2009年12月29日火曜日

ハイパーインフレ


旅行前にビクトリアフォールズのホテルに予約を入れようとウェブサイトを見たところ、宿泊料金の表示がなぜか隣国南アフリカの通貨ランドで表記されていた。海外からの玄関口であるはずの国際空港(といっても日本の小規模な地方空港よりもさらに小さい)には両替所すらない。米ドル払いが歓迎されると聞いていたので特に心配はしなかったが。

観光がてら町を歩いていると物売りの若者が寄って来て手に持った札束を見せてきた。見るとゼロがたくさん並んだ見慣れない紙幣で券面にTen Billion Dollas(百億ドル)と書かれていた。その後ホテルのフロントの人と話をする中で、同国ではある日突然何の予告もなくお札が使えなくなり、以前実際に使われていた紙幣が今では土産物として売られているのだと知った。ホテルにも置いているということだったので250億(ジンバブエ)ドル分の紙幣の束を2米ドルで購入した。この通貨の使用停止措置は政府が超インフレに音をあげてのことと想像するが、やることがあまりにドラスティック。ゼロの数がそれほど増えてしまったのはデノミをやる間もないくらいに急速にインフレが進んだためだろう。

説明を聞いてようやく謎が解けた。この国は自国の通貨を放棄したのだ。それまで外貨が歓迎される国には行ったことがあったが、自国の通貨を廃止した国というのは聞いたことがなかった。ただ、自国の通貨を発行しなければそのためのお金と手間が省け、金融政策に頭を痛める必要もなくなる。ジンバブエでは自国の通貨が流通していたときには手に入らなかった生活必需品が海外から入るようになったという。かつてのヨーロッパの小国に見られたように経済的に自立していない国にはありうる選択肢なのかもしれない。

2009年12月28日月曜日

中華大販店


ビクトリアフォールズは間違いなくジンバブエ最大の観光地だが、町はすぐに歩いて回れるくらい小さい。そんなアフリカの奥地の町に「中華大販店」なる漢字の看板を見かけた。アルファベットすら書かれていないのだから中国系の客以外は眼中にないのだろう。こんなところに中国料理屋があることもさることながら、中国系の客だけを相手にして商売が成り立つほど観光客が来るのだとすれば驚きだ。ちなみに私は滞在中一人も日本人を見かけなかった。

アフリカで食べる中国料理というのはどんなものだろうかと思い、滞在3日目のお昼過ぎに行ってみた。その店はお土産屋が数件入っている小さなモールの2階にあり、窓のない吹きっさらしの広々としたフロアに4つほど大きな丸テーブルが並べられ、その一つで中国人観光客と思しき一団がにぎやかに話をしながら食事をとっていた。海外で中国料理店に入ると決まって中国人と間違われる私だが、案の定?店のおかみは私を見ると何か中国語で話しかけてきた。どうやら英語が苦手なようで、私に中国語が通じないとわかったとたん現地人の店員に接客を任せて店の奥にひっこんでしまった。

炒飯と酸辣湯を注文してテーブルで一人待っているとほどなくして大皿に盛られた具の少ない炒飯と小ぶりなやかんいっぱいに入ったスープが小さな器とともに運ばれてきた(ここはアメリカかい!)。食べてみるといずれも味付けが薄く(というかほとんど味がなく)、おそらく私がそれまで食べた中でいちばんおいしくない中国料理だった。それでも客が入るのだから競合がないというのは商売人にとって何とも理想的な状況だ。今回はそれなりのホテルに泊まったのでレストランの食事は決して悪くなく、変な気を起さずにそこで食べればよかったと後悔した。

中国人の団体客が去って客が私一人になると、おかみが私のテーブルにやって来て話しかけてきた。どうやら何人(なにじん)かと聞いているようだったので、以前かじりかけた北京語で日本人だと答えると、ようやく中国語が話せない理由を納得したようだった。おばさんは退屈しのぎに話し相手を求めているようだったが、いかんせんこちらは中国語が話せず、向こうは英語が話せない。以前受けた北京語のレッスンを思い出しておばさんが何を話しているのか推測することはできても中国語で答えることができない。おばさんが鉛筆とノートを出して来て漢字による筆談が始まった。

学生のときに旅行先の台湾でこうした筆談が思いのほか通じて助かったが、相手が簡体字(大陸で使われている単純化された漢字)で教育を受けている大陸の人だとそう簡単ではない。我々日本人が使っている旧式の漢字(繁体字)を相手が理解したとしても、原形をとどめないこともあるほど簡略化された簡体字で答えられると理解するのが難しい。幸いなことに以前受けた北京語のレッスンで繁体字の部首が簡体字ではどのように略されるのかといったことを教わっていたので、おばさんが書くことがある程度理解できた。二度にわたって挫折した北京語のレッスンがこんなアフリカの奥地で役に立とうとは…。

筆談を通じておばさん(名字は“曲”)が遼寧省出身の43歳で、夫を肝臓病で亡くした未亡人であることがわかった。成人した一人息子は故郷の鞍山で“保安”関係の仕事をしていて旧正月には2か月ほど店を閉めて里帰りするのだという。Lilyという英語名を名乗って英語を勉強しているものの、まだほとんど話せないとのことだった。そしてビクトリアフォールズの町は退屈(boring…英語ができないというわりにはこの単語は知っていた)なので、いずれ首都のハラレに移って物を売る商売を始めたいとのこと。

言葉もできないのに単身でこのようなアフリカの奥地にやってきて商売を始めるなど何ともたくましい。長年海外に出て地元に根を張って来た中国人のたくましさは健在のようだ。ただ曲さんがジンバブエに来た理由は今一つはっきりしなかった。アフリカへの影響力を強めようとしているといわれる中国が85歳のムガベ大統領(ジンバブエの平均寿命は50歳という)を病気の治療のために北京に受け入れるという話は地元でよく知られているようで、曲さんがハラレの中国大使館員と付き合いがあるということからすると中国政府が在外公館を通じて戦略的に重要な国での中国人の活動を支援しているのもありえない話ではない(一見ふつうのおばさんの曲さんが女スパイだったりしたら驚きだ)。

世界の人口の5分の1以上を占める中国。海外に出る移民も観光客もこれからますます増えるだろうから、今後そのプレゼンスはますます高まっていくのだろう。ただ料理屋を始めるときは一定のクオリティを確保してもらいたい。

2009年12月25日金曜日

マラリア

香港からヨハネスブルグに向かう飛行機の中、60歳代と思しき南アフリカ人の紳士(白人)と隣り合わせた。話をするうちに、私の留学時代の唯一人の南アフリカ人クラスメートと同じ町の出身で知り合いであると知ってその偶然に驚いた。そのクラスメートは卒業後にバミューダに居を移して投資ファンドをやっていると聞いていたが、その会社は彼の父親が立ち上げたもので、南アフリカではテレビCMをうつなど、知らない人がいないほど有名であることを知った。

これからどこに行くのかと聞かれてジンバブエと答えると、氏が南アフリカでアメリカの大手アパレルメーカーのフランチャイズを展開していて、ジンバブエには工場をもっていたという。政情不安になる前にアメリカの企業に売り抜け、今は彼が経営していたときからいる現地の経営陣がアメリカの企業から工場を買い取った(いわゆるマネジメント・バイアウト)とのこと。こうした話を聞くうちに、同国がムガベ大統領が統治する実質独裁国家であることに気づいた。

勉強不足にもほどがあるが、その後もっと大変なことに気づかされた。マラリアの予防はしてきたかと聞かれたのだ。当地がマリファナの感染地域だと知らず何もせずに来たが、時すでに遅し。ヨハネスブルグで乗り継いでそのままジンバブエ入りする私には今更どうすることもできない。海外旅行といえばビザをとること以外はいつも行き当たりばったりで何とかやってきたが、今度ばかりは大失敗だ。アフリカをなめてはいけない…。

現地で会った外国人観光客に予防薬を服用していないのかと驚かれて改めて事の重大性を認識した。地元の薬局に行って聞いてみたところ、薬が効くまでには飲み始めてから1週間程度かかるので、今から飲み始めても遅いというつれない返事。結局蚊に刺されないようにするしか方策がないことを知らされた。

一口に蚊に刺されないようにするといっても私の場合は容易なことではない。というのも人一倍蚊に刺されやすく、隣に座っている人がまったく刺されなくても体中を刺されることがあるほどだ。蚊だけではない。留学先の大学院の仲間とメキシコのカンクーンに行ったときにはシュノーケリング中に私だけが体中をクラゲに刺されてその晩はかゆくて眠れなかった。

マラリアの予防を怠ったためにジンバブエでの行動がかなり制約されることとなった。真夏にもかかわらず長袖長ズボンを着用し、くだんの紳士に教えてもらってヨハネスブルグの空港で買ったTabardという虫よけ薬を肌が露出している部分に塗り続け、外出から帰ったときには汗の染みた衣服をすぐに洗った。蚊が多く出てくる夕暮れどき以降は一切外出せず、ホテルの部屋にこもった。そして一晩に何度も虫よけスプレーを部屋中に吹きかけた。

蚊に刺される可能性があるアウトドアのアクティビティにも参加しなかったため、滝を見るという本来の目的以外のことはあまりやらずに終わったが、当初フライトの都合で一週間滞在することになりそうだったのを、4日間に短縮していたのが大いなる救いだった。これまで旅行はなるべく軽い荷物で済ませるためにガイドブックも買ったり買わなかったりだったが、今回ばかりは「何とかなる」では済まされないことがあることを思い知らされた。

2009年12月23日水曜日

ビクトリアの滝


ビクトリアの滝は南米のイグアスの滝と違って町(というか集落といった方がいい規模)から歩いて行かれる距離にある。思い立ってすぐに行動に移す私には好都合だ。ホテルが勧めるヘリコプターの遊覧飛行をしてから行くことにした。

遊覧飛行はたかだか12、3分で100ドル以上とられるが、上空から大滝の全貌を見ることができて圧巻だ。断崖絶壁を流れ落ちる巨大な滝の眺めは見事としかいいようがない。しまり屋(“しみったれ”ではない)の私はこうした遊覧飛行をするのが初めてだったが、機会があればほかの景勝地でもやってみたいものだと思った。

http://www.youtube.com/watch?v=Mkl0pQMQ0mY

ホテルに戻った後、カメラをもって滝を見に出かけた。深い谷底から上る水しぶきが夏の太陽の光を浴びて大きな虹をつくる光景がすばらしい。世界三大瀑布を制覇した中学時代の同級生がビクトリアの滝をイグアスの滝よりも上にランク付けしていたが、両者では周辺の地形が大きく異なる。イグアスの滝が広範囲にわたって高い崖の上から水が流れ落ちているのに対してビクトリアの滝は地表にほぼ一直線に巨大な亀裂が走り、深い谷底に大量の水が流れ落ちていく様子を崖の反対側から眺めることができる。

ビクトリアの滝は間違いなく一見の価値はあるが、当地には滝以外にこれといって見るものはない。滞在二日目に滝を見た後は何もやることがなくなってしまった。当初フライトの都合もあって一週間以上滞在することになっていたが、旅程にケープタウンを加えることで4日に短縮できてよかったと思う。

2009年12月18日金曜日

ザンベジ川の夕日


成田から香港とヨハネスブルグで飛行機を乗り継いで24時間余り、ようやくジンバブエにたどり着いた。これほど長い時間飛行機に乗り続けるのはアルゼンチンのブエノスアイレスに行ったとき以来だ。目的はビクトリアの滝を見ること。一生に一度行ってみたいと思っていたところだが、日本から余りに遠くアクセスも悪そうなので、実現性が低いと思っていた。しかし年をとって体力がなくなっていくとますます実現性が低くなると思い、欧米の顧客がメインのわが社のビジネスがスローダウンする年末に思い切って行ってみることにしたのだ。

旅行代理店に勤める中学時代の同級生はその特典を生かして世界中を旅行し、“世界三大瀑布”と呼ばれる北米のナイアガラの滝、南米のイグアスの滝、そしてアフリカのビクトリアの滝をすべて制覇した。彼は1にビクトリア、2にイグアス、3にナイアガラとランク付けしていたが、今年イグアスの滝を見てその大きさと迫力、そして美しさに感動した私にはその上をいく滝というのが想像できず、見てみたいという思いがさらに募った。

ビクトリアの滝はジンバブエとザンビアの国境にまたがるが、その大半はジンバブエ側から見ることができ、その名もビクトリアフォールズという小さな町が観光の拠点だ。空港から町に向かっていくと、平原の彼方に大きな水煙が上がっているのが見えてきた。空高く巨大な水しぶきが上がるというのは相当なことで、滝を見るのがますます楽しみになった。

その日はホテルにチェックインした後、人に勧められたザンベジ川のサンセットクルーズに参加した。大滝の上流でありながら川の流れはゆるやかで、野生のかばの一家が悠然と泳いでいたり、中洲の川べりで野生のワニの子どもが昼寝をしたりしていた。川面を流れる風が心地よく、長旅の疲れを癒すことができた。

2009年12月13日日曜日

ワールドカップサッカー

たかだか予選のグループ分けが決まったくらいで大々的に取り上げる報道ぶりに、また4年に一度のバカ騒ぎが始まるのかと思った。ベスト4を目指す実力が本当にあるのならグループ分けくらいで大騒ぎするなといいたい。

前回のワールドカップで日本の戦績を見事にいいあてたサッカー通の同僚(元サッカー少年)によると、今回いちばん可能性が高いのが1敗2分け、幸運に幸運が重なれば1勝2分けもありうるが、それよりは全敗あるいは2敗1分けになる可能性の方が高いとのこと。グループの中で世界ランキングが圧倒的なドン尻なのだから素人目にも妥当な予想に思える。オランダにとって日本など取るに足らない相手だろうから油断をして2軍選手を出してきて、間違って日本が勝ってしまうなんてことはないだろうかと尋ねてみたところ、「相手が2軍でも日本はまず勝てない。そもそもワールドカップではグループ戦を1位で通過することが重要なのでオランダは手を抜いてこないだろう」とのこと。

私はもちろん日本が決勝トーナメントに進めるなどとは思っていないし、そんなことを期待もしていないが、一日本人として日本が大負けするのは見たくないと思っている。というのも98年のフランス大会が行われていたときに、旅行先の札幌で入った飲食店で韓国・オランダ戦がテレビに流れていて、アジア最強といわれた韓国がまさに完膚なきまでにやられているのを目にしてしまったからだ。4点目が入ったときには「もう勘弁してやってくれ!」といいたくなったが結局5対0で終わった。日本がやられていたら見ていられなかっただろう。

それにしても監督が掲げる目標がいかにばかげているかわかっていないはずがないサッカーの解説者が誰一人として公に疑問を呈さないのだから驚く。サッカーファンの反発を受けるのが怖いからなのか、それともスポンサーの圧力を感じているからなのか。マスコミたるものもう少し客観的なスタンスで報じてほしいものだが、なぜか期待を煽るような報道にばかり終始する。この騒ぎは本番が始まって日本が初戦でカメルーンに負けるか引き分けるかでだいぶ落ち着き、次のオランダ戦に負けることで一気に収まるものと予想するが、どうして毎回同じことを繰り返すのか。そうなることがわかっているのだからもっとほかのニュースに時間や紙面を割いてもらいたいものだと思う。

2009年12月3日木曜日

エコパラダイス

地元商工会議所主催のゴルフコンペ。せっかく入会したので参加してみることにした。いや、正直に白状すれば参加しなければならない状況を自ら作り出してしまったのだ。

事務所に案内のファックスが届いたとき、人にいえないハンディの私が参加するのはどうかと思ったが、入賞者の景品に私の会社で輸入している商品を使ってもらえないかという下心から会議所の担当者に問い合わせの電話を入れてしまった。結局景品は商品券に決まっているといわれ、その後取り紛れているうちに申込期限が過ぎてしまったのだが、商工会の担当者からリマンドの連絡が入った。ここで断りでもすると下心丸出しの現金な人間になってしまう…。

コンペの会場は今年の日本オープンが開かれた超名門コース。参加費やグリーンフィーなどを合計するとン万円になる。このご時世にどのような人たちが集まるのだろうと思いきや、地元の大地主やビル持ち、建設会社、不動産会社、地元選出の国会議員の事務所長といった顔ぶれで、皆お互いをよく知る仲間たちのような雰囲気。プレイ後の懇親会では初参加ということで挨拶をさせられたが、海外のクライアントを相手に仕事をしている私の会社など明らかに浮いた存在。東京とは名ばかりの地元のビジネス界の超ドメぶりを肌で感じた。

それにしてもこんな不景気でも高額なコンペに参加し、懇親会では不景気な話一つ出て来ないのだから、テナントに困らない東京の不動産業者というのは不況にも強いようだ。私はサラリーマン家庭で育ったので地元にこうしたいわば“エスタブリッシュメント”が存在していたことなど知る由もなく、また接点もなかった。私の会社などはまったく異色の存在でビジネス上の関わりもなく、そもそも私がコンペに参加して歓迎されているのだろうかと思った。

このコンペでもう一人異色の存在だったのが一緒にラウンドしたエコパラダイス溶液なるものを販売している会社の社長。このエコパラダイス溶液というのは何でも還元(酸化の反対)を促進する特殊酵素からできていて、建材に使えば害虫を寄せ付けないだけでなく、冬は湿気を放出して体感温度を温かく、逆に夏は湿気を吸収して室内を快適にするという。後日この建材を使っているという、同社が経営する陶板浴の施設に行って室内の空気のさわやかさを実感した。

社長はラウンド後の懇親会で、ここの陶板浴をやっていれば末期がんの患者でも治ると豪語した。おそらく世のほとんどの人が胡散臭いと思う話だが、酸性に傾いた体をアルカリ性に戻すという話は私が以前読んだ米人作家の本の内容と一致していて、私はすんなり受け入れられた。この陶板浴を試してみると、不快指数100%でばい菌やウイルスの巣窟といわれる岩盤浴と違い、湿気がなく、しばらく横たわっているうちにじわじわと汗が出てくるといった感じだった。ここに通い始めた同僚の奥さんは肌のすべすべ感が3日はもつといっているそうなので、難病治療よりもこちらを売りにした方が女性には受けるかもしれない。

積極的に参加したわけではないコンペだったが、結果的には思わぬ収穫となった。地元商工会だけあって陶板浴の施設は自宅に近いし、ここでエコパラダイス溶液を使った容器(中に入れたものが腐らず、ヨーグルトや果実酒を作ることができる)や、水やご飯をおいしくするというセラミックを買ってきては試している。いちばんほしいのはここの建材を使った家(できれば陶板浴付き)だが、こればかりはすぐには手が出せない…。