2010年4月25日日曜日

おおかみ中年

離党をちらつかせながらなかなか党を離れようとしなかった“国民的人気のある”議員に向けられた、同じ党に所属する議員のことば。何とも的確である。政権交代直後に8割あった現政権の支持率が今やその半分をきっていることからも国民の人気などというものがいかに移ろいやすくあてにならないものかは明らかで、党内で批判され、誰もついてこないような状況の中での離党はいかにも時期を逸している感がある。誰かがついてくるのを待ったためにここまで遅れてしまったというのが本当のところかもしれないが。

それにしても今の首相に対する失望感はぬぐい難いものがある。就任時には私も期待感をもって見ていたが、抽象的な美辞に終始した所信表明演説を聞いてこの人は具体的に何をなすべきか考えがあるのだろうかという疑問が頭をもたげ、その後の行き当たりばったり的な政権運営を見て、疑問が確信に変わった。米軍基地の問題についていえば誰もがハッピーな解決策などないわけで、最終的な落としどころとそこに至るための道筋も成算もないままに耳触りのいい発言を繰り返すなど自ら墓穴を掘るようなもので、海外メディアの記事に関連して自ら愚かな首相かもしれないなどと公に発言するのは輪をかけて愚かしい。首相だけではない。政権交代以降、幹部や所属国会議員が中国詣でを繰り返し、外国人参政権を認める法案を可決しようとしている現与党はいったいこの国をどうしたいのだろうかと思う。

税金の無駄遣いをなくしつつ国益をきちんと守ってくれる政党に政権を担ってもらいたいところだが、自民党に民主党のような事業仕分けができるとも思えないので、そうなるとみんなの党のような第三極に期待するしかないかもしれない。政権公約に掲げる国会議員の定数削減など是非やってもらいたい。しかしみんなの党という名前は何ともいただけない。ロゴも含めていかにも軽い印象を与え、投票用紙に書くのが恥ずかしい気さえする。この党、英語名はYour Partyだそうで、いったい誰の政党なの?と聞きたくなる。

5月6日に投票日が迫っているイギリスの総選挙では大方の予想をくつがえして保守党が政権奪還できない可能性が出てきているという。理由は万年第三党の自由民主党(といっても同じ名前の日本の政党とは違って左寄り)の台頭で、今や保守党・労働党という伝統的な2大政党と支持率が拮抗しているというから驚く。イラク戦争に唯一反対していたことや、若くテレジェニックな党首と金融危機を予見したという影の蔵相を擁していることなどが信頼感をもたせているようだが、日本でも2大政党への失望感から第3の政党がキャスティングボートを握るようになるのだろうか。

2010年4月17日土曜日

Eyjafjallajoekull

これほど発音が想像がつかない言葉を見るのは初めてだ。しかも長い…。今週噴火してヨーロッパの空路をまひ状態に陥れたアイスランドの火山の名前で、カタカナにすると“エイヤフィヤトラヨークトル”となるそうだ。

イギリスへの出張ついでに観光でアイスランドに寄るつもりでいたが、別の商用が入ってしまったため諦めた。“エイヤフィヤトラヨークトル”山噴火の報に触れ、ハワイ島で見たキラウエア火山の溶岩が海に流れ込んで勢いよく水蒸気をあげる迫力満点の光景を思い出し、噴火の様子を実際に見てみたいと思ったが、噴火が続いている限りは日本からの空路がふさがれてしまうので無理そうだ。

日本人的にはアイスランドの温泉につかってみたいなどと思っていたが、考えてみれば同じ火山国の日本でも同じように噴火が起きれば風向き次第で空路がまひ状態になりうるということか。一昨年ブエノスアイレスの空港で帰路便のチェックインを済ませて搭乗口に向かっているとフライトのキャンセルを告げるアナウンスが流れた。何でもチリの火山が突然噴火し、その煙がアメリカへ向かう空路をふさいでしまっているとのことだった。幸い私はサンチアゴ経由の便だったので、噴煙を迂回する形で予定通り帰国することができたが、何の準備もなく空港で足止めされた人たちはたまったものではなかっただろう。

今回の火山噴火の報道で面白いのはどのテレビ局も噴火している火山の名前をいわないことだ。過去にニュースになった火山の噴火はアメリカのセントヘレナ山にしてもフィリピンのピナツボ山にしても必ず噴火した山の名前をいっていたのに、今回は頑なにそれを避けているように見える。やはり“エイヤフィヤトラヨークトル”ではアナウンサーが舌をかんでしまうからか、はたまた正しいイントネーションを誰も知らない、あるいはそれが日本でまだ確立されていないからか。かくいう私もこのように文字にしてはいるが発音は皆目見当がつかない…。

2010年4月11日日曜日

コラージュ


電機メーカー時代の同僚が渋谷の文化村ギャラリーで作品を展示するというので行ってみた。退社の挨拶には美術関係の仕事をすると書いてあったが、よもやコラージュ作家になっているとは思わなかった。他社に転職した人は少なからずいるが、芸術家になったのは彼女だけだ。

東急本店で好物の福砂屋のカステラを買ってから会場に行くと、同時期を同じ部署で過ごし、やはりその後転職をした別の同僚が来ていた。聞けば転職先の会社も辞め、今はフリーで社員研修の講師なぞをしているという。差し出された名刺がその3日前にたまたま会ったイギリス系のコンサルティング会社のもので、世の中の狭さに驚かされた。

“自由”の身となった者どうしでサラリーマンの楽さと自営の気楽さについて語ったが、3人とも大きな組織で人をマネージすることに向いていないと感じていたことがわかった。年功序列の日本の大企業では早晩部下を束ねなければならない立場になるわけで、そのような意味で我々は適性がなかったのかも知れない。

さて肝心の作品の方だが、トーマス・マクナイト的なものが好きな私にはコラージュのような抽象系のものは少々難解に感じられたが、作品のタイトルと照らし合わせて鑑賞すると作者の妄想が垣間見れるようで面白い。コラージュの技法は会社を辞める前から習っていたというが、やはりそれなりの感性というか“妄想力”があり、且つそれを再現する能力がないとできないものと感じた。

もう一人の元同僚は即決で気に入った作品を買うことにしたが、私はこれはというものがなかったので、もっと多くの作品を展示することがあれば案内してほしいと伝えた。会社の経費で買って事務所に飾ったらどうかと勧められたが、サービスオフィスに移った今はそれを飾る雰囲気でもなければお客の目に触れることもない。かといって将来彼女が有名になったときの値上がり益に期待するというのも何ともイヤラしい。

2010年4月3日土曜日

ホノルルの空港にて

夜のフライトで到着したホノルルの空港。ダウンタウンのホテルまで路線バスで行こうとターミナルビルの前にあるバス停に向かった。同僚につまらないところでケチだといわれたことがあるが、大きな荷物をもっているわけでもなければ初めて来る土地でもないので窮屈であまりきれいでもないタクシーに乗るよりは路線バスで済ませて浮いたお金でおいしいものでも食べたほうがいいという発想はそれほど間違っていないと思う。

バス停に着くと料金が2ドル25セントになっていて(6年前に来たときは2ドル以下だった記憶がある)、クォーター(25セント硬貨)を一つも持ち合わせていないことに気づいた。2ドル50セントであれば3ドル払っても仕方なく思えるが、2ドル25セントなのに3ドルを払うのは何とももったいない気がする。タクシーに乗ることを思えばたいした金額ではないので、このあたりはつまらないところでケチといわれても仕方ないか。

夜遅かったためかなかなかバスが来ず、やはりタクシーにしようかと思いかけたとき、ラフな(というかやや粗末な感じの)身なりをした40歳前後と思しき黒人の人が荷物も持たずに歩いて来た。ほかに話し相手もいないのでどこに行くのかと尋ねるとダウンタウンに行く途中のマクドナルドだという。そこが食べるのにいちばん安くていいのだそうだ。クォーターを持ち合わせていないことを思い出し、1ドルを両替できないかと尋ねると無造作にポケットに手をつっこんで入っていたクォーター1枚、ダイム(10セント硬貨)1枚とペニー(1セント硬貨)1枚を私に差し出した。いやいや両替してもらえないかという意味で、ただで受け取るわけにはいかないといっても取っておけの一点張り。あなたもバスに乗るのに必要だろうというと、彼は兵役で負傷して後遺症があるので1ドルの割引料金で乗れるのだという。そういえばバス停に歩いてくるときに片足をひきずっていたような…。タクシーに乗るお金がないわけでもない私が食費を切り詰めるためにマクドナルドに向かおうとする人からクォーターをもらうなど、何てことをしてしまったのだろう。バス代も倹約しようというのか、彼はしばらくしてやっぱり歩いていくといってバス停を去って行った。

自分が金に困っていたら果たしてなけなしの金を惜しげもなく見ず知らずの人にあげることができるだろうか…。お金がない人ほど心がきれい、などと一概にはいえないかもしれないが、私が見る限り金をもっている人間の方が渋ちんで意地汚い人が多いようには思える。日本の一般のサラリーマンとはけた違いの報酬をもらっていた投資銀行時代の上司に食事をおごってもらったことは一度もない。奥さん名義で会社を経営し、横浜の豪邸に住んでいた電機メーカー時代のある上司は一緒に飲みに行くと恩着せがましく「多めに出してやる」といいながら、私が出した金額を含めて店から領収書をもらい、その会社の経費にあてていた。彼が余計に出した額はわずかで、明らかに節税額の方が大きかった。

ビジネススクール時代のクラスメートの中にも財を成した人が少なからずいるが、在学中と変わらない人もいれば悲しいかな人間が変わってしまったような人もいる。自分より稼ぎの低いクラスメートを上から目線で見るようになる者もいれば、投資銀行で何百万ドルも稼いでいても誰それに比べればまだまだなどという者もいる。しかしこうした人々は常に不平不満ばかりいっていてあまり幸せそうには見えない。彼らは物質的には恵まれた人生をまっとうするのだろうが、やがて経済的な成功をもって人にリスペクトされるわけではないことに気づき、晩年には長年かけて貯め込んだものもあの世にはもって行かれないことに気づくのではないかと思う。