2011年1月29日土曜日

インフルエンザ

クライアントのアテンドで福岡の後、松山と広島をまわり、その日のうちに東京に戻ったのだが、出張中喉が痛くて咳が止まらず、さらに頭はふらふらで体の節々まで痛み出し、いよいよインフルエンザにかかってしまったものと覚悟した。同僚にはすぐに病院に行くように勧められたが、過去の経験からそれには従わず、何年か前に同じ症状になったときに見事に解決してくれた荻窪の鍼灸師のところに行くことにした。

9年前に全身の筋肉痛で社会復帰の見通しが立たない状態から救ってくれた恩人だが、最近はこういう深刻な事態にならないと行かなくなっているのだから我ながら現金だ。前回インフルエンザにかかったときには絶対に安静にはせず、善福寺川沿いを走るようにと鬼のようなことをいわれ、ふらふらしながら川沿いの道を歩いた記憶がある。しかし施術で筋肉がほぐれて呼吸が楽になった上、背中に使い捨てカイロをぺたぺたと貼られていたせいで、新鮮な空気を吸いながら、体全体から心地よい汗が流れた。そして翌朝には予定していた京都旅行に出かけられるまでに回復した。

今回も案の定、施術の後に肌着の背中に使い捨てカイロをぺたぺたと貼られ、荻窪駅から結構距離がある自宅まで走るのと歩くのを繰り返すようにいわれた。先生のいうことを100%やらなくても効果があることを知る私は、いつものように楽をして、走る部分を省いてただ歩いたのだが、やはり筋肉がほぐれているのと背中がぽかぽかと温かいことから、寒空の下にかかわらず、心地よく家路につくことができた。そして翌日には再び使い捨てカイロを背中に貼りつつ、ふつうに出勤することができた。

もし病院に行っていたら注射を打たれ、薬を出され、家で安静にしているようにいわれただろう。鍼の先生はそんなことをしたら余計に悪化するという。病院に行くことを勧めた同僚に病院に行けばよくなるのかと聞くと、少なくとも行かないよりはいいといったが、おそらく行かずに済ませたことはないのだろう。果たして我々日本人が西洋医学信奉(盲信?)から脱する日は来るのだろうか。

2011年1月23日日曜日

竹野屋


イギリスのクライアントを連れて福岡と松江に行くことになり、週末をまたぐ上に今回は奥さん連れでもあるので観光を兼ねて出雲大社近くの竹野屋旅館に泊まることにした。客人に日本の伝統的な旅館を体験させるのが大義名分だが、一人では敷居が高い老舗旅館に泊まる絶好のチャンスだ。

この旅館はあの竹内まりやの実家だ。彼女がデビューしたのは私が中学生のときだったが、その後入学した高校でAFSという国際教育交流団体の交換留学生としてアメリカに留学することになり、英語が流暢な彼女もまた同団体の派遣生であったことを知った。この団体の派遣生には広島市の秋葉市長やNHKの藤澤秀敏解説委員長などもいる。

デビュー当時の彼女はどちらかといえばアメリカの西海岸的な的なイメージだったが、同じ西海岸でも洋楽とは対極の山陰の出雲大社の近くで育ち、留学先もアメリカ中西部のイリノイ州だったというのが面白い。ちなみに彼女と私は名字が同じだ(った)が、ホームステイしていたホストファミリーの名字も同じで、留学先の町の名前もロックフォールズとロックリンでよく似ていた。

それはさておきこの竹野屋旅館、古いだけあってほかにはない雰囲気を味わうことができる。畳敷きの広いロビー(写真)の鴨居は私の身長(178センチ)でも頭をぶつけそうなくらい低く、部屋も風呂場も改修されたであろう当時(昭和40年代?)の香りがプンプンする。幼い頃に家族旅行で行った伊豆稲取の温泉旅館がこんな雰囲気だっただろうか。たださすがに料理の味はすばらしかった。

老舗旅館の多くが味気ないコンクリート造りの建物に変えている中で創業当時(130年前)の建物をそのまま残しているのは貴重な存在と思うが、内装や設備のくたびれ方が目立ち過ぎているところは若い人には敬遠されるのではないかと思う。木のぬくもりが感じられる日本家屋が好きな私でさえも、外国のお客さん連れでなければアクセスのよい市内の小ぎれいなホテルに泊まる気がする。

出雲市駅近くに新しいホテルが建ち、出雲大社への車の便がよくなってから門前町もすっかりさびれてしまったと聞くが、こうした中、この旅館が竹内まりやの知名度に頼らずともやっていかれるのか、ちょっと気になる滞在となった。

2011年1月16日日曜日

六本木ランチ

投資銀行時代の副会長との久しぶりの会食。古い名刺を整理していると、今は他の外資系投資銀行に移られている氏のものが出てきて、在籍中にお世話になったのでご挨拶のメールを出すことにしたが、今はまったく別世界にいることもあって書くことが思いつかず、お時間のあるときに食事でもと書いた。私のために時間を割いて頂いても何のメリットもないので、お時間はないだろうとタカをくくって書いたところもあったのだが、出張先の海外からすぐに返事が来て秘書を通じてアポをとるようにいわれた。

さて、これはどうしたものか…。ランチとはいえ私だけではとても間がもたない。苦し紛れ?に投資銀行時代の同僚に声をかけたところ、幸いにして一人付き合ってもらえることになった。どこにお招きしたらいいのかもわからず氏の秘書さんに相談したところ、ANAホテル2階の中華でいいのではないかとのことだった。元副会長は中華がお好きなのか、同じ投資銀行に在籍していたときに接待や会社訪問帰りによくご一緒したことを思い出した。

しかし実際にお会いするとこちらが何を話すか考える必要もなく、氏の方から次々に面白い話をされた。中でも印象に残ったのが4年前に話題になった米系ファンドによるブルドッグソースの“買収未遂”だ。このときブルドッグはファンド側に、ほかの株主に割り当てた新株予約権の代わりに23億円もの現金を払ったのだが、氏曰く同社の株のほとんどは持ち合いなのでそもそもあのようなことをしなくても乗っ取られる心配はなかったとのこと。氏がブルドッグに助言を求められたときにはそのように進言したのだそうだが、その後日系最大手の証券会社の入れ知恵で要らぬ買収防衛策(いわゆるポイズンピル)をやってしまったのだそうだ。儲かったのはファンドと手数料収入を稼いだその証券会社でその他の株主は大損をさせられたわけだが、そのような事態に至らしめたのが外資ではなく日系の証券会社だったというのは何とも皮肉なことだ。

私が在籍していたときに同じ投資銀行で働いていたプロフェッショナル職の人たちはもうほとんどいなくなってしまったが、当時の投資銀行部門の共同部門長がクビになり、私がいっしょに大手総合電機メーカーのM&A案件をやったことのある40代前半の若手がとってかわった。サバイバル術に定評があった前共同部門長がやめさせられたのが意外だったが、氏の話では表向きは大切な顧客の不興を買ったのが理由になっているが、実際はセクハラとのことだった。米系と違ってこうしたことには寛容で、私が在籍していたときも一般企業では考えられないさまざまなことが社内で起きていたが、どれだけのことをすればクビになるのだろうかと思った。

元副会長は東大の法学部を卒業後、大手都市銀行でキャリアを始めてその後外資畑を歩いて来られたのだが、顧客の信頼が厚いのだろう、ずいぶんと成功し、田園調布に豪邸を建てられた。一度遊びに行ったことがあるが、何とカラオケルームまでついていた。しかし黒塗りのリムジンに乗ることがステイタスのように思っている人たちが多い世界にあってふつうに電車通勤をされていた。

最近熱海に別荘を買われたと聞き、還暦を過ぎても第一線で活躍しつづける氏の姿に大いに刺激を受けたが、会食の最後に「それで何をしてあげればいいの?」と聞かれ、かつて自分も接待一つにも見返りを期待する業界にいたことを思い起こした。相手は業界の大物。何か頼みごとを考えておけばよかったか…。

2011年1月9日日曜日

初詣


人気のない早朝の出雲大社。初詣に有名どこの寺社に行きたがる人たちは“寄らば大樹”的でいかがなものかと思っていたが、三が日明けに松江への出張が入ったとたん一日早く島根入りして出雲大社にお参りしようなどと思いつく自分も似たようなものかもしれない。私の場合は家と事務所の氏神様に参った上でのことなのだが、それでもさらに出雲大社に参りたがるなど、どれだけ欲張りな人間なのだろう…。

それにしても何年か前に観光で一度だけ訪れた島根に商用で行くことになろうなどとは思いもよらなかった。月末にもクライアントを連れて再び行く予定なのでひと月に二度行くことになる。今回の出張は当地の地銀さんとの面談が目的だったが、昨年から仕事を手伝ってくれている人の紹介で当地の医療機器の販売会社の社長とも面識ができ、松江でお会いすることになった。さらに島根に発つ直前に事務所に遊びに来た電機メーカー時代の同僚が松江に行ってきたばかりとかで地元の美味しい店を教えてくれた。何たる幸運!

こうした偶然も大阪とかだと驚きもしないが、人口も行く人も少ない山陰の島根である…。これほどまでに偶然が重なると、島根が私を呼んでいると思いたいところだが、実際に交通機関をまひ状態にした年末の大雪も私が発つ頃には峠を越し、出雲空港行きのフライトも問題なく運行された。一方、通常であれば松江へのアクセスが同じくらいいい米子空港の方は雪が深くて再開が一日遅れたというから出雲大社にお参りしようという発想が吉と出たようだ。聞けば宍道湖をはさんで松江の反対側にある出雲はもともと松江よりも雪が少なく、一方米子側は松江以上によく降るのだそうだ。

縁起を担がない家で育った私は子どもの頃に初詣なるものに行った記憶がない。しかし投資銀行時代に千駄木から荻窪に引っ越してからさまざまなことが身にふりかかり、たまらず地元の神社の神主さんに相談に行ったのをきっかけにきちんとお参りするようになった。あらためて聞いてみてまわりの人たちの多くが当たり前のように毎年初詣に行っていることを知り、さらに資産家の友人には商売をしているのであれば店(または会社)がある場所の氏神にも参った方がいいといわれ、事務所の近くの神社にもお参りするようになった(別に資産家を目指しているわけではない)。

三か所にお参りした今年は果たしてどういう年になるだろうか。

2011年1月1日土曜日

ハワイアン航空


2泊3日のハワイ旅行。何も混雑する年末の時期にわざわざ行くこともないのだが、たまっていたマイルを消化しがてら羽田の新しい国際線ターミナルを使ってみようと思いついた。当初はもう少し長く滞在しようとも思ったが、年末までに片づけなければならない仕事があったのと、ホノルルだけだとたいてい時間をもてあましてしまうことから現地2泊にとどめた。

羽田の国際線ターミナルを二言でいうなら“コンパクト”で“効率的”。真新しい出発ロビーはテレビで見るよりこじんまりとしているように感じられ、成田のように安全を見て早めに行く必要がないためか、24時間空港で飛行機が出発する時間帯がばらけているためか、旅客が時間をつぶすための施設が少なく、それでいて私が利用した夜の時間帯はそれほど混雑していなかった。そして何よりチェックインカウンターから出国審査場、さらにゲートまで歩いてすぐで、行列することもなくすんなりとたどり着くことができた。

飲食店が並ぶフロアもこじんまりとしているが、和洋食から中華まで色々と食べられ、空港内の限られた立地からか、ここぞとばかり高いことをいう店がある一方で、驚くほど良心的な値付けの店も混在しているのが面白い。多くの利用者にとっては成田に比べて移動時間も待ち時間も短いだろうから小腹が空いた程度の客にあまりアグレッシブな値付けをしてもうまくいかない気もするが、何年か後にこうした店がどのように変わっているのか見てみたい気がした。

今回利用したのはハワイアン航空。1992年にアメリカ留学中の夏休みをコナで過ごしたときにはハワイの島間航空会社はこのハワイアン航空とアロハ航空の二社体制だったが、いつしか後者が姿を消し、新興のLLCを除けばハワイアン航空の独占状態になってしまった。ホノルル空港にある島間フライトの専用ターミナルもハワイアン航空一色に変わり、時代の流れを感じた。

興味深いのは当時経営がいいといわれていたアロハ空港がなくなり、フライトの遅れや預入荷物の紛失などのトラブルが多いといわれていたハワイアン航空の方が生き残ったことだ。果たしてその後経営が変わって問題が解決されたのか、それとも経営がいい会社が必ずしも生き残るわけではないという実例なのか。いずれにしてもハワイアン航空は米本土行きのルートを着実に増やしている上に、限られた羽田の国際線のスロットまで手にしたのだから大したものだ。

アメリカの航空会社だとろくなサービスは期待できないが、今回ハワイアンに乗ってみて本土の航空会社とは明らかに一線を画す存在と思った。B767は座席の配置に余裕が感じられ、さらに愛想のよい客室乗務員のサービスも効率的で出される食事も悪くない。どちらにしてもまずい料理を選ばされる“究極の選択”よりは一つしかないメニューでも味のよいものを適量出してくれる方がいい。ハワイに住んでいたときに植えつけられた同航空会社のイメージが払しょくされた。

帰りの便の搭乗を待つホノルル空港の待合室ではハワイアン航空の地上係員がたどたどしい日本語で無邪気に乗客を呼び捨てにしたりして笑いを誘っていたが、機内で日本人客室乗務員が行うアナウンスは日本の航空会社並みの的確且つ流暢さで、若干冗長で無駄に長い挨拶が入ったりするあたりがJALからの転職組であることを伺わせた。一方でローカルの客室乗務員が醸し出すハワイアンな雰囲気は懐かしく心地よかった。

今回かなわなかったが、ハワイから羽田への便に乗るときにお勧めしたいのが向かって右側の窓側の席だ。到着時刻が夜遅いため、成田空港がある房総半島を通過した後、千葉から東京にかけての東京湾の夜景が一望できる。湾全体を見渡せるのは東側から入って来るハワイや北米からの便だけで、当然のことながら夜景が楽しめるのは夜に到着する便だけだ。