2009年2月24日火曜日

マドリッド


ロンドンの次はマドリッドに一泊。こちらは乗り継ぎ時間の都合ではなく、留学時代の友人に会うためにストップオーバーした。スペインはメーカー時代にバスク地方のサンセバスチャンに行って以来およそ13年ぶりで、マドリッドは初めてである。

留学時代の友人は同じ独身寮に住んでいたことから親しくなった。彼はスペインの元首相の息子で、その言動の一つ一つに育ちのよさというかお坊ちゃまぶりをいかんなく発揮していた。ある日寮でトイレットペーパーを持ち歩く姿を見かけたので何をしているのかと尋ねると備え付けのものは質が悪くて使えないという。留学前に日本に遊びに行ったというので東京ではどこのホテルに泊まったのかと聞くとホテルではなくスペイン大使公邸に滞在したといった。キャンパス内にある寮から教室に行くときもクラスメートと食事に行くときも常に品の良い服装をしてジャケットを欠かすことがなかった。

育った環境がそうさせるのか話し方は常に堂々とし、見ようによっては“上から目線”に感じられることもあったためかクラスメートの中には横柄な人間との印象をもった人もいたようだが、私には悪気があるようには思えなかった。大学院一年目に香港への研修旅行に参加したときには地元出身のクラスメートに勧められてアメリカ人のクラスメートと3人で地元のサウナに行ったのだが、彼が背中を足で踏まれる中国式マッサージを受けたのは後にも先にもあれっきりだろう。ちなみに彼はよほど気持がよかったのか、いちばん“ふくよか”な女性にあたって踏まれる度にうめき声をあげていた私を尻目に大いびきをかいて爆睡していた。

私が訪ねた当日は夜にクラシックのコンサートに行くことになっているというのでその後に食事をすることにしていたのだが、ホテルにチェックインした後に彼から連絡があり、コンサートの切符をもう一枚手配できそうなので一緒に来ないかといわれた。しかし出張でもないので着ていく服がない。「行きたいけどカジュアルな服しか持ってきていないんで…。」「僕がカジュアルな格好をしていったら問題になるけど君は外国人なので誰も見とがめないよ。ジーンズにスニーカーとかでなければ大丈夫。」っていうか、スニーカーしかないんだけど…。彼に恥をかかせてはいけないと思ったが、せっかくだからといわれ恥をしのんで行くことにした。

ロンドンのH&Mで買った紺色のプルオーバーを着て待ち合わせ時間に会場のコンサートホールに行くと15年余りぶりに会う彼の姿があった。私と同様にもみあげの辺りに白髪が目立ち始めている以外はほとんど変わっていなかった。この日のコンサートは年に2回行われる特別イベントで、お父上の関係でお招きを受けているためか彼の叔母や姉夫婦も来られていて席も2階の前から2列目だった。演目はメンデルスゾーン、演奏はライプツィヒの交響楽団、指揮者はリッカルド・シャイー(私は不勉強で知らなかったが相当有名な人らしい)、そして北京五輪の開会式で演奏を披露したランラン(郎朗)のピアノ演奏と、素人目にもめったにない見ごたえのあるコンサートに感じられた。独特の大きなジェスチャーで演奏するランラン氏はほとんど鍵盤を見ることもなく情緒たっぷりに曲を奏でる。アンコールでは「別れの曲」を演奏。私が子供の頃、ピアニストの叔母がよく弾いていた曲だ。マドリッドでこんな素晴らしい体験ができるとは思わなかった。

コンサートの後、友人に連れられてコンサートホールの近くにあるというレストランに向かった。日本とスペインのフュージョン料理を出す店だという。ところが高級住宅地の中を歩けど歩けどなかなか着かない。友人はとうとう道に迷ったことを認めたが、道行く人に聞いてみたらどうかというと「そんなことは自分のプライドが許さない」という。さすが?である。しばらくしてようやく目的のレストランにたどり着いた。

日西のフュージョン料理はなかなか美味だった。日英だったらこうはいかないだろう。彼が姉夫婦に私を紹介するとき、「留学当時よりビッグ(要は肥った)になったこと以外は変わらない」といったので量はほどほどにしておいた。1時間余りの食事の間に15年余りの間にお互いに起きたことかいつまんで話した。風の噂で彼が大きな病気をしたと聞いていたが、実は病気ではなく、仕事先のメキシコシティで強盗に遭って拳銃で脚を撃たれたと聞いて少なからずショックを受けた。この事件がきっかけで彼はその後二度仕事を変わることになったという。

「あれからもう15年も経ったなんて恐ろしいね」というと、「あと15年後に会ったらもっと恐ろしいことになっているよ」といわれた。いわれてみればその頃にはお互いに還暦近くなっている。彼からは5年に一度行われる同窓会に行けばもっと頻繁に会えるよといわれ、卒業以来一回も行っていないことを思い出した。しかしこうしてクラスメートが住む町で会ってゆっくり話をするのも悪くない、と思った。

2009年2月22日日曜日

ロンドンにて










エジプトの次はロンドンに一泊。何でも高いばかりで好んで滞在するところではないのだが、今回は乗り継ぎの都合上どうしても一泊せざるをえなかった。せっかくなので当地に赴任しているサラリーマン時代の同僚に声をかけ、一緒に食事することにした。

料理に関しては左に出る者がない国なので、何が食べたいかと聞かれるとやはりインド料理か中国料理と答えてしまいがちだが、今回は日本のチェーンと競合しているという現地の回転ずしのチェーン店をリクエストした。ちょうど滞在先のホテルの目と鼻の先のショッピングモールにあるということで、仕事を終えた元同僚と落ち合って行ってみた。ちなみに彼もイギリスに住んでいながらこのチェーンの店に行くのは初めてとのことだった。

店のつくりは日本の回転寿司店に比べて洗練されていて、客席もベルトコンベアに囲まれた“厨房”もかなり広々としていた。このチェーンが日本のすし屋にはない変わり種で人気を博しているということを日本のテレビで見て行ったみたのだが、どれも今一つぱっとしない。唯一おいしく感じたのはやはりオーソドックスな江戸前の握りだけだった。ちなみにネタに使われているサーモンは今ではノルウェーやチリで大規模に養殖されるようになり、日本の寿司屋にも広く出回っているが、国産は寄生虫がいるとかで日本ではもともと寿司ネタとして使われてなかった。私が初めて生のサーモンを食べたのはここロンドンにある寿司屋で、それ以来すっかりハマってしまった。

この回転寿司店で興味深かったのはベルトコンベアが2車線あって、それぞれが別方向に動いていることだった。これは効率的に寿司を運ぶために考えられてものと想像されるが、作り手から見て“川下”の席についたがためにほしいネタがなかなか食べられないという事態を防ぐのにも有効なようだ。ただ2車線分の場所をとるのでやはり東京あたりの回転寿司屋で採用するのは難しいかもしれない。

それにしてもこの1年でポンドが円に対して半分近くに値を下げたので、ロンドンの物価もだいぶまともに感じられるようになった。以前出張で来た時にはたいしたものも食べていないのに夕食に当時のレートで6,000円以上とられ、ホテルも一泊4万円ほどした。これではとてもプライベートで来ようという気にはならない。今回はクライアントが紹介してくれたパディントンにほど近いホテルに何と1万円未満で泊まれた。もちろん特別割引価格だが、正規の料金でも1万5千円ほどだ。雇われ人だった頃の出張は全部会社持ちだったが、自分で会社をやっている今は直接自分の懐に関わる。オーナー社長が往々にして財布の紐が固い理由がわかるようになった。

元同僚とは当然のことながら会社の話題になったが、経営状況が厳しく本国で人員削減などを始められると、海外に赴任している立場としては帰任先にポストが残っているかといった不安を感じるそうだ。私の方はエジプト滞在中から珍しく日本関連のニュースがBBCインターナショナルのヘッドラインを飾っていると思ったら、その内容が四半期GDP 3.3%下落だとか財務相が飲酒会見疑惑で辞任といったもので国の先行きが不安になる。円高でイギリスでの購買力が高まったことを喜んでいる場合ではないかもしれない。

2009年2月19日木曜日

東方砂漠にて







一昨年のエジプト旅行で知り合ったオリーブ博士モハメッド・エルコホリ氏から、東方砂漠にある氏の農園の拡張に伴う植樹のお招きを受け、1年4か月ぶりに当地を訪れた。農園で1泊、カイロで前後1泊ずつの3泊4日という強行軍だったが、農作業で年齢を感じつつも充実した楽しい時間を過ごすことができた。

東方砂漠はカイロの東からスエズ運河にかけて広がる。行けども行けども果てしなく続くサハラ砂漠と違い、夜になると地平線の彼方にスエズ運河沿いの町の明かりが見え、地面を覆う砂もまったく水気を感じさせないサハラのそれとは違って“土”の感触がある。エルコホリ氏が農園を始めるまではエジプト軍の演習場として使われるほかは時折ベドウィン(砂漠の遊牧民)が通るだけの何もないところだったそうだが今では氏にならって(真似て?)近隣にもオリーブ農園が次々にできている。不毛の地で育て上げた自分の農園の姿をグーグル・アースで確認することができるのが氏の誇りである。

石油業界でエンジニアとして働いていたときに貯めたお金で土地を買い、独学で始めたオリーブ栽培だが、今では同じような気候条件の中東各地や西オーストラリアの乾燥地帯に生産指導に招かれるようになっているからたいしたものだ。ドイツで教育を受けたエンジニアということもあってか、植える木の間隔から灌漑用のパイプの張りめぐらせ方、水圧のかけ方、異なる品種の配置のし方まですべて計算されつくしていて話を聞けば聞くほど感心させられる。あるとき氏に「シンジに会うまで日本人はもっと几帳面だと思っていた」といわれて自分の大雑把さを反省した。確かに日本人とエジプト人のイメージが逆転してしまっている・・・。

植樹はもともと3月に行われる予定だったが、こちらの一方的な都合で2月に繰り上げてもらったために私が来るまでの数週間は土の掘り起こし、パイプの埋設、コンポストの準備などてんやわんやだったそうだ。大変申し訳ないことをしたと思ったが、エルコホリ氏からは私が来る日程が早まっていなかったらこれほど急ピッチで準備を終えることはできなかったので感謝しているといわれた。そういって頂けるとありがたい。

今回の拡張で新たに植える木の本数は1,200本。苗木はすべて農園で育てている。以前よそから買った苗木の根についていた病原菌が大繁殖して農園の土を入れ替えなければならない事態になったそうで、その後は自分が育てたものしか使っていないという。植樹が行われる区画には夏場の日照時間などを計算してあらかじめ一定間隔に割りばし状の杭が立てられており、川崎重工のユーティリティ車Muleに乗せてビニールハウスから運んだ苗木を工具であけた穴に一本ずつ植えていく。こうした作業をごく短い時間手伝っただけで農作業の大変さを実感できた。

オリーブは何百年も生きる寿命の長い樹木で、根っこと幹の一部さえ残っていれば枝をすべて切ってもまた伸びてくる強い生命力をもつ。エルコホリ氏のところではオリーブの木を若返らせるために区画毎に何年かおきにばっさりとやってしまうのだが、前回訪ねたときに見るも無残な姿だったオリーブの木が今回見ると見事に再生して何事もなかったかのように青々とした枝を広げているのを見て驚いた。今回私の手で植えた木々も私がいなくなってからも末長く生き続けてくれるだろうが、その成長を出来る限り見届けていきたい。

2009年2月1日日曜日

続・がんの話

3つの病院で腹部の腫瘍を早く切除するようにいわれた後、ビジネススクール時代に夏休みを過ごしたハワイ島のコナに行った。(クラスメートは誰も信じてくれなかったが、ハワイ島で夏休みを過ごしたのは遊び目的ではなく当地にある不動産投資会社でいわゆる“サマージョブ”をするためで、毎日カイルア・コナの浜辺近くの事務所でパソコンに向かって商業用不動産の収益予測をつくっていた。ハワイの会社を選んだ動機はと聞かれるとちょっと答えづらいが…。)当時は日本人観光客をほとんど見かけなかったが、その後日本航空の直行便が就航し、私が乗った便にはその年にペナントレースを制した西武ライオンズの選手とその家族が優勝記念旅行に行くために乗っていた。

到着した日の夜、かのカメハメハ大王が晩年を過ごした地に立つ老舗ホテルで床についたがなかなか寝つけず、ほかにやることもないので部屋にある大型テレビをつけた。日本であればどのチャンネルでもテレビショッピングをやっている時間帯であるが、たまたまつけたチャンネルで最近本を出版したらしき人をインタビューしている番組(おそらく有料広告番組)が放映されていた。聞くとその作家はがんというのは不治の病ではなく、ヒトの体の状態がつくり出すものだと語っていた。鍼の先生にその部分を切っても根本的な問題解決にはならないといわれながらもやはり切らないことへの不安が拭い難く、この作家の話に聞き入った。そして彼が書いた本の題名をメモして読んでみることにした。

日本に帰国してしばらく経ってから本が手元に届いた。読むと書き出しは医薬品業界批判オンパレードで、おそらく大多数の人はこれを読んだ時点でうんざりしてしまうだろうと思った。製薬業界は病気が完治してしまうとそこで収益が途絶えてしまうので、症状を抑える薬はつくっても完治させる薬はつくらない。株主から収益をあげる役割を任されている経営陣としては当然の行動である、といった具合だ。株主云々の話は別として鍼の先生も同じようなことをいっていたが、西洋医学を信奉する今の風潮からするとなかなか受け入れられないのではないかと思った。肝心なことはその後に書かれているのだが、多くの読者はそこに行き着くまでに“うさん臭い”と感じて読むのをやめてしまうだろう。

さて肝心のがんに関する記述だが、この人物曰く、がん(cancer)というのはもともと弱アルカリ性であるべき人体が生活習慣の問題なので酸性に傾くと発生する。そして酸性に傾いた体を弱アルカリ性に戻せばがん細胞は自然と正常な細胞に置き換わるという。こんな話を聞かされたら大多数の人は何を奇想天外なと思うだろうが、鍼の先生から代謝だの正常な細胞への置き換えだのといった話を聞いていた私には何となくありうることのように感じられた。

鍼の先生がいう腸の蠕動運動を起こすジョギングやウォーキングなどの運動は体をアルカリ性に戻すのに役立つだろうが、この本を読んでからというもの、さらに食生活をアルカリ性に変えるためにあまり好きでなかった梅干しを食べるようになった。それもこだわって紀州産南高梅の無添加・無農薬のものを取り寄せている。その後転移や増殖の気配もないまま(検査に行っていないので腫瘍がどのようになっているかわからない)歳月が流れるに従って病院の先生方がいっていたことがどんどんと説得力を失い、鍼灸師やこの作家がいっていることがますます説得力をもって感じられるようになった。