2009年12月28日月曜日

中華大販店


ビクトリアフォールズは間違いなくジンバブエ最大の観光地だが、町はすぐに歩いて回れるくらい小さい。そんなアフリカの奥地の町に「中華大販店」なる漢字の看板を見かけた。アルファベットすら書かれていないのだから中国系の客以外は眼中にないのだろう。こんなところに中国料理屋があることもさることながら、中国系の客だけを相手にして商売が成り立つほど観光客が来るのだとすれば驚きだ。ちなみに私は滞在中一人も日本人を見かけなかった。

アフリカで食べる中国料理というのはどんなものだろうかと思い、滞在3日目のお昼過ぎに行ってみた。その店はお土産屋が数件入っている小さなモールの2階にあり、窓のない吹きっさらしの広々としたフロアに4つほど大きな丸テーブルが並べられ、その一つで中国人観光客と思しき一団がにぎやかに話をしながら食事をとっていた。海外で中国料理店に入ると決まって中国人と間違われる私だが、案の定?店のおかみは私を見ると何か中国語で話しかけてきた。どうやら英語が苦手なようで、私に中国語が通じないとわかったとたん現地人の店員に接客を任せて店の奥にひっこんでしまった。

炒飯と酸辣湯を注文してテーブルで一人待っているとほどなくして大皿に盛られた具の少ない炒飯と小ぶりなやかんいっぱいに入ったスープが小さな器とともに運ばれてきた(ここはアメリカかい!)。食べてみるといずれも味付けが薄く(というかほとんど味がなく)、おそらく私がそれまで食べた中でいちばんおいしくない中国料理だった。それでも客が入るのだから競合がないというのは商売人にとって何とも理想的な状況だ。今回はそれなりのホテルに泊まったのでレストランの食事は決して悪くなく、変な気を起さずにそこで食べればよかったと後悔した。

中国人の団体客が去って客が私一人になると、おかみが私のテーブルにやって来て話しかけてきた。どうやら何人(なにじん)かと聞いているようだったので、以前かじりかけた北京語で日本人だと答えると、ようやく中国語が話せない理由を納得したようだった。おばさんは退屈しのぎに話し相手を求めているようだったが、いかんせんこちらは中国語が話せず、向こうは英語が話せない。以前受けた北京語のレッスンを思い出しておばさんが何を話しているのか推測することはできても中国語で答えることができない。おばさんが鉛筆とノートを出して来て漢字による筆談が始まった。

学生のときに旅行先の台湾でこうした筆談が思いのほか通じて助かったが、相手が簡体字(大陸で使われている単純化された漢字)で教育を受けている大陸の人だとそう簡単ではない。我々日本人が使っている旧式の漢字(繁体字)を相手が理解したとしても、原形をとどめないこともあるほど簡略化された簡体字で答えられると理解するのが難しい。幸いなことに以前受けた北京語のレッスンで繁体字の部首が簡体字ではどのように略されるのかといったことを教わっていたので、おばさんが書くことがある程度理解できた。二度にわたって挫折した北京語のレッスンがこんなアフリカの奥地で役に立とうとは…。

筆談を通じておばさん(名字は“曲”)が遼寧省出身の43歳で、夫を肝臓病で亡くした未亡人であることがわかった。成人した一人息子は故郷の鞍山で“保安”関係の仕事をしていて旧正月には2か月ほど店を閉めて里帰りするのだという。Lilyという英語名を名乗って英語を勉強しているものの、まだほとんど話せないとのことだった。そしてビクトリアフォールズの町は退屈(boring…英語ができないというわりにはこの単語は知っていた)なので、いずれ首都のハラレに移って物を売る商売を始めたいとのこと。

言葉もできないのに単身でこのようなアフリカの奥地にやってきて商売を始めるなど何ともたくましい。長年海外に出て地元に根を張って来た中国人のたくましさは健在のようだ。ただ曲さんがジンバブエに来た理由は今一つはっきりしなかった。アフリカへの影響力を強めようとしているといわれる中国が85歳のムガベ大統領(ジンバブエの平均寿命は50歳という)を病気の治療のために北京に受け入れるという話は地元でよく知られているようで、曲さんがハラレの中国大使館員と付き合いがあるということからすると中国政府が在外公館を通じて戦略的に重要な国での中国人の活動を支援しているのもありえない話ではない(一見ふつうのおばさんの曲さんが女スパイだったりしたら驚きだ)。

世界の人口の5分の1以上を占める中国。海外に出る移民も観光客もこれからますます増えるだろうから、今後そのプレゼンスはますます高まっていくのだろう。ただ料理屋を始めるときは一定のクオリティを確保してもらいたい。