさらに富山まで行き、親切な富鉄の職員さんの助けでようやく一軒だけ空いているホテルを見つけることができた。チェックインしたときには夜の10時をまわっていた。それでも旅行期間中毎晩宿が見つかったのは運がいい方だったらしく、朝市で有名な輪島では公共の駐車場に車をとめて夜を明かした人たちも多かったと聞く。

帰路は飛行機にするか鉄道にするか迷ったが、松本あたりでもう一泊することを想定して鉄道にした。ところが連休最終日の松本からのあずさ号の指定席がほとんど取れない状況と知り、運良く取れたその日の指定席でそのまま東京に戻ることにした。私が乗った車両の前が自由席の車両だったが、立ちっぱなしの乗客があふれ出ていた。

このような光景を見ると連休期間中に日本全国でどれだけの人たちが国内を旅行したのだろうかと思った。そして連休の日が一日少なかっただけで旅行に出る人の数も移動距離もずっと少なかったのではないかと想像した。今や観光客向けの商品を売る店ばかりになってしまった輪島の朝市を訪れる人たちの購買意欲は必ずしも高くないように感じられたが、それでも人が移動すれば宿泊施設や交通機関は潤う。また、都会に住む人が地方に出かけることの方が多いだろうから、今回の5連休は地方に相当な経済効果をもたらしたのではないかと思う。この上は(個人的な願望を含めて)祝日の並びに依らず、毎年秋の5連休をやってはどうかと思う。

2009年9月22日火曜日

フラッグキャリアの受難

経営危機を迎えている日本のフラッグキャリア。昨年株を買った身としては(もちろん優待券ねらい)実に悲しい…。この上は資本注入を受ける相手からなるべくいい条件を引き出してもらいたい。

しかし日本航空が経営危機に陥ったのは多分に人災の面があるように思う。例の新型インフルエンザ騒動だ。日本が政府とメディアをあげて大騒ぎをし、WHOも効果を疑問視していた水際作戦に多額の税金を浪費する一方で、作戦が不発に終わって感染が拡大し始めたとたん今度は感染者の“あらさがし”を始め、日本を公表数字上感染者が多い国にしてしまった。ほかの国で日本ほど感染が進んでいないわけはないだろうから、どれだけ積極的に調べて公表するかの違いだろう。日本のように新型インフルエンザをことさら大げさに心配し、かつ国民がすぐに医療機関で受診する国でなければ感染して治った人たちの数など把握しようがない。

こうした大騒ぎをした結果、日本から感染国とされた国々に行く予定だった人たちだけでなく、日本に来る予定だった出張者や観光客も渡航をキャンセルし、国際線への依存度が高い日本航空に大きな打撃を与えた。うちの会社もインドからJALで来日する予定だった人が日本での新型インフルエンザの感染拡大のニュースを聞いて、予定していた日本への出張を取りやめた。「あなたの国でもきちんと検査をすれば相当数の感染者がいるはずだよ」といいたいところだったが、もちろん口には出さなかった。

今も続く新型インフルエンザ報道。いったん大騒ぎをしたマスコミとしては今さら引っ込みがつかないのかも知れないが、季節性インフルエンザで死亡する人の絶対数や割合との対比はいまだに聞かれず、“新型”というだけで大騒ぎを続けている感が否めない。これがグループ企業を含む従業員数が5万人近い一大航空会社の経営を傾け、国内の観光産業に大きな打撃を与えたとなると日本は自作自演のパニックで自滅したといえよう。

2009年9月12日土曜日

ショパンコンクール

金曜日に同じ年にソニーに入社した女性(中野ブロードウェイ近くの老舗甘味処の娘)から“ショパンコンクール”なるタイトルのメールが届いた。何事かと思って開いてみると、何と我々の同期入社の木下君が国内の選考をパスし、ワルシャワで行われているショパン・コンクールに参加しているとのこと。そして翌日には本人から同期会のメンバー宛てに二次選考もパスし、本選に進むことができたとのメールが来た。

コンクールのウェブサイトを見ると本選出場者はわずか8人。世界各国で行われている予選に何人が参加したかわからないが、その枠に残れたこと自体が大変なことというのは想像がつく。しかも彼は私と同年代のサラリーマンで、この20年間は一日中練習に没頭できる身ではなかったはず。無芸小食?の私には想像がつかない快挙だ。

私はこの木下君のことを実はよく知らない。バブル景気が始まる前とはいえ、四年制大学卒業の文系採用者だけでも140人余りいたため、同期会のメールがまわってきても半分くらいは顔が思い浮かばなかったりする(私が友だちが少なかっただけかも知れないが・・・)。また、私が本社に配属されたのに対して木下君は今の本社ビルが建っている芝浦の事業部配属だったので顔をあわせる機会もなかった。

同期の集まりなどで彼の話題がのぼることがあったので、同期入社にピアニストがいることは認識していたが、彼はピアノの練習が忙しかったのか、そうした飲み会で見かけた記憶もない。何ヶ月か前に彼の演奏がYou Tubeにアップされたとの連絡を受けて見てみたが、やはり見覚えがなかった。演奏は素人目にもすばらしかったが、よもやショパンコンクールに出るほどの腕前とは思わなかった。

面識はないとはいえ、同期入社の仲間。この上はアーチェリーの山本博氏、スーザン・ボイルに続く◯年の星として健闘を祈りたい。

2009年9月6日日曜日

バランス感覚

衆議院議員選挙の投票日、まだ投票が行われている最中の昼の日中に知人から「民主党圧勝」のメールが来た。知り合いに投票所で立会いをしている人がいるとのことだったが、投票に訪れる人たちが誰に投票しているかはわからないはず。後で聞いた話では、投票用紙を二つ折りにせずに投票箱に入れる人が多くて立会人から丸見えなのだそうだ。案の定、民主党が大勝した。

政治学を専攻していた大学時代、選挙報道が有権者の投票行動に与える影響を研究テーマに選ぼうとした。有権者のバランス感覚が働いて事前報道で優勢と伝えられた政党から票が逃げるとする説と、逆に勝ち馬に乗ろうとする人が出てよけいに差がつくという説があるが、いずれも検証されておらず、個人的に興味をもっていたテーマだった。ゼミの教授も大いに賛成してくださったが、結局検証の方法で行き詰って断念した。

バランス感覚が働く人たちは確かにいるようだ。友人の一人は事前の予測で民主党が大勝すると報じられたので小選挙区では公明党の対立候補に入れようと思うといった。民主党に大勝させないために学会員でもないのに公明党に入れようとするというのにはいささか驚かされた。しかし今回の選挙はそうしたバランス感覚を働かせる一部の人たちの投票行動をも吹き飛ばしてしまうくらい強い意思をもって民主党に票を投じた人が多かったようだ。同僚はふだん投票所で見かけない風貌の人がおおぜい来ていたといい、別の知人は投票所に長い行列ができていたのでいったん家に戻って後で出直したという。かつて民主党の小沢氏が、国民が生活に不満をもったときに政権交代が起きるといっていたそうだが、今まさにそのような状況なのだろう。

私はバランス感覚を働かせようとする友人に対し、民主党が安定多数を確保した方が責任の所在がはっきりしていいではないかといった。選挙が終わってもその考えに変わりはないが、大敗を喫した自民党で小選挙区での辛勝または比例代表での復活当選でかろうじて残ったのがあまり先が長くなさそうな人たちばかりなのを見て、いよいよ始まったと思っていた二大政党制が早くも崩れ去ったとの印象を受けた。この上は民主党の政治が行き詰まったときにそれに代わりうる、利権絡みでない新たな政治勢力の台頭に期待したい。

2009年8月29日土曜日

総選挙雑感

以前のブログで予想した通り、与党のネガティブキャンペーンはすさまじい。こうした相手の悪口はアメリカでは当たり前に行われているが、日本人の美意識にはそぐわないものと思っていたが、果たしてこうした戦略が功を奏するのだうか。長年政権にあった政党だったらもっと堂々と戦ってほしいものだが、それほど追い詰められているということかもしれない。

いつもは当選するのが当たり前とばかりにろくに地元で選挙運動をやってこなかった私の選挙区選出の有名与党代議士も今回は駅前で一生懸命握手している。人間は握手をするだけでその人に投票したくなる心理が働くと聞くから選挙カーの上から演説するよりも確実な票の積み上げにつながる正しい戦略かもしれないが、与党への逆風に加えて野党側がテレビによく出る現職代議士を対立候補にぶつけてきたことへの危機感からやっているのだとすれば、ずいぶんと現金なものだ。

かつて曖昧で、ある種無責任な口約束だった選挙公約がマニフェストとして広く周知が図られるようになったことは日本の政治にとって大きな前進だろう。以前のブログに書いたように私は移民政策の見直しに賛成で、外国人参政権には反対、高速道路の無料化などの受益者負担の原則に反する政策にも反対なので与党候補の政策に賛成するところも多いが、国の無駄遣いをなくさずに増税するのは受け入れがたい。私が仕事を通じて目にする範囲でも日本の政府系組織や天下り団体のお金の使い方は目を覆いたくなる。正直なところ、仕事面ではそのおかげで助かっているところも実はあるのだが、納税者の立場からすると到底納得がいかない。

ただ、私自身がそれほど理性的な投票行動をとっているかというと実はそうではない。今回もすでに期日前投票を済ませたが、これまで常勝だった与党候補の事務所に電話をかけたときに職員の応対があまりに横柄だったので、いくら政策に賛成できてもこの候補に入れる気にはならないのだ。本人の責任でないことは重々承知している。一方で最高裁裁判官の国民審査はきちんとそれぞれの裁判官が下した判決を吟味し、理性的な判断をしたつもりだ。特に今回は衆議院選挙の一票の重みの格差を合憲とした判事が審査の対象になっていたのでこれらの人たちにはバッテンをつけさせてもらった。一票の重みの平等は民主主義の基本であり、二院制の場合は一方をアメリカ議会の上院のように地域代表性を重んじる議席配分にしても、もう一方、特に優越的な権限が付与されている方は一票の重みを平等にしなくてはならない、と私は思う。

常に政権交代の可能性があるという状況は政権にある党に緊張感を与えるという意味で好ましいことと思うが、日本では長い間そのような状況が存在しなかった。大学で政治学を専攻していたとき、著名な政治学者でもあったゼミの先生が20世紀中は自民党が政権を失うことは考えられないといわれていたことを思い出す。厳密にいえば1993年から94年にかけて10ヶ月ほど下野したが、両院で過半数を有する政党(連合)に政権を明け渡したことはない。あれからはや20年。いよいよその日がやって来るのだろうか。

2009年8月22日土曜日

インターン

私の会社では、多摩地区のある大学からの依頼で昨年から夏に2週間ほど学生をインターンとして受け入れている。この大学は電機メーカー時代の同僚が非常勤講師として教えており、学生の語学留学先としてシアトルの大学を紹介したことから外国語学部の先生方とご縁ができた。うちのような零細企業にこうした依頼が来るのは多摩地区に比較的近いロケーションであること、そして一応国際的なビジネスをしているのが外国語部学部の学生の働き先として好ましく思われたからと想像する。

インターンというのは学生と企業の双方にとって実にいい制度と思う。学生側にとっては大学の講義では学べない実社会での生活を一足先に味わうことができるし、進路を決めていれば希望の業種なり職種なりを試しに経験してみることができる。就職した後になって想像と違っていたとなると大変だが、インターンとして経験しておけばより確信をもってその方向に進むことができよう。私が大学在学中にこのような制度があれば、社会人になってから何の役に立つかもわからない講義を受けているよりはよほどためになったような気がする。

インターンの制度は企業側にとってもいい学生を卒業前に見つけておけるというメリットがある。ここでいう“いい学生”というのは仕事ができるという意味であって、偏差値が高い大学に通っているとか学力が高いという意味ではなく、両者は必ずしも一致しない。仕事ができるかどうかは実際にやらせてみなければわからないが、就職面接に来る学生の能力をその場で見きわめる方法はないので、企業は往々にして学歴などを判断基準にしてしまうのだろう。大学をあまり選別しすぎず、広く学生をインターンとして受け入れれば、その企業にとって必要な人材を見つけ、採用に結びつけることもできよう。

仕事の能力という点についていえば、たとえば顧客の前に立つ業務と裏方の業務とでは必要とされる能力も異なる。しかしどの会社でももっとも大きなウェイトを占めるのは地味な下調べやデータ作成、資料づくりなどの業務で、こうした業務を正確かつ迅速にこなせる人材が確保できれば経営の効率も高まる。こうした業務を行う能力は何も学歴や学力に比例して高いわけではないが、いわゆる一流大学出の学生ばかりを採用している企業ではそうした人たちがそのような業務にあたることになる。彼らにもっと適した業務があるとすれば、こうした人たちが一部の大企業に集中してしまうのは経済全体にとってマイナスだろう。

インターンの学生には当然ながらこうした地味な裏方の仕事しか任せることはできないのだが、今年私の会社に来たインターンの優秀さには驚かされた。同僚が1週間はかかると思って頼んだデータベースづくりを3日で終え、丸一日はかかると思ったウェブ検索や名簿のアップデイト、宛名ラベルづくりなども、ものの半日で終えてしまった。私が学生のときを思い起こすととても彼ほど仕事はできなかったように思う。

彼が通っている大学は多摩地区の中でもいわゆる偏差値が高い名の通った大学ではないが、多くの企業が必要としている業務の遂行能力の点で、彼はそうした大学の学生に比べて遜色がないどころかもっと上を行っているかもしれない。彼の大学の教務課が許せば引き続きアルバイトとして来てもらい、うちが新卒を採用できるような会社であれば採用を真剣に考えたいくらいだった。インターンを受け入れる企業がますます増えて彼のような才能を発掘するのに役立つことを願いたい。

2009年8月16日日曜日

足裏マッサージ


私の最近の密かな楽しみは渋谷の公園通りにあるマッサージ屋に行くこと。ご存知の方も多いと思うが、公園通りはマッサージ屋の激戦区。私もいくつかの店を試した末にここに行き着いた。

中国風の店名から察しがつくように台湾人の人たちがやっている店なのだが、ホームページからダウンロードできるお試しクーポンを何度持って行っても文句をいわれたことがない。日本人経営の店だとこうはいかないだろう。また、タイマーできっかり時間を計る日本人経営のマッサージ屋と違い、決められた時間を超過しても一通りの施術が終わるまで続けてくれる。

しかしこうしたことだけではもちろん常連にはならない。ここの施術師は腕が確かなのだ。足裏マッサージはサラリーマン時代にシンガポールに行った際に現地に赴任していた先輩社員に連れて行ってもらって以来、マレーシアや日本国内でも何度かやっているが、ここは足の裏のつぼが内臓につながっていることが実感できるくらいぐいぐいと効いてくる。全身マッサージも蒸しタオルで体を温めながらやるなどかなり本格的。しかも何人もいる施術師の誰にあたってもはずれがない。

この店は規模からしてもちまたにあふれる怪しげな中国式整体とは一線を画す存在で、どのようにして施術師を採用あるいは教育しているのだろうと不思議に思っていたが、あるとき若い施術師の一人に聞いてようやくなぞが解けた。ここで働いている施術師は高雄の中医学の学校に通う学生で、実地研修を兼ねて一定期間日本で働いているとのこと。どうりで腕がしっかりしているわけだ。

以前は月に一度行くか行かないか程度だったが、すっかり常連扱いでいつ行っても割引料金を適用してくれるので最近は月に2、3回のペースで通っている。しばらくはやめられそうにない…。

2009年8月7日金曜日

築地


前回商工会議所のイベントに出ても、ものを売りたい人ばかりが集まって買い手がいないのでしかたがないと書いたが、会員になってから外国の企業からの問い合わせが来るようになった。おそらくうちの会社の概要が会議所が運営する英語版のウェブサイトに掲載されたからだろう。

そのうちの一社に日本に魚介類を売りたいというパキスタンの水産会社があった。メールの署名をみると同国の元首相で暗殺されたブットー元首相の父親でもあるズルフィカール・アリー・ブットーと同姓同名だった。インドでいえばガンジーみたいな響きだ。それだからというわけではないが、日本での市場性を探るために同社が扱っている何十種類にも及ぶ魚の名前を訳して(辞書に載っていないものが多く、日本語名を調べるのが結構たいへん)、以前仕事でお付き合いのあった築地の大手卸売会社の社長を訪ねた。

社長はヘッドハンティングだとか同業者への転職が少ない業界にあって珍しく大洋漁業(現マルハニチロ食品)から招かれた人で、後になって興銀の常務から大洋漁業の副社長になった私の祖父をご存じであることを知った。何でも外語大のロシア語科を出て大洋漁業に入社したときの配属先(国際部)の担当役員だったとかで、まさに“雲の上”の人だったそうだ。サラリーマンは誰しも新入社員の時代があるが、父の世代の会社社長が新入社員だった頃というのはなかなか想像ができない。ただ祖父はその社長と親子ほど年が離れていたわけだから、私がサラリーマン時代に自分の父親と同年代の役員を見ていたのと同じ感覚で見られていたというのは想像がつく。

その祖父は父の赴任で私の家族がアメリカに住んでいる間に他界した。ずいぶんかわいがってもらったと聞くが、渡米する前の幼児の頃、休みの日に近所のおもちゃ屋に連れて行ってもらったことや、お土産にやどかりやパンを持ち帰ってきてくれたことをおぼろげながら覚えている。その後祖父はがんを患い、我々が一時帰国したときにはすでに病床にあった。不思議なことに今でも祖父の姿を思い出すことができるのに、声はどうしても思い出せない。もちろん祖父の職場での顔など知る由もなく、実家の仏間に残っているロシア(当時のソ連)との漁業交渉のときのものと思しき写真を見て想像をめぐらすくらいだった。

7年ぶりに訪ねた卸売会社の事務所は築地の市場の建物の一画にあり、当たり前だが4年前に行ったときとまったく何も変わっていなかった。丸の内の旧丸ビルも日比谷の三信ビルもなくなってしまった今、これほど戦後の時代を感じさせる建物は東京にあまり残っていないのではないかと思う。まるで昭和30年代の映画かテレビドラマの中にいるようで、まさに祖父が現役だったころを体感できる空間だ。都議会議員選挙で民主党が勝利したことで築地市場の移転がどうなるかわからなくなったというが、こうした建物が失われるのをもったいないと思うのは単なる懐古趣味だろうか。

2009年8月1日土曜日

デフレ時代

一ヶ月ほど前、事務所の近くのインド料理屋の前を通りかかるとランチ680円の看板がかかっていた。もとは850円だった。それからしばらくして行きつけの中国料理屋に行くと1050円だったランチの定食がいつの間にか950円に下がっていた。私の好物の鴨肉チャーハンも1200円が1050円になっていた。注文してみると味も盛りつけも以前と変わらない。むしろ鴨肉の量が増えた気がする。

円高で輸入食材が下がったのはかなり前の話。やはり不景気で客の入りが減り、値下げを余儀なくされたものと思われる。一般の飲食店でこれほど値下げが目につくのはバブル崩壊後の景気低迷期にも見られなかったことで、最近よく「これまでの不景気とは違う」ということばが聞かれるのもうなづける。

新宿の大手デパートに勤める知人によると所得の二極化がいわれていた頃に売れていた高級品も売れなくなり、比較的お金があるはずの中高年層もますます価格に敏感になっているという。一方、円高・ウォン安のメリットを最大限に享受できる韓国のデパートは日本人観光客であふれかえっている。

企業はどうかといえば、今年加入した商工会議所のイベントに出るとサービスを売りたい企業ばかりが集まって、肝心の買い手がいない。名刺交換をした企業から熱心な売り込みをされると、うちのような零細企業を相手にしなければならないほど困っているのだろうかと思う。特に不要不急のサービスを提供している企業はたいへんなようだ。

株価の動向を見る限り新興国の多くは再び成長起動に戻りつつあるように見える。こうした国々への輸出が回復すれば景気も上向くのかも知れないが、いったん価格に敏感になってしまった消費者が再び財布のひもを緩めることはあるのだろうか。今年はいよいよGDPで中国に抜かれるそうだが、内需の差はますます広がりそうだ。

2009年7月25日土曜日

ソウル


実質20年ぶりのソウル。ずいぶん近代的な町に生まれ変わっていて驚いた。厳密にいえば7年ぶりだが2002年に当時勤めていた投資銀行の仕事で来たときには、会社が用意してくれたリムジンで当時開港したばかりの仁川国際空港と滞在先のホテルを往復したくらいで、町をゆっくり見る時間もなかった。

短い滞在なのでなるべく移動時間を短くしようと羽田・金浦間のシャトル便に乗ったが、その効率のよさに驚いた。羽田空港のこじんまりとした国際線ターミナルに入るとすぐにカウンターと自動チェックイン機があり、その裏手には出国審査場、そして階上の待合室へと続いている。行列することもなくすぐにゲートにたどり着いた。金浦空港でも同様で、ゲートから入国審査場まですぐ、税関も行列もなく、あっという間に入国できた。パスポートを携帯しなければならないことを除けばまさに国内旅行感覚だ。中国に行くときもぜひ羽田を利用したい。

大学時代の秋休みに初めて韓国を訪れて以来、会社の同僚などと何度か訪れたが、日本の航空行政の失敗も手伝って近年著しい発展を遂げている新しい国際空港(仁川)とは対照的に、かつてソウルの玄関口だった金浦空港もすっかり静かな空港に変わっていた。また、空港と市の中心部も近代的な地下鉄で結ばれており、路線図を見ると以前はバスかタクシーでなければ行かれなかったところへも市内を縦横に走っている地下鉄で行かれるようになっていた。

ひとり旅なのでホテルは市内に今年開業した大手財閥系の高層ビジネスホテルを予約した。空港から乗り換えなしで行かれ、市内のおもだった場所へのアクセスもよさげというのが選んだ理由だが、ウォン安とはいえ一泊1万円しないので部屋にはあまり期待していなかった。ところがいざチェックインすると真新しい部屋は東京の一流ホテル並みの広さで、機能性重視で無駄なものがいっさい置かれていないが、内装や家具は洗練されていてきわめて快適に過ごすことができた。嬉しい驚きだ。

週末に予定がなかったために対馬にでも行こうと思い立ったが日程的に難しく、比較的アクセスがよいソウルに決めたのだが、これといった目的もなかったので町をぶらぶらと歩き回り、あちこちで“買い食い”をしながら過ごした。20年前は道路沿いに屋台が並んで日本人とみれば高い値段をふっかけられたものだが、今は屋台が減り、壁にお品書きが掲げられたこぎれいな店に変わっている。日本語のブログに載っていたテンジャン・チゲの店は行列ができるだけあって実に美味で連日通ってしまった。

新大久保に行けば韓国のものは何でも手に入る時代。中央線沿線の人間としてはソウルまで出かける動機づけが薄くなっていたが、これほどアクセスがよく、国内旅行感覚で行かれるなら、気分転換にまた行ってみたいと思った。

2009年7月20日月曜日

トムラウシ

この山の名前をこのような形で聞くことになろうとは思いもよらなかった…。

大学生のとき、所属していた山岳サークルの夏合宿で1週間余りかけて大雪山系の山々をめぐった。我々が訪れた8月には高山植物の花の見ごろも終わっていたが、美しい山並みと夏の日差しを受けて眩いばかりに光り輝く木々の緑が今でも脳裏に焼きついている。

当時我々が恐れていたのは悪天候ではなくヒグマとの遭遇だった。ヒグマは人が近づくと自分から遠ざかるが、突然遭遇すると襲ってくるということだったので、見通しの悪い森の道を歩くときは皆で準備しておいた笛を吹きながら進んだ。我々がもう一つ心配したのはキタキツネなどを媒介にするエキノコックスという致死率の高い風土病への感染だったが、潜伏期間が10年もあると聞いて自分が30歳を過ぎるのが想像もできない遠い未来のように思えたことを思い出す。その2倍以上の月日が経過した今も元気で生きられているのはありがたいことだ。

今回の事故の報に触れてシルバーの人たちがしかも観光ツアーで行く場所になっていたことを知って驚いた。私が行った当時は時折ほかの大学の山岳サークルの人たちを見かけるくらいで年配の人をお見かけした記憶はない。日本アルプスの山々ほどの標高や険しさはないが、若者の足でも決して楽な行程でなかったと記憶している。しかも天候が悪化すると極楽浄土のような風景は一変し、山肌が露出しているところでは先に進むのがたいへんなくらい強い風と雨が真横から吹き付ける。

しかし考えてみれば私もあと20年もしないうちにその年齢に差し掛かる。いつかまた行ってみたいと思いつつ20年余りの月日が経ってしまったが、現役で仕事をしているうちは昔の山登り仲間と申し合わせて長い休みをとるのは難しく、退職してからツアーに参加するのも無理からぬことのように思える。私自身も似たような状況にあり、脳裏に焼きついたあの景色がますます遠く感じられる。

2009年7月11日土曜日

政権交代前夜?


仕事柄、外国の大使館が主催するイベントにお招き頂くことがある。企業スポンサーがつくイベントであれば、たとえばアイルランドならギネスビール飲み放題、アメリカであればクリスピークリームのドーナッツ食べ放題、スターバックスのコーヒー飲み放題と、中年健診ですべての数値がメタボを示している人間には目の毒だ。

先日出席したアメリカ大使館主催のイベントでは大手ファストフードチェーンの出店と並んでオバマ大統領ご推薦のメニューと称した料理がいくつか並べられていた。七面鳥のチリビーンズとクラブサラダはまずまずだったが、“ミネソタライスサラダ”なる料理はあまりのまずさに一口食べて全部残してしまった。ふだん食べ物を無駄にしないように心掛けている私もお手上げのまずさで、失礼ながらオバマ大統領は相当な味覚音痴なのだろうかと思った。

ドミノピザのコーナーではフレンチばかり食べていそうなイメージの有名料理研究家がピザにパクついていて、クリスピークリームのドーナツをお土産に配りはじめたときにはテレビでよく見かける有名弁護士が真っ先に列に並んでいた。いずれもイメージ的にいかがなものかと思ったが、自宅でデリバリーピザをとったりドーナツ屋の前で行列するよりは、限られた人しかこないこうしたイベントの方が“棄損度”が低くて済むという計算なのか…。

それはさておき、大使主催のイベントでは日本の有力政治家が招かれることがよくあるが、今回のアメリカ大使館主催のイベントには何と共産党の委員長が来ていて、臨時大使といちばん長く話をしていた。時代は変わったものだ。また、最近のイベントでは来賓の顔ぶれから民主党のプレゼンが非常に高まっているのを感じる。ヨーロッパの某国主催のイベントでは与党をさしおいて民主党出身の参議院議長が挨拶に立っていた。これも日本での政権交代を見越しての人選だろうか。

首相の不人気ぶりに、吉田茂の孫が自民党最後の首相となるなんてこともありうるのではないかと思っていたが、最近になってますます現実性を増してきているように思える。選挙に勝つためには票を稼げそうな有名人の候補を立て、過半数の議席を獲得できなかったときにはイデオロギー的に相容れない政党と組んでまで政権を維持してきた党なので、ひとたび政権を失ったら議員の心も離れ、分裂しないとも限らない。もちろんこれまで政権を維持するためにそのしたたかさを存分に発揮してきた政党なので、そうした事態を阻止するために色々な手を使ってくるだろう。今度の衆院選はダーティーな戦いになるのだろうか…。

2009年7月4日土曜日

大崎

元同僚たちとの久しぶりの飲み会。場所はかつて本社があった大崎。職住接近となった今は山手線で渋谷より先(品川方面)に行くことはめったになくなり、メーカー勤めをしていた頃に毎朝通っていたところに行くのがちょっとした遠出に感じる。

それにしても大崎の変貌ぶりには驚く。私が入社した頃には山手線で一、二を争うショボい駅だったのが今は臨海線だの湘南ライナーだのが停まる立派な駅になっている。周辺も再開発が進み、私が入社して間もなく建てられたニュー・シティと呼ばれる駅ビルも近代的な高層ビルに囲まれてすっかり“オールド・シティ”の様相を呈している。

元同僚との飲み会では当然のことながら会社で起きていることや元同僚たちのこと、経営陣のことなどが話題となる。会社を辞めてから時間が経てば経つほど社内の話題にもついていかれなくなるものだが、元同僚の大半は会社に残っており、まだ辛うじて話についていかれる。

我が古巣の電機メーカーは元同僚の一人が“土砂降り”と評する厳しい経営状況だが、近所の商店街にあるソニーショップで薄型テレビやDVDデッキが大安売りされているのを見るとその深刻さが察せられる。社内のムードも停滞気味らしく、元同僚からは「やめられるものならやめたい」といった本音もこぼれる。しかし新卒で大企業に正社員として雇われた立場は雇用の安定性の面でも報酬の面でもかなり恵まれているので定年を待たずに辞めてしまうのはもったいない気がする。特に私と同年代であればあと20年の辛抱ではないか。

話題はさらに芝浦に建った新しい本社ビルに及んだ。昔から立派な本社ビルを建てたメーカーは経営が傾くといわれ、同業の電機メーカーも同じ憂き目に あっているのにこの本社ビルはかなり立派なものらしい。館内には業績発表などで使われる大きなホールに加え、いかにもエネルギーを消費しそうなエレベー ター、さらにショッピングモールでもなかろうにほとんど誰も乗っていないエスカレーターが一日中動いているという。「あんなところにいたらドーパミンが大 量に分泌されて危機感など持ちようがない」のだそうだ…。

こうした株主にとってありがたくない話を含めて同社のやることは経済状況が変わっても、経営環境が変わっても、業界の勢力図が変わっても、私がいた当時とあまり変わっていないように感じられる。同社の変わらなさは大崎の発展ぶりとは対照的だが、思い出の場所で昔の同僚たちと会うのはいつも変わらず楽しいものだ。

2009年6月27日土曜日

中年健診

区役所から来る健診の知らせ。サラリーマン時代は毎年誕生月に会社で行われていたので年齢を意識することもなかったが、国民健康保険の場合、40の声を聞こうかという頃にお声がかかり始めるので否応なく中年の域に達したことを認識させられる。今年の誕生日を経てもはやアラフォーとはいえなくなった身としてはさすがに受け入れざるを得ない現実だが、それにしても最近は年をとっていくことがどういうことかを知らされる機会が増えた。

今年の前半は出張などで長時間飛行機に乗ることが多かったが、機内エンターテインメントで音楽を聴くとき、自分がリアルタイムで知るなじみの曲が懐メロ(またはオールディーズ)扱いをされていることが多くなった。20代の頃は懐メロといえば自分が生まれる前、あるいは物心つく前に流行っていた曲というイメージがあったが、確かに今の20代が生まれた頃、あるいはその前に流行っていた曲をリアルタイムで知っている年齢になってしまった。

先日他界したマイケル・ジャクソンの全盛期ももちろん余裕で記憶している(ジャクソン・ファイブではない!)。1982年に大ヒットアルバム“スリラー”がリリースされたときは高校生だった。大学一年のときにはクラスメートが銀座のソニービルでマイケルを見かけて声をかけ、握手まで交わしたという。私は昨年渋谷の公園通りのパチンコ屋にいるところをたまたま通りがかったが、人だかりで姿を確認することすらできなかった。年齢を経て老化とは別の意味で容姿が変わっていったため、享年50と聞き、もうそんな年になっていたのかと驚いた。

仕事上接する人たちも自分より若い人たちがますます増えていくように感じる。もちろん自分より年上の人たちもまだまだ活躍しているが、当り前のことながら年々自分より若い人たちの比率が増えていく。特に海外のお客さんの場合、自分より若い人がかなりの要職に就いていることも珍しくない。今年就任したばかりの契約先のアメリカ及びイギリスの政府機関のトップはいずれも私より若い。日本のように年功序列でないのはわかるが、私と同年代以上の人たちはいったいどうすればいいのだろう。

ロシアの大統領も次期イギリス首相と目される保守党の党首も私より若い。こうして国家のリーダーも企業経営者も自分より若い人たちが占め、自分の世代がどんどんと過去の人になっていくのが想像できるようになった。もはや大企業のサラリーマンではないのだから若手に煙たがれていることに気づかずいつまでも会社に残って“老害”をばらまく心配もないし、今は与えられた仕事が続く限りそれをまっとうするのみと考えているが、いつどのような形で終わるかもわからない現役の後のことを考えなければならない日もそう遠くないかもしれない。

2009年6月21日日曜日

株主総会

古巣の電機メーカーの株主総会。昨年同社の株を買ったので時間があれば行こうと思っていたが、結局忙しくて行かれなかった。

わざわざ株主総会に行こうと思ったのは株価のせいではない。今の倍以上の価格で買った人はともかく、私の場合は金融危機で株価が暴落した後に今の価格より4割以上安く買っているので株価に関しては文句をいう立場にない。むしろ経営陣に為替や景気の動向次第で赤字に転落してしまう今の体質を抜本的に変える施策があるのか探りたかったのだ。それがなければ長期的に株を保有し続けるのは躊躇される。

この数か月同社の株価が上がってきたのは市場全体が上がってきたからで同社固有の要因によるものではない。むしろ同社を取り巻く環境は他の業種にも増して厳しいように見受けられる。かつてコンスーマー・エレクトロニクス業界は実質的に日本のメーカーどうしの競争だったのが、今は圧倒的なコスト競争力をもつアジアのほかの国のメーカーと競争しなければならない。コストベースが全く異なる相手と同じ土俵で戦っているのだから、相手に合わせて価格を下げれば当然利益はあがらない。その結果、同じ価格帯で売っても利益があがる(あるいは赤字にならない)他国のメーカーに比べて将来に向けた投資を行う資金的余裕もなくなり、競合上さらに不利になる。そうなるとまさにじり貧だ。

こうした状況は今に始まったことではなく、円安や好景気で過去最高益を出した2年前も厳然と存在していた。過去最高益というのはあくまでその会社の過去との比較であり、しかも会社の規模も変わっているので利益の絶対額をもって単純に業績の良し悪しは語れない。本来は同じ時に同じ環境下で戦った国内外のコンペティターに比べて相対的にどうだったのかという視点が必要だろう。

今年の総会でも経営陣からじり貧のリスクを脱する根本的な解決策は聞かれなかったようだが、あえて触れなかったのかそれとも考えてもいないのかが気になった。ハードとソフトの融合だとかネットワーク事業だとかは方向性としては正しいのかもしれないが、社員の大半が旧来のエレクトロニクス事業に従事している中で、それだけで問題は解決するだろうか。

株主総会まで3週間となったある日、同社の本社に勤務していたときの同僚から突然退社の挨拶が来た。そこには「今のような不況下で会社を辞めるのはリスキーと思ったが、会社に残る方がもっとリスキーな気がする」と書かれていた。株主としては聞きたくないセリフだった。リチウムイオン電池の技術を足がかりにした自動車産業への参入など、株主にも本社の社員にも知らせていない大きな秘策がいくつもあることを願いたい。

2009年6月13日土曜日

ウミガメ


スリランカで印象に残った場所の一つにタートルファームがある。南部の浜辺のすぐ近くにある施設で地元のNPOが運営しているという。ここでは浜辺に産み落とされたウミガメの卵をふ化させ、生まれてきた子ガメをしばらく水槽に置いてから海に放つのだそうだ。何でも一日、二日安全なところで育てるだけで海に放った後の生存率が飛躍的に高まるのだという。水槽がいくつかあるだけの簡単な施設なので、日本の産卵地でも作れないものだろうかと思った。

ウミガメといって思い出すのが電機メーカーで過ごした最後の年となった2000年にダイビング仲間と訪れた東マレーシア・ボルネオ島沖にあるシパダン島だ。水深600メートルの海底から隆起した島で、浜辺から海に入ると海底が果てしなく落ち込む迫力に圧倒される。海水の透明度は高く、ほかでは見られないような大量の魚の群れをそこかしこに見ることができる。日本の近海でウミガメを見ようものなら皆大喜びするところだが、シパダンではあまりにふつうに泳ぎ回っているのでありがたみがなく、しまいに「お前はもういいから、あっちに行ってくれ」とでもいいたくなる。

ある晩、ダイビングのガイドがウミガメの産卵を見に行こうというのでついて行った。月明かりと懐中電灯の光をたよりに人気のない浜辺を進むと、木のたもとに2、3人の人が集まっているのを発見した。覗き込むと大きなウミガメが産卵中だった。はじめて見るウミガメの産卵風景に感動したいところだったが、まわりにいたガイドにも観光客にも見えない怪しい風貌の人たちが何をしにそこにいたのかが気になった。しかし彼らがその後何をしたのか見届けることなくガイドに引率されて宿に戻った。

我々が帰国した数週間後にテレビのニュースでシパダン島に滞在していた外国人観光客がフィリピンのイスラム過激派組織アブサヤフに誘拐されたことを知った。あらためて地図で見てみると、この孤島はマレーシア、インドネシアとフィリピンの三国に囲まれていて、警備兵も立っていないことからどこからでも簡単に上陸できるように感じられた。ウミガメの産卵場所にいた人たちもどこの国から来た人かわかったものではない。その後2004年にシパダン島は立ち入り禁止となり、宿泊施設もすべて立ち退いた。

シパダン島に行くのが難しくなるとウミガメと一緒に泳げることのありがたみがにわかに増す。今回はモンスーンで海が荒れていたため海水浴すらできなかったが、今度スリランカに行ったときには是非タートルファームの沖合を潜ってみたい。

2009年6月6日土曜日

白毫銀針


スリランカ滞在中、ひょんなことから島の南部にある茶園を訪ねることになった。ここは中国宋代の徽宗帝の時代に作られていた白毫銀針(はくごうぎんしん)と呼ばれるお茶を、本国ではすでに廃れてしまっている伝統製法で作り続けている。白毫銀針は新芽の芽の部分だけを使って作られるため生産量が極端に少なく、茶摘みをする際に金のはさみで切った芽を金の器で受け、皇帝の口に入るまで人の手に触れることはなかったという。そしてその製法は門外不出で口外した者は死罪に処せられたというから驚く。その値段もビックリだったが、せっかくの機会なので話の種に一箱買って来た。

ここの茶園では何と烏龍茶も作っていて、これがまた独特の甘みがあって美味しい。同じ木でもスリランカは土壌がいいので他の国よりもおいしいお茶ができるのだという。コロンボにあるオークション会場では一年中オークションが開かれていて、日本のバイヤーは一番いい時期の一番いいお茶を高額で大量に購入するため、市場価格が一挙に跳ね上がるのだそうだ。日本人が海外で買い占めるのは最高級マグロだけではないようだ。

茶園の中にあるお茶の製造所を見学させてもらった後、茶園主の案内で様々な紅茶のテイスティングをさせてもらった。テイスティングルームの壁には弁護士をしているという茶園主の息子たちの写真があり、イギリスの大学の卒業式と思しき一枚には何とあのマーガレット・サッチャー元首相と握手しているツーショットのものもあった。茶園主の家はスリランカ独立後いったん茶園を接収され、その後その一部を取り戻して今日に至っているという。地元では相当な名士の家らしく、1971年にシンガポールのリー・クアンユー元首相がスリランカを訪れた際には自らが理事長を務めるゴルフ場で一緒にプレイをしたそうだ。

今なお海岸沿いに残る屋根や窓ガラスのない廃墟など、インド洋大津波の爪痕が残るスリランカ。タイのプーケットでは津波の被害を想起させるものをすべて取り払って何事もなかったかのように観光客を受け入れているというが、スリランカの場合は内戦でそれどころではなかったのかもしれない。しかしリー・クアンユーをしてシンガポールをスリランカのような国にしたいといわしめたほど繁栄し、観光産業が最大の産業だった時代もあったというから内戦が終わった今、この国には大きなチャンスが訪れているのかもしれない。再びこの茶園を訪れる機会があるかわからないが、そのときにはこの国はどのような変化を遂げているだろうか。

2009年5月26日火曜日

内戦終結


エジンバラの後は商談のためスリランカに向かった。当初は週末到着で週明けに用事を済ませた後すぐにスリランカを立つ予定でいたが、直前になって相手先から急にサウジに行かなければならなくなったので訪問を土曜日に延期してほしいといわれた。イギリスに必要以上に長く滞在する気にもなれないし、いったん帰国して出直すのも時間とお金がもったいない。そこでスリランカでまる1週間を過ごすことに決めた。

スリランカに向かう機内でイギリス、香港、シンガポールの新聞を、スリランカに到着した後は当地の英字新聞を読んだが、いずれも日本が新型インフルエンザで大騒ぎになっているというニュースを、マスクをつけた人たちの写真入りで掲載していた。いいお笑い草だ。感染者の数が急速に増えているのは、ほかの国以上に積極的に検査をしているからだろう。我が国の恐ろしいほどの情報鎖国ぶりを再認識させられた。

スリランカは海外青年協力隊の一員として1年間を過ごしたサラリーマン時代の同僚から話を聞いていたので一度は行ってみたいと思っていたが、なかなかきっかけがなかった。今回内戦が終わったちょうどいいタイミングで来ることになったが、治安状況もわからないのであまり動き回らず、デリーですっかりはまってしまったアーユルヴェーダの治療でも受けようと思い立った。そして商談相手に調べてもらった、コロンボから車で南に1時間ほどくだったワッドゥーワという海辺の町にある施設に滞在することにした。

30年にわたる内戦が終結したスリランカは祝賀ムード一色で、多くの車が国旗を掲げていたほか、国旗を振りかざしながら通りに集まる軍人や一般市民の集団を見かけた。テレビをつけるとシンハラ語と思われる地元テレビ局の番組でもこのニュースを長々と伝えていた。BBCはLTTE(タミール人の分離独立派の組織)の幹部が指導者の死を公に認め、今後は武力に依らない目的の達成を目指すという声明を出したと報じ、少し安堵した。

最近まで少数派タミール人が分離独立を求めている背景についてよくわかっていなかったが、今回聞いた話では、イギリスの植民地時代にはタミール人が多く住む北部地域に高等教育の機関をつくるなど恵まれた環境にあったのが(同国で医者や学者、技術者といったら皆タミール人だった時代があったとのこと)、独立後に多数派のシンハラ人が政権を握ると不遇な状況に陥ったという(決してそんなことはなく、良港や天然資源に恵まれる北部地域を切り離そうとした英・印の陰謀という人もいる)。LTTEは海外に亡命したタミール人やインドの支援も受けていたが、度重なる無差別テロに加え、政府軍の支配地域に移動しようとするタミール人にも銃口を向けるようになってから孤立を深めていったという。

こうした話を聞くにつれ、つくづく平和が当たり前な国に生まれたことを有り難く思う。たとえその国が驚くほどの情報鎖国であってもだ。

2009年5月23日土曜日

エジンバラ


5年ぶりのエジンバラ。いつ来ても美しい町だ。ただ空港から町の中心を通るトラムを建設中で、メインストリートのそこかしこが工事中。不便な上に美観を損ねている。2012年完成予定の工事が遅れに遅れていてしかも予算オーバーとのこと。何年か前に建設されたスコットランド議会の議事堂のようだ。

2日にわたるクライアント主催の会議に出席するためにやって来たのだが、初日の朝にいきなりトラブル発生。ホテルの部屋の外でけたたましく鳴り響く掃除機の音で目が覚め、『何もこんな朝早くからやらんでも…』と思って時計を見るとすでに8時半を回っていた。前の晩に頼んでいたモーニングコールを忘れられていたのだ。おかげで朝食を食べる時間もなく、肝心の会議にも遅刻してしまった。

モーニングコールを忘れるなんてホテルにあるまじきミスで断固抗議しなければと後でフロントに行ったのだが、話をしているうちに急速に戦意?を失ってしまった。人柄の良さげなスコットランド人に独特の訛りで謝られるとそれ以上厳しいことがいえなくなる。エジンバラ訛りは特に響きがやわらかく、当地の人々の人の良さが増幅されて感じられる。スコットランド訛りと一口にいっても地域差が大きく、列車で1時間とかからない距離のグラスゴーでもまったく違った訛りを話すから面白い。

これは後で聞いた話だが、会議が始まる時間になっても私が現れないのでクライアント企業の社長がほかの出席者に「シンジは日本人だからモーニングコールがちゃんと来るものと信じ切って寝坊しているのではないか」といっていたそうだ。イギリスに度々出張に来ていた同僚によるとモーニングコールを忘れるなんてよくあることで、明け方に頼んでもいないルームサービスがやってきてたたき起こされたこともあるそうだ(これは隣の部屋と間違えていたとのこと)。

コスタリカで現金不足に陥りそうになった経験から今回はエジンバラ市内のATMで多めにおろしたのだが、うっかり大事なことを忘れていた。スコットランドでは当地の銀行が発行した紙幣(写真)が流通しているが、ほかの地域では受け取ってもらえないことが多い。日本に持ち帰ろうものなら日本橋のHSBCまで持って行って高い手数料を払わないと円に換えられない。レストランやお店でお釣りにもらったイングランド銀行発行の紙幣を大事にとっておきつつ、通常はクレジットカード払いするようなところも現金払いをして何とか使い切った。

2009年5月22日金曜日

新型インフルエンザ

騒動の真っ最中にメキシコシティを後にしたが、コスタリカに来ていたメキシコ人観光客によると今はすっかりおさまってふつうの生活に戻っているとのこと。さすがはラテンの人たちだ。今回の騒動が唯一残したものは液体せっけんで手を洗う習慣とのこと(それまでやってなかったのかい!)。

当のメキシコ以上に大騒ぎをしていた日本でも“水際作戦”がはじまる前からウィルスが入っていたことがわかり、また新たな感染者が次々に判明しつつも犠牲者も出ていないことから特に危険なインフルエンザではないことが認識され始めるだろうか。

厚労省はすでに方針転換をしているようだが、「冷静に対応するように」とは、そっくりそのまま返したい言葉だ。さんざん煽りに煽ったメディアはどう落とし前をつけるのだろうか。

2009年5月18日月曜日

コスタリカ


サクラメントの後は中米のコスタリカに立ち寄った。なぜコスタリカにしたかといえば利用する航空会社が飛んでいること、それから何となくイメージがよいからといったところだろうか。相変わらずガイドブックももたない行き当たりばったりの旅行だが、行く間際になって大学院時代のコスタリカ出身のクラスメートに連絡をとり、見どころを尋ねた。

この元クラスメートによるとコスタリカは火山とビーチがいいとのこと。最近は年齢のせいか強い直射日光が苦手でビーチは避けるようにしているため火山へのツアーに参加することにした。おもな火山ツアーは私が滞在している首都サンホセに近いポアス火山に行くものと車で3時間半ほど北上したところにあるアレナル火山へ行くものの二通りがあり、私はホテルの人の勧めで溶岩流が見られて且つ温泉に入ることができるという後者のツアーにした。

サクラメントでホストマザーにコスタリカはアメリカ人観光客が多く行くところだと聞かされていたが、実際に火山ツアーに参加していたのもアメリカ人8人、メキシコ人4人、ウルグアイ人2人、ギリシャ人1人で東洋人は私一人だった。ツアーガイドが道路の横を流れる川が“コロラド川”という名前だと説明すると、アメリカ人の一人が真顔でアメリカのコロラド川と同じ川かと質問した。確かに地続きではあるが…。アメリカはもう少し地理の教育に力を入れたほうがいいかもしれない。

せっかく長い時間をかけて行ったのに火山は雲隠れしていて溶岩も見られなかった。唯一楽しめたのは温泉で、普通の川のように温水が流れてくるリゾートで3時間余りの時間を過ごした。深い緑に囲まれた場所で温泉につかるのは格別だが、川の流れが結構急で、日本であれば危険だという理由でこういうことはやらせないのではないかと思った。同国滞在中、日本人観光客には一人としてお目にかからなかったが、この温泉リゾートには日本人と同じく温泉好きといわれる韓国人のグループが来ていた。その中にいたおばあさんが上流の方で下着姿のままお湯につかって垢すりをしていたのには驚いた。

欧米を旅行するとホテルのバスタブが浅すぎて風呂に入る気が起きないことが多い。コスタリカも滞在しているホテルがシャワーだけだったので温泉に首までつかってリラックスすることができたのはよかったが、そのためだけに3時間半もかけて行く価値があるかといえばちょっと疑問。特に我々日本人であれば母国に火山も温泉もたくさんある。一方で温泉に行く機会が少ない欧米人は皆大はしゃぎだった。

私がコスタリカに来る前に描いていたイメージは、ジャングルやビーチなどの手つかずの大自然、軍隊のない平和な国といったポジティブなものだったが、同国出身の元クラスメートがいっていた通り、首都サンホセはこうしたイメージとはだいぶ趣を異にする。滞在初日の夜にホテルから2ブロックしか離れていないスーパーに買い出しに行こうとするとフロントの人に一人で行ってはいけないといわれた。そこで渡された観光客向けの注意書きにはこんなことが書いてある。

・貴重品は必ずホテルの部屋のセイフティボックスに入れる
・ホテルのフロントであっても持ち物から目を離してはいけない
・出かけるときは必ずフロントにもっとも安全な行き方を確認する
・タクシーに乗るときは必ず法律に準拠して営業しているか確認する
・現金の引き出しは人通りが多く明るいところにあるATMを利用する
・現金の引き出しは近くに誰もいないことを確認してから行う
・引き出したお金は金額を確認したら必ずしまってからATMを離れる
・迷子になったら周りの安全を確認してから地図を広げるか警察に助けを求める
・見知らぬ人の前で立ち止まってはならない
・車で移動するときは窓を閉めてドアをロックし、車内にものを置きっ放しにしない
・タイヤがパンクしたり、後ろからつけられたり追突されても決して車外に出ない

どんだけ危ないんだい!私が勝手に抱いていたコスタリカのイメージがもろくも崩れ去った。

2009年5月17日日曜日

サクラメント

2か月連続のイギリス出張。今年3回目の世界一周にして高校時代に1年間留学していたサクラメント郊外のロックリンの町を訪ねることにした。サラリーマン時代は何年かに一度しかホストファミリーのもとを訪ねることがなかったが、3年前にホストファーザーが他界してからは年に一回のペースでホストマザーのもとを訪ねている。

私が留学していた1980年代前半以降のサクラメント周辺の発展ぶりは目覚ましいものがある。当時は国際空港とは名ばかりの、ちっぽけなターミナルビルが一つあるだけだった空港には新しいターミナルが建ち、ネット予約の先駆けで機内も自由席という斬新な経営で成長著しいサウスウェスト航空がかつての大手航空会社を押しのけて圧倒的な便数を占めるようになっているのも時代を反映している。カリフォルニア州の州都であること以外、これといって特筆すべきことがなかったサクラメントだが、1980年代からベイエリアなどからの企業進出が進み、第二のシリコンバレーなどと呼ばれるようになった。周辺の町もどんどんと宅地開発が進み、ホストファミリーのところに遊びに行く度に道路の混雑がひどくなっている。

空港からサクラメントの北東40キロにあるロックリンへと車を走らせていると、目に飛び込んでくるフリーウェイの標識から留学時代の思い出がよみがえる。週末に日本語を教えていたナミオ君が住んでいたメリーズビル(ホストファミリーから彼が成長した後の写真を見せられ、26歳の若さで亡くなったことを聞かされたときはショックで言葉もなかった)、英語があまり得意でないカナダのケベック州からの留学生カールと小さな体にかかわらず1年間で20ポンドも体重が増えたタイからの留学生シャニカがホームステイしていたウィンターズ、ドイツ語の先生とクラスメートとレストランでパーティーをしたシトラス・ハイツ(後年、先生からこのレストランもなくなってしまったと聞かされた)…。

ホストマザーと話をしていると、私の同年代の人たちであれば今何をしているとか結婚して子供が何人いるだとかという話になり、ホストペアレンツの世代の人たちだと誰それが最近亡くなったといった話になる。やはり時は容赦なく流れているのだ。私と一つ違いのホストシスターと四つ違いのホストブラザーもサクラメント周辺に住んでいるが、ともに家庭をもち、それぞれの家族との生活があるので、私が行っても食事をともにするくらいになっている。私がこの地を訪ね、その発展ぶりを見届けられるのもホストマザーが健在なうちかもしれない。

2009年5月11日月曜日

水際作戦?


17日ぶりの日本。飛行機は定刻より早く到着したのに一向に下ろしてもらえない。「これから機内検疫を行う」とのアナウンスが流れ、しばらくしてゴーグルにマスク姿の検疫官がぞろぞろと乗り込んできた。とんだ歓迎だ。

WHOも疑問を呈する日本の水際作戦。島国ならではの発想だろう。致死率の高い危険な伝染病なら徹底的にやってほしいが、今回はちょっと違う気がする。何せメキシコ以外では死者の数が少なく、また、ほかのインフルエンザに比べて特に致死率が高いとか感染力が強いということもいわれていない。

家に帰ってテレビを見てようやく日本での大騒ぎの原因がわかった。7時のニュースの何と冒頭の15分間も割いて新型インフルエンザの話をしていたのだ。感染者が多数出ているアメリカやカナダの落ち着いた報道ぶりとは対照的だ。メディアがこうも視聴者の不安を煽るような報道をしていたとは…。特に公共放送の場合、海外のニュースのクリッピングを使って他の国でも大きく報道されているような話をするが、実際には数あるニュースの一つとして取り上げられているだけで、トップニュースですらない場合が多い。海外のニュースがリアルタイムに入って来る時代になったとはいえ、国内のメディアの影響力はやはり大きく、国民の間で要らぬパニックを作り上げることさえできることを再認識させられた。

日本のメディアが過剰?報道をしている要因としては、メキシコでの犠牲者の数が数十人にのぼっているからということがあるかもしれないが、新型インフルエンザと特定されるまで感染者の数を調べることすらなかったのだから、実際に感染した人の数は報道されている千人とか二千人といった単位ではなく、もっと何万人もいた可能性がある。3月にシアトルに出張したとき、メキシコからの出張者がインフルエンザにかかっていて、彼と接した人たちのうちの何人かがうつされた。皆かなりつらそうだったが、当の出張者は回復し、最終日にはぴんぴんしていたし、うつされた人たちも皆ほどなく回復した。彼がかかっていたインフルエンザが新型だったとしても今さら誰にもわからない。

感染者が千人でそのうち数十人が亡くなっているとしたらちょっと心配だが、何万人中数十人なら普通のインフルエンザと変わらないのではないだろうか。また、メキシコからの出張者が新型インフルエンザだったとして、彼と接した人のごく一部しかうつらなかったことを考えると(ちなみに私はセーフだった)、感染力も決して高くないことになる。さんざん大騒ぎをしてパニックを作り上げたメディアと国(厚生労働省)がどのようにしてこの騒動を収束させていくのか見ものだ。鳥インフルエンザのときのように何となく立ち消えにして人々が忘れるのを待つのか。鳥インフルエンザが終息したという報道はいまだに聞いていない。

2009年5月9日土曜日

モントリオール

北京に向かおうとしていた矢先、ネットのニュースで中国当局がメキシコから帰国した豚フル患者を隔離したとの報に触れた。当地で会うことになっていた知り合いに聞いたところ、機内でこの患者の近くに座っていた人たちも監視下におかれているとのこと。メキシコを出てすでに5日が経っていて、カナダ経由で入国する予定だったが、慣れない国でのこと、日本への帰国の日程が遅れるリスクはとれないので北京行きを断念し、その分長くカナダに滞在することにした。とはいえハリファックスにこれ以上いてもやることが思いつかない。そこでボストンに留学していたときに訪れたケベック州のモントリオールに再び行ってみることにした。

思えばボストンに留学していたのは17年も前のことで、そのときは車で5時間かけて行った。これほど長い時間ドライブするのは初めてで、なるべく早く着こうとスピードを出しすぎて途中のニューハンプシャー州で白バイに停められたことを鮮明に覚えている。その場で70ドル余りの罰金を払って済ませることができたが、スピード違反で捕まったのは後にも先にもこのときだけだ。

島国育ちには陸路の国境越えは海外を旅行するときにしか味わうことができないことだが、カナダに入ると道路標識がマイルからキロメートに変わり、ケベック州だけあってフランス語の看板を目にして別の国に来たことを実感した。同じカナダでも英語圏の地域を訪れていたらあまり国が変わったという印象は受けなかったかもしれない。

このときはモントリオール市内のB&Bに泊まったが、今となってはどうやってそこを見つけたのか、また、どのあたりにあったのかも思い出せない。今回久しぶりに行ってみて何となく街並みに見覚えがあると感じるくらいだった。唯一思い出せるのは目抜き通りにある皮革製品を売る店で、中東系と思われる店主と価格交渉の末、エメラルドグリーンっぽい色合いの皮ジャンを買ったことくらいだ。ちなみにこの皮ジャンはデザインも洗練されていて、ボロボロになるまで着続けた。

カナダにフランス語圏が存在することを知ったのは高校時代にアメリカに留学していたとき。近くの高校にケベック州から来ていたカールという留学生がいて、彼の英語のたどたどしさに驚いた。聞けば彼の地元では英語を勉強しなくても何の支障もないとのこと。国全体が商品のラベルを二言語表記にするなど、フランス語圏の人々に配慮しているにもかかわらず、フランス語地域では子供に積極的に英語を教えようとしていないのだろうかと思った。そして実際にケベック州に行ってみるとテレビはフランス語のチャンネルばかりで、特に年配の人たちはあまり英語を話さなかった。

今回久しぶりに当地に行って驚いたのは、どのレストランやお店でも若い店員さんは皆流暢に英語を話すことだ。旧世代の人たちは南部のルイジアナ州などを含めて国全体が完全に英語化されてしまったアメリカの二の舞にならないように(今ではアメリカの一部がスペイン語化されているという説もあるが)、子供になるべく英語を話させないようにしていたのかも知れないが、周囲を英語圏に囲まれていては自ずと限界があろう。国内のフランス語地域の中にはすでに子供たちがフランス語と同じように英語を話すようになっているところもあると聞く。

ケベック州の場合、州全体がフランス語圏で人口の母数も多いので、そう簡単に英語化されることはないだろう。看板や標識の表記や地下鉄のアナウンスはいまだにフランス語のみだが、英語しか話せない旅行者が問題なく滞在できるようになったことはありがたい。

2009年5月4日月曜日

ノバ・スコシア


メキシコを出たフライトが遅れたため、トロントでの乗り継ぎに失敗し、次の目的地であるカナダ東端のノバ・スコシア州に着いたときには夜中の1時をまわっていた。初めての土地に夜遅く着く場合には安全のため空港近くのホテルに泊まるようにしている。今回も予約していた空港近くのホテルに直行した。

なぜよりによってノバ・スコシアに来ることにしたのか。特に見たいものがあったわけではなく、一度来てみたかったからとしかいいようがない。何年か前にノバ・スコシア(ニュー・スコットランド)の地名の由来でもある北米に渡ったスコットランド人移民の歴史を描いた本を読んでこの土地のことを知り、その後長崎で会った当地出身のエンジニアがスコットランドなまりにも似た独特の英語を話すのを聞いて興味をひかれた。

もとは3泊4日の短い滞在の予定だったが、メキシコでの旅程を早めに切り上げたため予定よりもゆっくりできることになった。このため滞在しているハリファックスのホテルが勧めるツアーでまる一日かけて風光明媚な海辺の港町などをめぐった。ノバ・スコシアは州旗がスコットランドの旗であるセント・アンドリューズ・クロス(青地に白い斜め十字体が入っている)を下地にしたものであるくらいその影響がそこかしこに見られるが、ヨーロッパのほかの地域からの移民も多く、ドイツ系移民がつくったルーネンベルグという町には通り沿いにドイツから取り寄せたベルリンの壁の一部が置かれていたりする(写真)。しかし第二次大戦中にカナダの敵国になってからはドイツ語は使われなくなり、地元の高校では今でもドイツ語を教えていないのだという。大学院時代に聞き慣れない名字のドイツ系カナダ人のクラスメートがいて、戦時中におじいさんがドイツ系とわからないように名前を変えたのだという話を聞いたのを思い出した。

ノバ・スコシアはアメリカの東海岸とヨーロッパを結ぶ航路が沖合を通っているため、様々な海難事故に巻き込まれてきた(1998年にはスイス航空機が沖合に墜落)。ハリファックスで最も印象に残ったのは船着き場近くにある古い建物を改装した海洋博物館で、ここにはタイタニック号ゆかりの品々が展示されている。タイタニック号が沈没した後、同船を運行していた船会社が、寒さや荒波といった劣悪な条件の中での作業に慣れているハリファックスの海底ケーブル修繕船のクルーに現場での回収作業を要請したのだという。展示物の中には船上で実際に使われていたデッキチェアーや犠牲となった2歳児が履いていた靴などの遺品もある。また、同船が氷山に激突した後にSOSを受信したニューファンドランドのレース岬の通信士直筆のノート(実物)には事故の第一報から突然通信が途絶えるまでの間の交信内容が時系列に書き込まれていて実に生々しい。

この展示室には私が前の週まで滞在していたベルファストで建造されたときから北大西洋に沈むまでのタイタニック号の短い歴史や船内の構造、遺体や遺品の回収作業などが写真入りで細かく紹介されている。映画でも再現されていたが、一等客室と三等客室は見取り図で見ても写真で見ても天と地ほどの差があるのがわかる。また、救命ボートに乗るのは女性や子ども優先という建前とは裏腹に一等客室の男性客の生存率がもっとも高かったという話や、一等客室の乗客の遺体が棺に納められたのに対して二等、三等の乗客の遺体は布の袋に入れられ、死後も差別的な扱いを受けたといった話も紹介されている。ミニシアターでは事故現場周辺に浮く遺体や遺品の回収作業にあたった船員の証言にもとづいて作られたビデオが流され、強烈な印象を残す。

ハリファックス滞在中、ホテル近くのタイ料理屋で日本人留学生の姿を見かけたが、観光客の姿はついぞ見かけなかった。聞けば日本人観光客は皆『赤毛のアン』の舞台となったお隣のプリンス・エドワード島に来るが(もちろん女性ばかり)、ノバ・スコシアまではなかなか足をのばさないのだそうだ。確かにそれほど見どころが多いようには思えず、5月になってもまだ新緑にもならない寒さだったが、夏場や秋の紅葉の時期に来ればいっそう美しい景色が楽しめるのではないかと思う。また、当地は一年中新鮮なシーフードを楽しむことができ、特に獲れたてのロブスターを溶かしバターにつけて食べるのは格別だ。市内の有名レストランで食べたロブスターのビスクは忘れられない味だった。

カナダといえばフランス語圏のケベック州にしか滞在したことがなかったが、今回ノバ・スコシアに来てあらためてアメリカ人とは似て非なる人々だという印象を受けた。ツアーガイドもいっていたが、カナダ人は控えめ(reserved)、アメリカ人よりヨーロッパ的であるというのも何となくわかる。同じようにイギリスの植民地から始まり、国境一本隔てているだけなのにこうも違ってしまったのは興味深い。

2009年4月29日水曜日

豚フル


ニューヨークの次はメキシコシティ。よりによって行く寸前に豚インフルエンザ騒動がはじまった。勘弁してもらいたい。良識ある日本国民であれば外務省の勧告に従って渡航を見合わせるところだが、商談相手からキャンセルの知らせがないので予定通り向かった。

早朝のラゴーディア空港でチェックインする際に帰国便について聞かれた。何日も後に乗る飛行機について聞かれるなんてもちろん初めてのことだ。もうアメリカには帰って来ないといってもメキシコを出国する便をコンピューターに入力しなければならないのだという。同国に行く時点でグレーリストに載せられて、その後の動きを追われるのだろうか。

飛行機は空席が目立ち、メキシコシティの空港に降り立つと多くの人たちがマスクをしていて、ただごとでない雰囲気が漂っていた。知人の同僚が迎えに来てくれて、ホテルにチェックインした後に旧市街に観光に連れて行ってくれたのだが、ふだん渋滞しているという市内の道路は実にスムーズ。週末は行列しないと入れないという人気のレストランも客の姿がまばらですぐに入れた・・・なんて喜んでいる場合ではないか。レストランではウェイターもウェイトレスも皆マスクをしていて、まるで病院にいるような雰囲気だった。店に置かれたテレビに目を移すと、大統領が豚フルと思しきことについて延々と国民に語りかけていた。

私がメキシコに着いた日にはすでに公園や観光地など人が集まる場所が出入り禁止になっていたが、その後加速度的に状況が悪化し、レストランが次々と休業しはじめた。翌日の午前中に予定されていた面談は電話会議に切り替わり、同日の午後に面談した会社の社長は“政府のお達し”とかで握手を避けられた。その翌日は午前中に面談があったものの、晩に会う予定だったメキシコ北部のグアダラハラに住む大学院時代のクラスメートがメキシコシティへの出張を見合わせたことで、予定を切り上げて早々にメキシコを離れることにした。何せ観光地もすべて閉鎖されているのでそれ以上長くいてもやることがない。

飛行機に乗り込んで2泊3日の短いながら忘れがたいメキシコシティでの滞在を無事に?終えることができたかとほっと胸をなでおろしかけたところ、隣の席のカナダ人が話しかけてきた。聞くと長期出張していた先のメキシコの職場で豚インフルエンザの患者が出たために緊急帰国することになったという。そんなことなら話に熱中してマスクを外すのはやめてもらいたい。彼の紅潮気味の顔色と時折する咳がにわかに気になりだした。

日本から来る心配のメールで、太平洋の向こう側で発生したインフルエンザが相当大きく報道されていることがうかがえた。一方、当のメキシコでは多くの人が普通の生活を続けていてパニックという感じにはなっていない。ふつうにマスクをしないで歩いている人も大勢いる。日本だったら白い目で見られるだろう。新型インフルエンザということでわからない部分が多いことが不安を大きくしているのかもしれないが、ことさら騒ぎ立てるだけではなく、ふつうのインフルエンザに比べて特別に感染力が強かったり致死率が高かったりするのか、ワクチンの副作用で死ぬ人の数とどちらが多いのかといった冷静な報道もしてもらいたいものだ。

2009年4月27日月曜日

ジャージー・ボーイズ


久しぶりのニューヨーク。エンタテイメントに事欠かないマンハッタンは週末を過ごすのにもってこいだ。アメリカに来る観光客の数は景気に大きく左右されるがニューヨークは例外と聞く。ここと肩を並べる場所がほかにないからだろうか。

私がニューヨークに来る目的は何といっても観劇だ。特にブロードウェイミュージカル。今回も二泊三日の短い滞在ながら、中日にブロードウェイ、オフブロードウェイ(小規模劇場)合わせて3つのショーをはしごした。中でも圧巻だったのは1960年代にアメリカで一世を風靡したロックグループの実話を描いた“ジャージー・ボーイズ”。日本でいえば埼玉県的なイメージのニュージャージー州で育ったイタリア系移民の若者たちがザ・フォーシーズンズ(ホテルチェーンではない)という名前のバンドを結成し、一気にスターダムにのし上がる。しかしその後多額の借金や家庭不和などの問題を抱え、さらにメンバーが相次いで脱退。それでも新たなメンバーを加えて活動を続けたリードボーカルのフランキー・ヴァリとプロデューサーに転じたボブ・ゴーディオは我々日本人もよく知る“Can’t take my eyes off of you(君の瞳に恋してる)”などのヒットで再起を果たす。

計画性のない旅行が常の私は事前に下調べをすることもなかったのでこのミュージカルのことを知らなかった。それどころか私が生まれた前後に絶頂期を迎えていたザ・フォーシーズンズの存在すら知らなかった。このショーに興味をもったのは不景気でブロードウェイ全体の観客動員数が減っているといわれ、“マンマ・ミーア”や“ライオン・キング”といった人気演目の切符が簡単に入る中、唯一何日も先まで完売している人気ぶりだったからだ。そしてダメモトで行った劇場のボックスオフィスで前方のいい席が一つだけ残っていたのは実に幸運だった。

ジャージー・ボーイズはザ・フォーシーズンズが歩んで来た道をメンバーの人生の喜怒哀楽を交えてテンポよく描いているストーリーもさることながら、出演者の歌唱力に圧倒される。これまでブロードウェイで見たミュージカルの中でも一、二を争うレベルに思われた。ただ、このショーが常に満席なのがそうした理由だけではないこともうかがえた。来場者のほとんどがフォーシーズンズの絶頂期に青春時代を送ったベビーブーマーと思しき年齢の人たちで、母数が多い年代の圧倒的な支持を受けていることも一因に思われた。また、劇中でニュージャージー絡みのセリフが出てくると客席が大いに盛り上がることから、フォーシーズンズの出身地であるお隣のニュージャージー州からかなり多くの観客を集めていることもうかがえた。

これまでもう一度見たいと思ったショーはそう多くないが、ジャージーボーイズは間違いなくその一つとなった。問題は次回いつまたニューヨークに来られるかだ…。

2009年4月26日日曜日

スーザン・ボイル

イギリスのオーディション番組で一大センセーションを巻き起こした47歳のスコットランド人女性。その歌声もすばらしいが、40代後半にしてこれからエレイン・ペイジのような歌手になりたいという夢を臆することなく語るそのポジティブさに感動した。ぎりぎりアラフォーの私でもこの歳にしてそんな大きな夢は語れない、というかすでに老後の生き方なぞを考え始めている。

YouTubeのおかげもあってかイギリスでは誰もがテレビで放映された彼女のパフォーマンスを見ているようで、すっかり時の人になっていた。
http://www.youtube.com/watch?v=2XVR9AKZOu4&NR=1
私もホテルの部屋でパソコンに向かいながら全世界で何千万回も再生されているという画像を何度となく見返してしまった。

なぜこうも何度も見たくなるのかと考えてみると、一つには彼女の歌声に心いやされるからだが、何よりもオーディション番組には場違いな中年女性の登場に嘲笑的とも思える反応を示していた聴衆がひとたび彼女が歌い始めると手のひらをかえしたように湧きかえって熱狂するさまが何度見ても飽きないノンフィクションのドラマになっているからな気がする。はじめは期待感の片鱗をも見せていなかった審判たちが最後に彼女を大絶賛するのもまた見ていて痛快だ。

この映像を見ると人を見かけで判断してイメージに合わないものを無意識のうちに排除してしまう我々の習性を反省させられる。また、47歳にして大きな夢に挑戦している彼女の前向きな姿には大いに元気をもらえる。

2009年4月25日土曜日

ロングス


1年半ぶりのベルファスト。夜毎の会食の合間を縫って地元で一番人気のロングスにフィッシュ・アンド・チップスを食べに行った。

食べ物に関しては見るべきものがないイギリスでも、タラのフライに厚切りのフライドポテトがつくフィッシュ&チップスは結構いけていたりする。特にこの店は揚げた後でもわかるくらい素材のタラが新鮮で、しかも切り身を一枚丸ごと使っていてボリューム満点だ。

イギリスはある程度大きな町に行くとだいたいフィッシュ・アンド・チップスの人気店がある。旅行者であれば地元の人、特にタクシーの運転手に聞けば間違いない。東京でおいしいラーメン屋を探すのと同じ要領だ。

一昨年、はじめてベルファストを訪れた際に何人かのタクシー運転手にフィッシュ・アンド・チップスのおいしい店を聞いたところ、皆が皆ロングスの名前を挙げた。そして実際に行ってみると確かにこれまで食べた中でいちばんおいしかった。

ところが日本の定番ガイドブックにはこの店が出ていないばかりか地元で「高い」、「あまりおいしくない」、「観光客向け」と評判が芳しくない店が載っている。日本人の多くが頼りにするガイドブックなのだからもうちょっとしっかり取材をしてもらいたいものだ。

2009年4月19日日曜日

大井町の大衆酒場にて


所属しているゴルフクラブのコンペの打ち合わせ。呼び出されたのは大井町駅から線路沿いを歩いた裏路地にある昭和風情漂う居酒屋。庶民的な店は大歓迎だが、以前は銀座のバーでやっていたというからエライ違いだ。

何でも昭和29年創業で、店の中は昭和30年代を描いたドラマに出てきそうなつくりだ。ずいぶんいい歳になった私ですら初めての雰囲気。メニューも昭和そのもので値段も安く、特筆すべきはもつの煮込みだった。“昭和レトロ”の雰囲気に惹かれてか、店内には常連と思しきおじさんサラリーマンたちに交じって若い人たちの姿も多く見かけられた。

大井町はかつて母の実家があったところで、4歳で父の赴任先のアメリカに引っ越すまで、たびたび連れて行かれた記憶がある。長期信用銀行の重役だった父方の祖父の家が杉並の庭付きの広い家だったのに対し、母の実家は庭のない小さな家と町工場が密集する一角にあった。祖母が毎朝作ってくれる納豆と味噌汁の朝ごはんも、年末になると家族総出で行う餅つきも、体が小さかった私が落ちてしまうのではないかと怖くなった汲み取り式の便所も、当時のごく一般的な日本人家庭の光景だったのだろうが、私にとっては大井町の祖父母の家でしか味わえないものだった。

祖父母が引っ越してからは行く機会がなくなったが、大人になって何かの用事で大井町に行ったときにかつて祖父母が住んでいたあたりを歩いてみたことがある。おぼろげな記憶をたどりながら駅からの道を歩いて行くと、貨物線の線路にたどりついた。そして周囲を見回してそこがまだ幼児だった私が祖父に手をひかれて散歩した場所だったことを思い出した。渡り切る前に貨物列車が来てしまったらどうしようなどと心配になった踏切も、大人の目線から見ると2、3歩で渡り切れてしまう。確かに当時と同じ場所に立っているはずなのだが全体が縮小したかのように感じられる不思議な感覚だった。

それはさておき、戦後に闇市が立っていたといわれる一角にあるこの大衆酒場は、我々が行った2日後に閉店して55年の歴史に幕を閉じるということだった。文化財になるような建物でないだろうが、できれば戦後のもののない時代の建築物として残しておいてもらいたいものだ。子供の頃「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句を聞き、私にとっては歴史に感じられる遠い明治の昔に生き、当時を懐かしむ人たちがいるのだなぁと思ったものだが、いつしか我々の世代が昭和を懐かしむ時代になりつつあるようだ。

2009年4月11日土曜日

外資の人々 2

7年ぶりに再会したヘッジファンドに勤める日系アメリカ人の元同僚。ハワイの事務所に勤務していると思っていたためコナに行くときに寄ってみようかというくらいに思っていたが、前の週に会った別の元同僚から彼が東京に戻ってきていると聞き、連絡先を尋ねた。

義弟が経営する虎ノ門の焼鳥屋で昼食を食べながら聞いたところでは、ハワイの事務所が閉鎖になったことでサンフランシスコの事務所に移り、日本株を担当していたことからさらに日本に来させられたとのこと。せっかく日本を脱出してハワイに永住できるところだったのに残念・・・。

しかし聞けば最近日本の事務所で大規模なリストラがあり、社員の半数が解雇されたとのこと。このご時世に彼の業界で仕事を続けられるのはかなり恵まれている方かもしれない。私と会う直前には僕らがいた投資銀行の元同僚からメールで離職の挨拶が来たという。

外資系金融の人切りというのは何ともドライで情がない。私がいたときも、ある日突然何人かの若手社員が幹部に呼び出され、解雇を告げられた。解雇された者は荷物をまとめる間もなく出て行かなければならない。

彼らが去った後に開かれた全体会議で若いオーストラリア人社長が「彼らは我々の基準に満たなかった」といった。ぼろ雑巾のごとく働かせた挙げ句にこのような言葉で片付けられるのだからエグい業界だ。

大ぶりの焼き鳥をつつきながら当時の記憶が甦り、そうした業界から足を洗うことができたことに感謝した。そして元同僚には仕事を辞めることになったら私の会社で請け負っているリサーチレポートの翻訳でもやったらどうかと勧めた。

2009年4月4日土曜日

外資の人々

外資から足を洗って早6年余り。当時の同僚たちと会う機会もめっきり減っていたが、ここのところ急にお誘いが増えている。どうしたことかと思っていたが、どうやら景気の低迷で皆時間を持て余し始めているようだ。

人材の流動性が高い外資系金融のこと。当時の同僚たちの多くはすでにほかの会社に移っているが、移る先は金融機関であれ事業会社であれやはり外資系である場合が多い。人件費は変動費扱いの外資系ではビジネスが落ち込めばすぐに人員調整に入る。「前の会社から自分を引き抜いた上司がさっさとほかに転職してしまい、所属している部門が廃止されることになった」とか、「人員の30パーセントカットがすでに発表され、誰がその対象になるか来週知らされることになっている」とか、「間もなく新たな首切りが行われるが、年下の上司に自分がその候補にあがっていることを告げられている」なんて元同僚もいる。何ともシビアな話だ。米系の大手人材コンサルティング会社で金融業界を担当している元上司が“ミーティング稼ぎ”のためにうちの事務所に来るといったときには驚いた。

それでも外資系、特に金融の人たちはまだ恵まれている。変動費扱いされる見返りとしてそれなりの報酬をもらっているし、会社都合でやめるときの退職金も悪くない。外資系に勤めている以上はこうしたことへの覚悟もできていよう。終身雇用と思って入社した日本の会社から突然解雇を告げられるのとは訳が違う。今の仕事をやめた(あるいはやめさせられた)後はNPOをやりたいだとか農業にあこがれるといった夢を語れるのもある意味いい身分といえよう。

古巣のメーカーの元同僚たちの10年後は想像がつきやすいが、会う度に勤務先が変わっているような投資銀行時代の元同僚たちの場合はあまり想像がつかない。今度会うときには皆一体何をしているのだろうか。そして私自身も…。

2009年3月28日土曜日

ブラックベリー


ここ数年のアメリカでのブラックベリー(キーボード付きスマートフォン)の普及のし方は目を見張るものがある。アメリカの取引先にメールをしたときに不在を知らせる自動通知が返ってくる代わりにブラックベリーからと思しき手短な返信が来ることが増えた。いつでも連絡がつくように社員全員に持たせるなんて会社も多いようで、会議中しきりにメールをチェックする人たちもいる。かつて日本人を称して“エコノミック・アニマル”と呼んでいた人たちがいたっけ。

2009年3月26日木曜日

シアトル


ロスの後は飛行機で2時間余り北上したシアトルに到着。春の日差しがまぶしい南カリフォルニアから一転、どんよりとした曇り空。しかも滑走路のわきには雪が積もっているではないか。ここ3年ばかりこの時期にシアトルを訪れているが今年は特に寒く感じる。

今回も商用があって来たのだが、当地を観光したいという友人を案内するために3日ばかり早くシアトル入りした。この町はサンフランシスコのような派手さがなく、ここで暮らす人々も肩ひじ張ったところがなくて落ち着くのだが、この時期はいかんせん雨が多い。帝国ホテルのアネックスに事務所を構える知人の弁護士さんが、当地の大学に留学していたとき毎日のように雨が降っていたので勉強に集中できたといっていたのを思い出す。氏の成功はシアトルの天気のおかげかもしれない。

友人との観光3日、仕事1週間の計10日間の滞在だったが、友人と過ごした3日だけ天気に恵まれた。以前日頃の行いに自信がないと書いたが、やはり私ではなく友人の行いのお蔭だったようだ。今回観光した中でもボーイング社の工場は容積が世界最大の建物の中に747、777、787のラインが同居していて、生産工程の進化を見ることができる。最新の787型機のラインは翼や機首といった大きなパーツの生産を国内外のサプライヤーに任せ、それらを改造型747型機で運び込んで組み立てている(工場敷地内には航空機を“出荷”するための滑走路がある)。昨年お会いしたコンサルタントが787型機用のラインであれば比較的簡単にほかの場所に移せるといっていたのがよくわかる。高給で知られるボ社の従業員はストなどをやっている場合ではないかもしれない。

ボ社の工場以外では風光明媚なオリンピック半島やピュージット湾に浮かぶ島などシアトル周辺をドライブし、リースリングで名を馳せた有名ワイナリーでは工場見学とテイスティングを楽しんだ。我々がシアトルに着く前日まで雪が降っていたといい、観光を終えた翌日からまた天気が崩れたことを考えると束の間の晴れ間にこうしたところを回ることができたのは実に幸運であった。

2009年3月17日火曜日

ラキンタ・リゾート


ペルーの後はロサンゼルスに飛び、パームスプリングス近くの高級リゾートに別荘を所有している資産家の友人と合流した。ところが間際になって友人から別荘の借り手がついたので代わりに近くにある高級リゾートを予約しておいたといわれた。こっちは“高級”じゃなくていいんだけど…。

この高級リゾート、10年ほど前に当時勤めていた会社が雇ったコンサルティング会社の研修会で一度訪れたことがある。こうしたところに泊まる趣味がないので、もう二度と来ることはないだろうと思っていた場所だ。たまの海外旅行くらいいいところに泊まりたいと思う人も多いようだが、私は東京での普段の生活と大きな落差を感じるようなところにあえて泊まりたいとは思わない。一人で旅行しているときはそうしたわがままを通せるが、人と一緒の場合は相手に合わせることも必要。そう自分に言い聞かせた。

仕事ではなく休暇であらためて泊まってみると居心地は悪くない。コテージ風の広々とした個室にはキングサイズのベッドが置かれ、バスルームは東京の私のベッドルームよりも広い。色とりどりの花が植えられた中庭には小さな温水プールまでついている。2泊3日の滞在で、中日には世界的に有名なPGA Westのスタジアムコースで終日ゴルフを楽しんだ。テレビで見た浮島のグリーンや驚くほど大きなバンカーがあるコースでプレーをするのは格別。冬季の砂漠地帯は暑すぎず、汗がべとつくこともなくきわめて快適。いい思い出となった。

アメリカは不景気というが富裕層にはあまり影響がないのか、週末の高級リゾートは満室。ゴルフ場も結構人が入っていた。周辺の別荘地からゴルフ場に通じる道は車道の脇に歩道ならぬ“カート道”が設けられていて、マイ・カートを走らせている人たちを見かける。アリゾナ州のトゥーソンあたりもそうだが、こうした避寒地に別荘を買って老後を過ごす人が多いと聞く。私も老後は南の島でのんびりと暮らしたいなどと思った時期があったが、今はそんな生活もすぐに飽きるだろうから、自分にやれる仕事がある限り働き続けたいと思っている。

2009年3月15日日曜日

コカ茶


ペルーで普通に飲まれているコカ茶。クスコのホテルでは乾燥させた葉っぱをそのまま湯に浸したものが出てきたが、スーパーなどでは写真のようなティーバッグで売られている。苦味が少なくて飲みやすく、続けて飲むと胃の調子もすこぶるいい。クスコに4日滞在して高山病にかからなかったのもこのお茶のおかげだろうか。ぜひお土産に持ち帰ろうと思って一箱買ったのだが、日本でも手に入らないものかとネットで調べたところ禁輸品、というか麻薬扱いで空港で見つかると即捕まるとのこと。危ないところだった。

2009年3月13日金曜日

インカ道


ブラジルの次はペルー。日本から南米まで来るのは大変なので一回の旅行でなるべく多くのところを見ようと欲張った結果だ。朝の便でサンパウロからリマまで行き、クスコ行きの国内線に乗り継いだ。リマを飛び立った飛行機はクスコとは反対の海側に旋回しながら高度を上げた。6,000メートル級のアンデスの山々が迫っているため直に行こうとすると衝突してしまうからか。

それまでガイドブックも持たない無計画な旅行でしのいできたが、クスコに行く3日前に予約を入れたホテルからマチュピチュ行きの列車は事前予約が必要と知らされ、ペルーの国営鉄道にメールで問い合わせたところ6日前が期限との返事。クスコまで来てマチュピチュを見られないなんて一生後悔しかねない…。メールで事情を説明して頼み込んだところ、翌朝には3日後の座席のコンファメーションの連絡が来た。どうやら特別に手配してくれたようだ。このあたりはさすがにフレキシブルなラテンの人たち。日本ではなかなかこうはいかない。実際に乗った列車はオフシーズンだというのに満席だったので、間際で席がとれたのは実に幸運だった。

クスコからスイッチバック式の登山列車に揺られること4時間余り(実際に列車はかなり揺れる)、マチュピチュのふもとの駅に到着した。駅を出ると雨が激しく降っていて駅前で待ち構えていた物売りのおばさんからポンチョ型の雨具を購入。人の流れについて行くとバスが並んでいる場所に着いた。どうやらそこでバスに乗り換えるらしい。窓口で切符を買って乗り込んだ。座席がうまるとバスはスピードをあげてガードレールもないS字型の急な山道を上りはじめた。おいおい雨が降っているんだからそんなにスピードを出さないでほしい。ベテラン運転手の腕を信じるよう自分に言い聞かせながら窓側の席に着いたことを後悔した。マチュピチュの入り口と思しきところでバスを降りたときには一層雨足が強まっていた。

再び人の流れに着いて行くとチェックポイントで足止めされた。入場券はと聞かれたので持っていないというと入口で買うようにいわれた。そういうことは早くいってほしい。それともガイドブックで下調べしてこない私が悪いのか。ちなみに入場券売り場は気づかずに通り過ぎてしまいそうなところにあった。列に並んでようやく自分の番が来たと思ったらさらにトラブル発生。入場料は現地通貨でしか受け付けないという。列車もバスも米ドル払いなのになぜ入場券だけ現地通貨なのか。訳わからん!現地通貨の持ち合わせがない旨伝えると、バス乗り場近くのカフェまで戻って換金してくるようにいわれた。

そんなこんなでずいぶん時間を食ってしまったが、ようやく遺跡に到着したときにはあれほど激しく降っていた雨があがっていた。雨の中を歩き回るのはつらいし、写真を撮るのも大変だ。日頃の行いには甚だ自信がないが、ありがたい限りだった。テレビで見たそのままの遺跡の光景が目の前に現れたときにはしばし感動。半日をそこで過ごす間にカメラのシャッターを切り続けた。リオのカーニバルやイグアスの滝を見に行ったときのように、デジカメのメモリーがいっぱいになってしまった。こんなことは南米に来るまでなかった。

翌日はくだんのスペイン人の友人が勧めたクスコがある聖なる谷(Sacred Valley of the Incas)の遺跡めぐり。宿泊先で車を手配し、一日借り切ることにした。6,000メートル級のアンデスの山々に囲まれた谷は阿蘇山のカルデラをもはるかに上回る広大な盆地といった広さで、車でおもだった遺跡を回ってもまる一日かかる。氷河に削られた山肌や雪をかぶった山頂、青々とした草原など、これまで見たこともない雄大な景色は息を飲む美しさで、勧めてくれた友人に感謝した。

この聖なる谷のそこかしこにインカ時代の遺跡が残っているのだが、山道を登らなければならないところはかなりつらい。富士山の山頂のような標高のところなのですぐに酸欠を起こして息苦しくなってくるのだ。しかも手すりもない崖っぷちを歩かなければならないところもあり、ひたすら足元だけを見て進むしかない。大学時代山登りをやっていたが、落ちたら間違いなく命にかかわるようなところを歩いた記憶はあまりない。

クスコ周辺は世界有数の観光地だけあって各国から大勢の人々が訪れていた。ペルー政府もこうした“金づる”に対してまさにやりたい放題。マチュピチュに行く観光客は列車に乗るために一番安い“バックパッカークラス”でも100ドル近い料金を払わされる。さらに遺跡まで往復するバスは14ドル。きわめつけはおよそ40ドルの入場料。これまで世界遺産を含めて様々な観光名所に行ったがこれほど強気な値付けは見たことがない。しめておよそ15,000円也。これは現地ではとんでもない大金だ。

それでいて観光からあがる莫大な収益が広く人々に行き渡っているという感じがしない。クスコの中央広場から脇道に入ると寒空の下、ホームレスと思しき人が道端に座り込んでいたりする。観光客が多く集まる場所には多くの警察官が立っていて生活に困って犯罪を犯す人々を力で押さえつけている様子がうかがえる。旅行先でその日の生活に困っている人たちの姿を目にすると悠長に海外旅行などしている我が身を振り返って楽しい気持ちも覚めてしまう…。

2009年3月12日木曜日

漢字ブーム?


前のブログで海外に行くと漢字のタトゥーをしている人たちをよく見かけるということを書いたが、中にはよく意味がわからなかったり、非常に“悪筆”だったりするものもある。また、タトゥー以外にも漢字が書かれたTシャツを着ている人も多い。写真は聖なる谷を観光しているときに見かけた、そのアクセントからイギリス人と思しき観光客が着ていたTシャツだ。漢字国の人間に笑われかねないが、あえて教えるべきかは迷う。

2009年3月7日土曜日

サンパウロの日本人街


ブラジル最後の目的地はサンパウロ。大都市なだけでたいして見るものはないといわれていたので2泊3日の短い滞在にした。ただサンパウロで一つだけ見ておきたいものがあった。それは日本人移民がつくった日本人街だ。世界に数多ある中華街と違って、海外の大きな都市で日本人街があるのは私が知る限りリトル・トーキョーで知られるロサンゼルスとここサンパウロだけである。サンフランシスコにもジャパン・タウンと呼ばれるところはあるが規模が小さく、日本人コミュニティという感じではない。

ホテルで日本人街の場所を聞き、地図を頼りにダウンタウンを歩いているとポルトガル語で“日本人移民博物館”という意味らしき言葉が書かれた看板が現れ、その方角に進むと赤い提灯の形をした街灯が並ぶ道にたどり着いた。通りを歩いてみると中国料理屋だとか中医学の治療院だのの看板が並び、店で働く東洋系の人たちも中国や東南アジア系と思われる言葉を話していて日本人街というよりは東洋人街のような感じがした。中華街化が進むニューヨークのリトル・イタリーを思い出させる光景だが、日系ブラジル人の人たちがこぞって日本に出稼ぎに行ってしまったからだろうか。目抜き通りらしきところに出るとようやく日本人街らしい店が多くなった。

日本食の食材店をのぞいてみると店頭には銀米だの金米だのといった聞いたことがない銘柄のお米が並んでいたが、一通りのものは置いてあるようだった。日本を遠く離れた地でもその食文化はしっかり受け継がれているようだ。また、ブラジルによくあるバイキング形式の和食店では春巻なんかが置いてあるのはご愛嬌として、酢の物もかき揚げもみそ汁も味付けはきちんとしていた。値段はやはり割高で、普通のバイキング料理に比べて倍といった感じだった。ちなみに普通のバイキング店にも寿司が置いてあることがあるが、こちらはおにぎり状に固めたごはんの塊(酢飯ですらない)に魚の切り身を乗っけただけのもので超マズく、日本の食文化が誤って伝わっていることにがっかりさせられる。

この日は日曜日だったからか街は多くの人でごった返し、メトロの入り口にある小さな広場にはいくつもの屋台が所狭しと並んでいた。中にはエッセンシャルオイルを売る店など日本とは到底関係のなさそうな店もあったが、寿司や天ぷら、焼きそばやどら焼き、今川焼きの店まで出ていた(焼きそばの麺がビーフンだったりするのもご愛嬌)。中には神主の装束をまとった人が客の依頼に応じて漢字を短冊にしたため、お祓い風のジェスチャーをした後に引き渡している出店もあった。どうやらお守りとして売っているようだった。アメリカ同様、当地も漢字がクールと思われているようで、体に漢字の入れ墨をしている人を多く見かける。

滞在期間が短かったこともあり、サンパウロで観光らしい観光をしたのはこの日本人街(というより東洋人街といった方がいいかも知れない)のみであったが、今や完全に現地化してポルトガル語しか話さない日系人の人たちが日本の文化を守っているのを見て何となくうれしい気持ちになった。

2009年3月5日木曜日

イグアスの滝


リオの後は昨年アルゼンチンに行ったときに時間がなくて行かれなかったイグアスの滝を見に行くことにした。ところがカーニバル休暇の最中だったためフライトがとれず、まる一日かけてバスで行くことになった。日本で夜行バスに乗ったのは学生のときにスキーに行ったときのみで、それでも乗っている時間はせいぜい8時間程度だった。果たしてこんな長時間バスに乗っていて大丈夫なのか…。

日に2便しかないイグアス行きのバスはちょっとくたびれているものの、さすがに長距離仕様になっていて、前の座席の背もたれから長方形の板状の足置きを手前に倒せるように設計されていた。単純な構造ながらこの上に脚を乗せているとふくらはぎ全体が支えられてきわめて楽であることに気づいた。さすがに長距離バス大国である。バスは途中で食事や給油の休憩をはさみながらおよそ23時間かけてイグアスに着いた。バスの中では何度となく眠ったため不思議と疲れは感じなかった。ただ、まる一日ほぼ座った状態でいたため、バスを降りたときにはさすがに足元がふらついた。

イグアスの滝はブラジル、アルゼンチン、パラグアイの三国の国境にあり、ブラジル側とアルゼンチン側から眺めることができる。複数の目的地がある場合、遠い方から順番に行くことを鉄則としている私はホテルにチェックインする際にその日のうちにアルゼンチン側の滝を見に行くことができるかと聞いたがもう遅いといわれたのでその日はまずブラジル側を見て、翌朝アルゼンチン側に向かうことにした。

バスで国立公園の入り口まで行き、入園料を払ってさらに園内バスに乗って行くと遊歩道の入り口に着いた。そこから坂道を下っていくと川の向こう側にいくつもの滝が見えてきた。その規模は遠くからでも十分に実感できるものだった。しかしそこで見たものはまだ序の口で、遊歩道を進んでいくとさらに多くの、さらに水量の多い滝が流れ落ちているのが見えてきた。

イグアスは滝が断崖を侵食しながら川上方向に後退を続けているということで、浸食が最も進んでいる一番奥にあるのが“悪魔ののど笛”として知られる大滝だ。流れ落ちる滝の多さそして高さ、さらに華厳の滝であれば中禅寺湖がすぐに空になってしまいそうなその水量に感嘆した。

翌朝は国境越えのバスに乗ってアルゼンチン側に行き、同じように国立公園の入り口で入場料を払って今度は園内を走っている小型列車で悪魔ののど笛を見に行った。アルゼンチン側では遊歩道を渡って水が流れ落ちる滝の上部を間近で見ることができ、その迫力に圧倒されるとともに、しばらくいただけで全身びしょ濡れになった。アルゼンチン側ではこのほかにも大小様々な滝を様々な角度から見ることができるように遊歩道が設置され、川の中州にボートで渡ることもできる。

ブラジル側とアルゼンチン側とでは滝の景色もまったく違って見えるので、せっかくイグアスまで行くのであれば二日かけて両側から見ることをお勧めしたい。ただしブラジルに入国するには予めビザをとっておく必要がある。

世界三大瀑布を制覇した旅行代理店に勤める幼馴染は1にビクトリア、2にイグアス、3にナイアガラとランク付けしていた。今度はイグアスに勝るというビクトリア滝を見てみたいという思いを強くした。

2009年3月1日日曜日

脱税指南

先週末の移動の飛行機で読んだ新聞はいずれも7年前まで勤めていたUBSがアメリカの富裕層に対して行っていた脱税ほう助に関するニュースが一面だった。何でも同行が米当局の求めに応じて脱税の疑いのある米国人顧客の情報を提出するというもので、すでに250人分を提出済みでさらに52,000人分の情報も提出される可能性があるという。UBSの手口は顧客の資産を新たに作った代理人あるいはペーパーカンパニー名義の口座に移し、資産の帰属先をわからなくすることで課税を回避するというもので、同行は数千人の顧客の脱税を助けたことを認めて7.8億ドルの罰金を支払うことにすでに同意しているという。

私がUBS傘下の証券会社に転職した2000年に同行はアメリカに富裕層の顧客を多く抱えるペインウェバーという証券会社を買収した。そのわずか8年後に今日のような大規模な脱税ほう助が明るみに出る事態に至ったということは、買収の隠れた目的にスイスの銀行の“守秘義務”を隠れ蓑にしたこうしたブラック・ビジネスの企みがあったのではないかと疑ってしまう。ファイナンシャルタイムズ紙の記事にはスイスの銀行家たちがこうした守秘義務によって圧政に苦しむ人たちが救われ、ときには全体主義と闘うのに役立ったと主張していると書かれていたのを読んで2001年にUBSの米国法人で行われた内輪の会議で誇り高きペインウェバーの社員がUBSを称して「世界の独裁者や麻薬王のお金を運用している銀行」と述べていたことを思い出した。どちらが実態に近いかは言わずもがなだ。ちなみに私は投資銀行部門で法人向けの営業を担当していたので(自分がやっていたことがほめられたことかは別にして)、こうしたビジネスには手を染めていない。

それはさておき、今回の一件で改めて驚かされるのはアメリカの富裕層のあくなき強欲さである。一生かけても使い切れないお金をもってもなお脱税によってさらに蓄財しようとするのだからすさまじい。もはや金儲け自体が人生の目的になってしまっているようだ。時を同じくして日本では竹中平蔵元総務相が市場競争の末に富が一部に集中しても、そのおこぼれを貧困層も享受できるとする「トリクルダウン効果」を主張していたことについて、与謝野馨財務相が「人間の社会はそんな簡単なモデルで律せられない」と一蹴したと報じられたが、富裕層の行動パターンを見る限りトリクルダウンはあっても限定的で、社会全体に広く薄く富を分配した方が経済効果は高いように思われる。今滞在している南米は貧富の差が特に激しい地域だが、ブラジルのような経済成長著しい新興国でもトリクルダウンが貧困層に行き渡っているようにはとても思えない。

リオのカーニバル


一生に一度は見ておきたいものの中で現実には難しいかなと思うものもある。その一つがリオのカーニバル。何せ日本から見て地球の真裏の国で行くのが大変。さらにエジプトのピラミッドや中国の万里の長城と違っていつ行っても見られるわけではない。GRUPO ESPECIAL(スペシャルグループ)と呼ばれるあの有名なパレードが見られるのは年にわずか2日しかないのだ。

カーニバルの時期を狙ってリオに行くのは無謀と思いつつ飛行機の空き状況を調べたところ、なぜかいとも簡単にとれた。ところが問題はホテルで、世界中の観光客がこの時期を狙って来るらしくどこも満杯。しかもどのホテルも通常の倍以上の料金で、一週間固定の“カーニバル・パッケージ”にして売り出している。この時期に来るなら一年前から予約しなければだめだといわれたが、サラリーマン時代よりも自由がきく身とはいえ一年も前から“サンバ休暇”をリザーブしておかれる身分ではない。

これまでにもホテルの予約なしに海外旅行に行った経験はあるが今回は事情が違う。時期が時期なだけに現地に着いてからホテルがとれる可能性が低く、さらにリオに行ったことのある同僚からは危険な場所なので行くあてもなしに町に出てはいけないと注意されていた。しかもブラジルは英語が通じない。今回のワーストケースシナリオはリオの空港でホテルが取れないことだったが、その場合の“次善の策”というのが思いつかなかった。

夜の7時にリオの空港に着き、入国・通関を済ませて到着ロビーの案内所に直行した。中にいた女性にホテルを探している旨伝えたところちょっと驚いた顔をされ(あるいは呆れられたのかも知れない)、「探してみるけど保証はできない」としごく当然のことをいわれた。そして何軒かにかけて断られた後、奇跡的にコパカバーナにあるホテルが滞在期間中二度部屋を変わる条件で私が希望する4泊分用意できるといった。料金もこの時期としてはリーズナブルだという(それでもホテルのランクにしてはかなり高い)。一も二もなく同意した。

さて肝心のカーニバルのパレードだが、こちらもチケットも取らずに来たので現地で購入するしかない。しかし値段を聞いてみるとどうも定価というものがないらしく、売り手の言い値で売られているように感じられた。もちろん席によって価格は違うだろうが、同じセクションの切符でも人によって350リアルといったり280リアルといったりする。流通量は十分にあるようだったので、当日会場で買うことにした。パレード開始直前にゲートの前に立っていると案の定、切符を手にした人が寄って来た。何人かに値段を聞くと最安値は200リアルだった。手持ちがあまりないというと何と165リアルまで下がった。日本円にしておよそ6,600円。パレードの入場口に近いところなのであまりいい席ではなかったが、前日まで350リアルと聞かされていた席なので初めて来た旅行者としてはまずまずだろう。2日目にはパレードがスタートした1時間余り後に行ったら同等クラスのチケットが何と50リアルで買えた。まさに大暴落。

夜の9時過ぎから始まったスペシャル・パレードは想像を超えるものだった。参加できるのは最高峰のチームだけだが、その一つ一つが両側に観客用のスタンドがある1キロはあろうかという道をおよそ1時間かけて行進していく。各チームとも数十人あるいは100人単位で同じ衣装をまとったグループが次から次へと通り過ぎて行く。先頭と最後尾、そして中間のところどころに出てくる“山車”は3階建ての建物に匹敵する高さのものまであり、その上で派手な衣装をまとった人たちが踊っている。参加者が一年の蓄えをすべてつぎ込んでいるという話が説得力を持つ豪華さだ。ブラジル人はサンバの音楽を聞くと血が騒ぐのか、会場も興奮の渦に巻き込まれて大合唱が始まる。こればかりはテレビで見てもなかなか伝わらない。

世界的に有名なコパカバーナやイパネマの広大な砂浜、リオのシンボルともいえるコルコバードの絶壁に立つキリスト像も一見の価値があるが、できればカーニバルの時期に来てパレードを見ることをお勧めしたい。私のように無茶はせず(こんなことをする日本人はあまりいないか)、一生に一度のことと思って多少高くても桟敷席からパレードを見ることができるツアーに参加するのがいいだろう。

2009年2月24日火曜日

マドリッド


ロンドンの次はマドリッドに一泊。こちらは乗り継ぎ時間の都合ではなく、留学時代の友人に会うためにストップオーバーした。スペインはメーカー時代にバスク地方のサンセバスチャンに行って以来およそ13年ぶりで、マドリッドは初めてである。

留学時代の友人は同じ独身寮に住んでいたことから親しくなった。彼はスペインの元首相の息子で、その言動の一つ一つに育ちのよさというかお坊ちゃまぶりをいかんなく発揮していた。ある日寮でトイレットペーパーを持ち歩く姿を見かけたので何をしているのかと尋ねると備え付けのものは質が悪くて使えないという。留学前に日本に遊びに行ったというので東京ではどこのホテルに泊まったのかと聞くとホテルではなくスペイン大使公邸に滞在したといった。キャンパス内にある寮から教室に行くときもクラスメートと食事に行くときも常に品の良い服装をしてジャケットを欠かすことがなかった。

育った環境がそうさせるのか話し方は常に堂々とし、見ようによっては“上から目線”に感じられることもあったためかクラスメートの中には横柄な人間との印象をもった人もいたようだが、私には悪気があるようには思えなかった。大学院一年目に香港への研修旅行に参加したときには地元出身のクラスメートに勧められてアメリカ人のクラスメートと3人で地元のサウナに行ったのだが、彼が背中を足で踏まれる中国式マッサージを受けたのは後にも先にもあれっきりだろう。ちなみに彼はよほど気持がよかったのか、いちばん“ふくよか”な女性にあたって踏まれる度にうめき声をあげていた私を尻目に大いびきをかいて爆睡していた。

私が訪ねた当日は夜にクラシックのコンサートに行くことになっているというのでその後に食事をすることにしていたのだが、ホテルにチェックインした後に彼から連絡があり、コンサートの切符をもう一枚手配できそうなので一緒に来ないかといわれた。しかし出張でもないので着ていく服がない。「行きたいけどカジュアルな服しか持ってきていないんで…。」「僕がカジュアルな格好をしていったら問題になるけど君は外国人なので誰も見とがめないよ。ジーンズにスニーカーとかでなければ大丈夫。」っていうか、スニーカーしかないんだけど…。彼に恥をかかせてはいけないと思ったが、せっかくだからといわれ恥をしのんで行くことにした。

ロンドンのH&Mで買った紺色のプルオーバーを着て待ち合わせ時間に会場のコンサートホールに行くと15年余りぶりに会う彼の姿があった。私と同様にもみあげの辺りに白髪が目立ち始めている以外はほとんど変わっていなかった。この日のコンサートは年に2回行われる特別イベントで、お父上の関係でお招きを受けているためか彼の叔母や姉夫婦も来られていて席も2階の前から2列目だった。演目はメンデルスゾーン、演奏はライプツィヒの交響楽団、指揮者はリッカルド・シャイー(私は不勉強で知らなかったが相当有名な人らしい)、そして北京五輪の開会式で演奏を披露したランラン(郎朗)のピアノ演奏と、素人目にもめったにない見ごたえのあるコンサートに感じられた。独特の大きなジェスチャーで演奏するランラン氏はほとんど鍵盤を見ることもなく情緒たっぷりに曲を奏でる。アンコールでは「別れの曲」を演奏。私が子供の頃、ピアニストの叔母がよく弾いていた曲だ。マドリッドでこんな素晴らしい体験ができるとは思わなかった。

コンサートの後、友人に連れられてコンサートホールの近くにあるというレストランに向かった。日本とスペインのフュージョン料理を出す店だという。ところが高級住宅地の中を歩けど歩けどなかなか着かない。友人はとうとう道に迷ったことを認めたが、道行く人に聞いてみたらどうかというと「そんなことは自分のプライドが許さない」という。さすが?である。しばらくしてようやく目的のレストランにたどり着いた。

日西のフュージョン料理はなかなか美味だった。日英だったらこうはいかないだろう。彼が姉夫婦に私を紹介するとき、「留学当時よりビッグ(要は肥った)になったこと以外は変わらない」といったので量はほどほどにしておいた。1時間余りの食事の間に15年余りの間にお互いに起きたことかいつまんで話した。風の噂で彼が大きな病気をしたと聞いていたが、実は病気ではなく、仕事先のメキシコシティで強盗に遭って拳銃で脚を撃たれたと聞いて少なからずショックを受けた。この事件がきっかけで彼はその後二度仕事を変わることになったという。

「あれからもう15年も経ったなんて恐ろしいね」というと、「あと15年後に会ったらもっと恐ろしいことになっているよ」といわれた。いわれてみればその頃にはお互いに還暦近くなっている。彼からは5年に一度行われる同窓会に行けばもっと頻繁に会えるよといわれ、卒業以来一回も行っていないことを思い出した。しかしこうしてクラスメートが住む町で会ってゆっくり話をするのも悪くない、と思った。

2009年2月22日日曜日

ロンドンにて










エジプトの次はロンドンに一泊。何でも高いばかりで好んで滞在するところではないのだが、今回は乗り継ぎの都合上どうしても一泊せざるをえなかった。せっかくなので当地に赴任しているサラリーマン時代の同僚に声をかけ、一緒に食事することにした。

料理に関しては左に出る者がない国なので、何が食べたいかと聞かれるとやはりインド料理か中国料理と答えてしまいがちだが、今回は日本のチェーンと競合しているという現地の回転ずしのチェーン店をリクエストした。ちょうど滞在先のホテルの目と鼻の先のショッピングモールにあるということで、仕事を終えた元同僚と落ち合って行ってみた。ちなみに彼もイギリスに住んでいながらこのチェーンの店に行くのは初めてとのことだった。

店のつくりは日本の回転寿司店に比べて洗練されていて、客席もベルトコンベアに囲まれた“厨房”もかなり広々としていた。このチェーンが日本のすし屋にはない変わり種で人気を博しているということを日本のテレビで見て行ったみたのだが、どれも今一つぱっとしない。唯一おいしく感じたのはやはりオーソドックスな江戸前の握りだけだった。ちなみにネタに使われているサーモンは今ではノルウェーやチリで大規模に養殖されるようになり、日本の寿司屋にも広く出回っているが、国産は寄生虫がいるとかで日本ではもともと寿司ネタとして使われてなかった。私が初めて生のサーモンを食べたのはここロンドンにある寿司屋で、それ以来すっかりハマってしまった。

この回転寿司店で興味深かったのはベルトコンベアが2車線あって、それぞれが別方向に動いていることだった。これは効率的に寿司を運ぶために考えられてものと想像されるが、作り手から見て“川下”の席についたがためにほしいネタがなかなか食べられないという事態を防ぐのにも有効なようだ。ただ2車線分の場所をとるのでやはり東京あたりの回転寿司屋で採用するのは難しいかもしれない。

それにしてもこの1年でポンドが円に対して半分近くに値を下げたので、ロンドンの物価もだいぶまともに感じられるようになった。以前出張で来た時にはたいしたものも食べていないのに夕食に当時のレートで6,000円以上とられ、ホテルも一泊4万円ほどした。これではとてもプライベートで来ようという気にはならない。今回はクライアントが紹介してくれたパディントンにほど近いホテルに何と1万円未満で泊まれた。もちろん特別割引価格だが、正規の料金でも1万5千円ほどだ。雇われ人だった頃の出張は全部会社持ちだったが、自分で会社をやっている今は直接自分の懐に関わる。オーナー社長が往々にして財布の紐が固い理由がわかるようになった。

元同僚とは当然のことながら会社の話題になったが、経営状況が厳しく本国で人員削減などを始められると、海外に赴任している立場としては帰任先にポストが残っているかといった不安を感じるそうだ。私の方はエジプト滞在中から珍しく日本関連のニュースがBBCインターナショナルのヘッドラインを飾っていると思ったら、その内容が四半期GDP 3.3%下落だとか財務相が飲酒会見疑惑で辞任といったもので国の先行きが不安になる。円高でイギリスでの購買力が高まったことを喜んでいる場合ではないかもしれない。

2009年2月19日木曜日

東方砂漠にて







一昨年のエジプト旅行で知り合ったオリーブ博士モハメッド・エルコホリ氏から、東方砂漠にある氏の農園の拡張に伴う植樹のお招きを受け、1年4か月ぶりに当地を訪れた。農園で1泊、カイロで前後1泊ずつの3泊4日という強行軍だったが、農作業で年齢を感じつつも充実した楽しい時間を過ごすことができた。

東方砂漠はカイロの東からスエズ運河にかけて広がる。行けども行けども果てしなく続くサハラ砂漠と違い、夜になると地平線の彼方にスエズ運河沿いの町の明かりが見え、地面を覆う砂もまったく水気を感じさせないサハラのそれとは違って“土”の感触がある。エルコホリ氏が農園を始めるまではエジプト軍の演習場として使われるほかは時折ベドウィン(砂漠の遊牧民)が通るだけの何もないところだったそうだが今では氏にならって(真似て?)近隣にもオリーブ農園が次々にできている。不毛の地で育て上げた自分の農園の姿をグーグル・アースで確認することができるのが氏の誇りである。

石油業界でエンジニアとして働いていたときに貯めたお金で土地を買い、独学で始めたオリーブ栽培だが、今では同じような気候条件の中東各地や西オーストラリアの乾燥地帯に生産指導に招かれるようになっているからたいしたものだ。ドイツで教育を受けたエンジニアということもあってか、植える木の間隔から灌漑用のパイプの張りめぐらせ方、水圧のかけ方、異なる品種の配置のし方まですべて計算されつくしていて話を聞けば聞くほど感心させられる。あるとき氏に「シンジに会うまで日本人はもっと几帳面だと思っていた」といわれて自分の大雑把さを反省した。確かに日本人とエジプト人のイメージが逆転してしまっている・・・。

植樹はもともと3月に行われる予定だったが、こちらの一方的な都合で2月に繰り上げてもらったために私が来るまでの数週間は土の掘り起こし、パイプの埋設、コンポストの準備などてんやわんやだったそうだ。大変申し訳ないことをしたと思ったが、エルコホリ氏からは私が来る日程が早まっていなかったらこれほど急ピッチで準備を終えることはできなかったので感謝しているといわれた。そういって頂けるとありがたい。

今回の拡張で新たに植える木の本数は1,200本。苗木はすべて農園で育てている。以前よそから買った苗木の根についていた病原菌が大繁殖して農園の土を入れ替えなければならない事態になったそうで、その後は自分が育てたものしか使っていないという。植樹が行われる区画には夏場の日照時間などを計算してあらかじめ一定間隔に割りばし状の杭が立てられており、川崎重工のユーティリティ車Muleに乗せてビニールハウスから運んだ苗木を工具であけた穴に一本ずつ植えていく。こうした作業をごく短い時間手伝っただけで農作業の大変さを実感できた。

オリーブは何百年も生きる寿命の長い樹木で、根っこと幹の一部さえ残っていれば枝をすべて切ってもまた伸びてくる強い生命力をもつ。エルコホリ氏のところではオリーブの木を若返らせるために区画毎に何年かおきにばっさりとやってしまうのだが、前回訪ねたときに見るも無残な姿だったオリーブの木が今回見ると見事に再生して何事もなかったかのように青々とした枝を広げているのを見て驚いた。今回私の手で植えた木々も私がいなくなってからも末長く生き続けてくれるだろうが、その成長を出来る限り見届けていきたい。

2009年2月1日日曜日

続・がんの話

3つの病院で腹部の腫瘍を早く切除するようにいわれた後、ビジネススクール時代に夏休みを過ごしたハワイ島のコナに行った。(クラスメートは誰も信じてくれなかったが、ハワイ島で夏休みを過ごしたのは遊び目的ではなく当地にある不動産投資会社でいわゆる“サマージョブ”をするためで、毎日カイルア・コナの浜辺近くの事務所でパソコンに向かって商業用不動産の収益予測をつくっていた。ハワイの会社を選んだ動機はと聞かれるとちょっと答えづらいが…。)当時は日本人観光客をほとんど見かけなかったが、その後日本航空の直行便が就航し、私が乗った便にはその年にペナントレースを制した西武ライオンズの選手とその家族が優勝記念旅行に行くために乗っていた。

到着した日の夜、かのカメハメハ大王が晩年を過ごした地に立つ老舗ホテルで床についたがなかなか寝つけず、ほかにやることもないので部屋にある大型テレビをつけた。日本であればどのチャンネルでもテレビショッピングをやっている時間帯であるが、たまたまつけたチャンネルで最近本を出版したらしき人をインタビューしている番組(おそらく有料広告番組)が放映されていた。聞くとその作家はがんというのは不治の病ではなく、ヒトの体の状態がつくり出すものだと語っていた。鍼の先生にその部分を切っても根本的な問題解決にはならないといわれながらもやはり切らないことへの不安が拭い難く、この作家の話に聞き入った。そして彼が書いた本の題名をメモして読んでみることにした。

日本に帰国してしばらく経ってから本が手元に届いた。読むと書き出しは医薬品業界批判オンパレードで、おそらく大多数の人はこれを読んだ時点でうんざりしてしまうだろうと思った。製薬業界は病気が完治してしまうとそこで収益が途絶えてしまうので、症状を抑える薬はつくっても完治させる薬はつくらない。株主から収益をあげる役割を任されている経営陣としては当然の行動である、といった具合だ。株主云々の話は別として鍼の先生も同じようなことをいっていたが、西洋医学を信奉する今の風潮からするとなかなか受け入れられないのではないかと思った。肝心なことはその後に書かれているのだが、多くの読者はそこに行き着くまでに“うさん臭い”と感じて読むのをやめてしまうだろう。

さて肝心のがんに関する記述だが、この人物曰く、がん(cancer)というのはもともと弱アルカリ性であるべき人体が生活習慣の問題なので酸性に傾くと発生する。そして酸性に傾いた体を弱アルカリ性に戻せばがん細胞は自然と正常な細胞に置き換わるという。こんな話を聞かされたら大多数の人は何を奇想天外なと思うだろうが、鍼の先生から代謝だの正常な細胞への置き換えだのといった話を聞いていた私には何となくありうることのように感じられた。

鍼の先生がいう腸の蠕動運動を起こすジョギングやウォーキングなどの運動は体をアルカリ性に戻すのに役立つだろうが、この本を読んでからというもの、さらに食生活をアルカリ性に変えるためにあまり好きでなかった梅干しを食べるようになった。それもこだわって紀州産南高梅の無添加・無農薬のものを取り寄せている。その後転移や増殖の気配もないまま(検査に行っていないので腫瘍がどのようになっているかわからない)歳月が流れるに従って病院の先生方がいっていたことがどんどんと説得力を失い、鍼灸師やこの作家がいっていることがますます説得力をもって感じられるようになった。

2009年1月25日日曜日

がんと腰痛

先日民放の番組で、ある専門医が「人体には一日に5千個ほどのがん細胞ができていて、免疫機能が衰えるとそうしたがん細胞が破壊されずに増殖する」という話をしていた。また昨年はNHKの番組で腰痛の回復には安静ではなく運動が有効であることがわかったとする研究結果がさも世紀の大発見であるが如き扱いで放送された。しかし7年前からかかっている鍼の先生にそうしたことを聞かされていた私には何ら驚くようなことではなかった。

7年前に腰痛どころか少しでも動くと背中から腰にかけて激痛が走る症状に見舞われた私は病院でも原因がわからず、そのまま寝たきりになりかけた。心が休まることがない投資銀行勤務をしていたときで、これからどうしたものかと病床で思案していたところ、駅の近くに“万病を治す”が如き怪しげな看板を掲げている鍼灸院があったことを思い出した。西洋医学が解決しないなら東洋医学に頼るしかない。考えてみれば東洋医学のほうがよほど歴史が長く、経験の蓄積も大きいはず。歩くのもやっとの状態だったので塀を伝いながら普通なら10分とかからない道のりを30分以上かけて歩き、その鍼灸院にたどり着いた。

60代と思しき大柄でがっちりとした鍼灸師は私の肩や背中、腰を触診して原因は運動不足による内臓機能の低下にあり、背中とか腰の問題ではないといった。背中全体が岩のように固まっていたため、いちばん細い針でも刺されるたびに激しい痛みが襲い、額からあぶら汗がにじみ出た。何年も通ってわかったことだが、針を刺されて痛く感じるのはそれだけ筋肉が硬直しているからで、筋肉が柔軟さを取り戻した後は針を刺されると逆に気持ちがよくなって施術中に眠ってしまうこともある。

ようやく施術が終わった後、先生から「どんなに痛みがあっても毎日外を歩くように」とにわかに信じ難いことを言い渡された。こちらは激しい痛みでゆっくり歩くのもやっとなのに、いったいこの先生は鬼か!と思った。しかし内臓機能を活性化させるには腸のぜん動運動が不可欠で、それを起こすのにもっとも効果的なのがジョギング、それができないのであればウォーキングをしなければよくならないという。いわれた通り鍼治療に通いながらウォーキングを続けると徐々に痛みもひき、軽いジョギングまでできるようになった。発症した当日に行った病院で空きベッドがなかったために入院を免れ、この鍼灸院に通うことになったのはまさに幸運で、あの日あのまま入院していたら今自分はいったいどうなってしまっていただろうかと思う。

この先生が常日頃から口にしていたのは「安静にしてはいけない」であった。安静にするということは体力を落とし、内臓機能も低下させ、病気を治すどころか悪化させるというのだ。いわゆる腰痛もしかりだ。私がインフルエンザにかかってふらふらしながら行ったときも施術の後に何キロかジョギングして来いといわれて驚いた。また何たる鬼のようなと思ったが、ふらふら歩きで近所の川沿いの遊歩道を何キロかウォーキングし、その後教わった方法で体を温めて休んだら翌朝には予定していた京都旅行に出かけられるほど回復した。2003年にSARSが流行したときには死者が出ている原因は「肺炎にかかっているのに横にして寝かせているから」だといった。健康な人でも何日も病院に寝かされていると肺の機能が低下する、せめて上半身を縦にした状態で休ませなければ肺炎の患者はどんどん悪化するといった。

この先生のところに通い始めてから4ヵ月後に当時勤めていた投資銀行に辞表を提出した(健康上の理由からではない)。担当顧客からもらっているIPO案件を失いたくない経営陣から何ヶ月か先延ばしするよう求められた。後任に仕事を引き継ぐだけとなり、時間に余裕ができたので長らく受けられずにいた健康診断を受けにいくとレントゲン検査で腹部に黒い影が映った。すぐに紹介を受けた虎ノ門の病院で手術を受けることになったが、何と摘出に失敗されてしまい、ただ痛い思いをしてお金を取られただけで終わってしまった。(入院・手術のことは家族にもいわないでいたため、ここの病院が医師の間でもすこぶる評判が悪いことを知ったのはその後だった。)もともと痛いことが嫌いな人間なので何とか再手術を逃れたい思いから別の二つの病院に行って再度調べてもらったがやはり腫瘍がはっきりと確認され、早く切ったほうがいい、さらには放っておくと危ないとまでいわれた。

西洋医学に否定的な鍼の先生には一連の病院通いについて話さずにいたのだが、サード・オピニオンまでクロと出るとさすがに万策尽きた感があり、ついに打ち明けることにした。すると先生は「切ってもいいけどそれで問題は解決しない。がんと呼ばれるものはヒトの体内で発生する異常な細胞で、代謝が正常に起きていれば正常な細胞に置き換わる。自分が行っている施術はつぼを刺激するといった一般的な鍼治療ではなく、体の中の細胞を人為的に壊して再生を促しているのだ」といった。つまり代謝を改善しないと腫瘍をきってもまた体の別の場所で同じことが起きるというのだ。他界した父の舌癌が肺に“転移”したと聞いたときに、なぜ血管を流れるわけでもないものが体のまったく違った部分に“移る”のかと思ったものだが、代謝の乱れによるものだったら体のどこで起きても不思議でない。また、その代謝が改善しない限り“再発”を繰り返すというわけだ。「抗がん剤はがん細胞と同じように正常な細胞をも破壊するのできわめて危険」という先生の話も抗がん剤を打たれるたびに目に見えて衰えていった父の実体験と重なる。

再生を促すために細胞を壊すという話を聞いて先生が体を貫通するかと思うほど長い鍼を使っている理由がわかった。レントゲン検査で腫瘍が見つかった場所はどのあたりかと聞かれ、そこをめがけて太くて長い針を差し込まれた。先生の話は我々がとらわれてしまっている西洋医学の常識とあまりにかけ離れているため、はじめのうちは半信半疑で腫瘍を切らないことへの不安もあったが先生にいわれるがままに鍼治療に通いながら運動を続け、その後6年余りも生き続けているのだから真実は意外なところにあるのかもしれない。先生の話が世に受け入れられるにはまだまだ時間がかかるだろうが、前述のような“専門医による新発見”が重なれば西洋医学の常識が見直されていく可能性はあるだろう。