2010年5月29日土曜日

飛騨牛づくし


年齢のせいで体質が変わったのか、最近長い時間熱いお湯に浸かるのが苦手になってきた私だが、それでも泊まりがけで大阪方面に出張するときには有馬温泉に泊まったりする。温泉につかるのが目的というよりは街中に泊まるよりも空気がきれいで落ち着くし、朝は梅田まで直行バスが出ているのでよほど朝早いアポイントでなければ問題なく間に合うからだ。今週は珍しく名古屋方面に泊まりがけの出張が入り、しかも朝一番の訪問先が岐阜から高山線を入った某重工系企業だったので、名古屋市内ではなく、あの有名な下呂温泉に泊まることにした。

新幹線は苦手なので高速バスで高山まで行き、そこから特急で下呂に向かうことにした。そして大学時代に初めて高山を訪れ、駅の近くの店で学生にとっては決して安くない飛騨牛のステーキを食べたところたいしておいしくもなく、非常にがっかりしたことを思い出した。インターネットが普及する前の話なので、口コミなどで店の評判を比較することもできなかった。今回はそのときのリベンジとばかりに下調べをして店を選んで行ったのだが、電話を入れたところ予約でいっぱいと知り、断念した。

そのまま下呂に向かうため駅に行くと全国の駅弁大会で入賞したという飛騨牛のしぐれ弁当なるものが売っていたので、さっそく買って下呂に向かう列車に乗り込んだ。この弁当はローストビーフのスライスをわさび醤油につけて食べるのだが、薄っぺらい肉片数枚がそれなりにおいしく、かえって物足りなさを感じることとなった。そこで下呂に着くとすぐに観光案内所に向かい、飛騨牛を食べられる店はないか尋ねた。下呂が飛騨なのか美濃なのかわからなかったが(後で飛騨地方であることを確認した)、高山からそれほど離れていないので飛騨牛はあるのではないかと踏んだのだ。

宿に荷物を置いてさっそく教えられた店に行き、飛騨牛の寿司を注文した。いい牛肉ほど焼き過ぎない方がおいしいし、生で食べられるというのはよほど新鮮な証拠だ。ボリューム満点の寿司(写真)は味も絶品で、お店の人にどうして同じ飛騨牛でも味に大きな隔たりがあるのか聞いたところ、肉の卸業者との関係でいい肉を卸してもらえる店とそうでない店があるとのことだった。そしてこの店には高山からわざわざやって来るお客さんもいるということだった。何たる幸運。

山形市で食べた山形牛は実においしかったがすぐ隣の米沢牛のようなブランド力がないためか値段はリーズナブルだった。一方、飛騨牛は米沢牛に近いステータスで黙っていても一見の観光客が食べに来るからなのか、東京のスーパーで買う安い輸入牛肉のような味のものでも平気で出てくる。おいしい寿司に味をしめてほかの店で夕食も含めて二度飛騨牛を食べたがいずれも輸入牛肉に劣るとも勝らないがっかりな代物だった。やはりブランドに引かれて料理を食べるときには地元の人に聞いてしっかり店を選ばないとだめなようだ。

2010年5月22日土曜日

イギリスからの来客

「週末はぐっすり寝られたよ!」前の週に来日したイギリスのクライアントからのメール。思えば過酷なまでにハードなスケジュールを組んでしまった。

まず到着当日の月曜日にはホテルにチェックインした後、休む間もなく面談に連れ出し、その後に会食、翌火曜日は東京で2社面談した後横浜に移動して面談、東京に戻ってさらに面談をこなした後、立て続けに新聞社2社の取材、そして会食、水曜日は都内で2社面談をした後大阪に移動してさらに2社と面談、そして会食、木曜日は大阪で2つ面談をした後広島に移動し、面談、工場見学、会食、そしてその日のうちに大阪に戻り、翌金曜日の朝に関空から送り出した。スケジュールを見返してよくここまで詰め込めたものだと思う。

しかし、である。それだけ多くの企業さんが面談の申し入れを受けてくださったことは有難く思うべきで、日本的な社交辞令の要素が多少あったにしても総じて感触は悪くなく、今回の来日の目的は達成できたと思う。また、そもそもこのようなキツキツのスケジュールになったのは月曜日到着の金曜日出発という正味3日余りの滞在だったからということもある。海外に出張するときには前後の週末を移動にあてるのが当たり前と考える我々日本人に比べてプライベートを重んじていることの表れだろう。

昼食もとる時間もろくにないほどの分刻みのスケジュールながらすべて時間通りに進んで満足していたところ、クライアントから思わぬことをいわれた。奥さんにお土産を買わなければならないというのだ。思えば連日夜の会食の予定まで入れてしまったので買い物に行く時間がなかったのだ。奥さんからは”Don’t buy me anything. ”(何も買って来なくていいから)といわれているということだったので、それなら今回はいいんじゃない?といったら、その言葉を文字通り解釈したらエラいことになる、「高いものは買わなくていいが、自分と離れていて寂しかったことが伝わる程度のものは買って来なさい」という意味なのだそうだ。大阪での面談の合間に船場の高架下のショッピングモールに連れて行ったが、安すぎるという理由で結局何も買わなかった。

その後博労町にある英国総領事館に行くと受付の掲示板に同館の管轄区域で国際結婚する予定のイギリス人とその結婚相手の年齢、住所等が印刷された紙が貼り出されていた。見ればそのほとんどがイギリス人男性と日本人女性のカップルで、これを見たクライアントは「日本の女性はsubservient(従属的)なんだよね。」といってきた。企業訪問などでお茶を出す秘書さんたちの姿を見てそのような印象をもったようだ。見ればほとんどのカップルが女性の方が年齢が上で、日本で生活するとなればなおさら旦那が主導権を握れそうにない。誤った認識を持ち帰られても困ると思い、「結婚するまではね。」と断った。

2010年5月16日日曜日

ファーストクラス

今回の海外出張で初めてファーストクラスなるものに乗った。一生に一度は経験しておきたいと思っていたが、私が自腹でそのような贅沢をすることなどまずありえない。たまったマイルを使ってのアップグレードだ。どうせ乗るなら距離の長い便を選ぼうとするあたりが我ながらセコく、そのようなことだから大きな勝負に出ることもなく、零細企業のままくすぶっているのだろう。ちなみに成長を目指さないのは「大企業に勤めた経験からその非効率さをよくわかっているため」というのが表向きの理由だ。

成田空港でチェックインと出国手続きを済ませて搭乗ゲートの近くにあるファーストクラスのラウンジに向かった。中に入ると職員の人が席に案内してくれ、飲み物のオーダーを聞かれ、ほどなくしておしぼりが運ばれて来た。このあたりは完全セルフサービスのビジネスクラスのラウンジと違う。また、当たり前だが置いている食べ物や飲み物の質も明らかにビジネスクラスラウンジの上をいっていて、そばやうどんもその場で作ってくれた。目覚めが早かったため必要以上に早く空港に着いてしまったが、こうしたところでくつろげるなら早めに来るに越したことはない。

搭乗時刻になって優先搭乗で飛行機に乗り込むと、客室乗務員さんが機内用のスリッパをそろえてくれたり着替えの寝巻を出してくれたりと早々に世話を焼いてくれ、こうした扱いに慣れている人が乗るべきクラスなのだと改めて感じた。見ればB777型機だというのにファーストクラスは8席しかない。席は奥行きも幅もエコノミークラスの倍以上で、ビジネスクラスでも横幅がもったいないと思う私にはもてあますくらいだが、“フルフラット”のベッドは長時間のフライトではありがたかった。

食事のメニューは布地のカバーのついたもので、料理は前菜からメインまでフォアグラ、キャビア、トリュフといった名前がつくメニューが並び、飲み物もワイン、芋焼酎、日本酒に至るまでビジネスクラスにはない珍しいセレクションのものが用意されていた。希少品として提供されていた日本酒が出発の前日に実家の墓参りで行ったばかりの西多摩の酒蔵で造られていることに驚いた。ここぞとばかり色々な種類のお酒を頼んでしまうところがまた我ながらセコい。でもどれも美味しい…。寝巻に着替えるために案内されたトイレは通常の2倍の広さがあった。

エコノミークラスとビジネスクラスの差は歴然としているが、ビジネスクラスとファーストクラスはそれほど違うものだろうかと思っていたが、料理や飲み物だけでなく、大きな液晶ディスプレイの画質といい、ソニーのロゴが入ったケースに入れられたヘッドフォンの音質といい、差は歴然としていた。食事のサービスが終わると客室乗務員がファイテンの寝具でベッドメイキングをし、枕元に置くための使い捨てのアロマシートまでくれた。飛行機の機内で1畳ほどのスペースを占有して横になることができるなど何たる贅沢。

到着前の朝食は飛行機の機内とは思えない身の柔らかい煮魚やおいしいご飯まで出てきて、おかげで12時間余りの長いフライトを快適に過ごすことができたが、飛行機の到着が遅れたせいで別のターミナルから出る乗り継ぎ便に乗るためにだだっ広いヒースロー空港の中をさんざん走らされ、汗だくになってしまった。優先的に飛行機をおろしてはくれるが、当然のことながらほかのクラスよりも早く到着することはできない。おかげでファーストクラスの機内で体を休めて広々としたトイレで体を拭いてきたのに台無しだった。

エコノミークラスとビジネスクラスでは4倍以上の価格差は当たり前で、ファーストクラスはそれよりもさらに高いわけだが、今回乗ってみて思ったのは私のようにふつうにエコノミークラスにも乗り、渡航先で何らぜいたくもしない人間にはたかが移動手段にそんな大金を払う気にはなれない。逆にどうせ散財?するなら10時間余りの贅沢にではなく、渡航先でもっと長い時間をかけてしたいと考えてしまう。やはり私のような人間が乗るべきクラスではないようだ。

2010年5月8日土曜日

タイタニック号


1年ぶりのベルファスト。今回の出張にはベルファスト港周辺地域の視察が組み込まれていた。ここはあのタイタニック号が建造された地で船内の内装工事が行われたドライドックは自由に見ることができるが、今回はふだんは見られない船体工事が行われたドックと工事を請け負ったハーランド&ウルフ社の旧本社屋の中まで見せてもらった。煉瓦造りの旧本社の建物は使われなくなってからの長い年月を物語るように壁の塗装ははがれ、天井近くの柱の間から木が生えていたりと荒れ放題で、我々一行が案内人の説明を聞いていると誰もいないはずの扉の方からノックの音が聞こえてきた。夜一人では絶対に来たくない…。

上の階へと続く木の手すりのついた階段はタイタニック号の船内に設置されたものと同じだそうで、建造に関わる様々な重要事項が話し合われた役員会議室も当時のまま残っている。タイタニック号の惨劇の原因ともなった救命ボートの数もそこで決められたそうで、当時の法律では乗客の数ではなく、船の重量に応じて最低数が規定されていたために本来64は必要だったのが20に抑えられたというから驚く。ボートの数を法律上の最低必要数に抑えたのはタイタニック号を“沈まぬ船”と呼んだ自信もあったのかもしれない。もちろん事故の後、この法律は変えられたそうだ。

はじめてベルファストを訪れた2年余り前、ハイヤーの運転手さんが「タイタニック号はここ(ベルファスト)を出たときには何の欠陥もなかった。」といっていたが、今回の視察に同行した案内人によると、当時ベルファストの人々は当地で建造された世界最大級の客船を大いに誇りに思い、前述の通り“沈まぬ船”と呼んでいたので、その沈没の報に大きな衝撃を受け、しばらくはタイタニック号の名を口にすることもなくなったのだそうだ。そしていつしか自分たちをなぐさめるかのようにハイヤーの運転手さんがいっていたことばを口にするようになったのだそうだ。事故から一世紀経ってもなお、それが受け継がれているのが興味深い。

今回の視察はただの物見遊山ではなく、タイタニック号の建造地やベルファストの港の周辺にある開発用の土地を見て回るのが目的だった。建造地の周辺にはすでに研究所やシティグループの大規模なバックオフィス拠点などが進出し、コンドミニアムの建設が進められているが(今回視察したH&W社の旧社屋は高級ホテルに生まれ変わるとのこと)、造船産業の衰退で余った土地を海上風力発電関連事業の集積地に生まれ変わらせようというのだ。ベルファストはイギリスに3つしかない水深の深い港で、周辺に開発可能な土地が残されているのはここだけだそうだ。何年後かに生まれ変わった姿を見に来たいと思った。

2010年5月2日日曜日

takebo.jp

数年前、拙著が商業出版されることになったのを機に取得したこのドメインが、更新忘れで見も知らぬ人の手に渡ってしまったが、このほど奪還?することができ、出版社との契約も終了しているので、これを機にオリジナルのサラリーマン体験記を掲載することにした。

私も齢40代に達し、この本を書いた当時とはすっかり考え方も変わってしまったので、今さらオリジナルを掲載するのも恥ずかしいところはあるが、他愛のない元サラリーマンの体験談が大幅な削除と編集を経てずいぶんと趣の異なる本として世に出たことを少なからず不本意に思っていたので、思い切ってありのままの姿を公開することにした。

オリジナルを読んだ人の中には電機メーカーよりも投資銀行での体験談の方が面白かったといってくれる人もいるので、関心のある方は暇つぶしにお読み頂ければと思う。