2009年5月4日月曜日

ノバ・スコシア


メキシコを出たフライトが遅れたため、トロントでの乗り継ぎに失敗し、次の目的地であるカナダ東端のノバ・スコシア州に着いたときには夜中の1時をまわっていた。初めての土地に夜遅く着く場合には安全のため空港近くのホテルに泊まるようにしている。今回も予約していた空港近くのホテルに直行した。

なぜよりによってノバ・スコシアに来ることにしたのか。特に見たいものがあったわけではなく、一度来てみたかったからとしかいいようがない。何年か前にノバ・スコシア(ニュー・スコットランド)の地名の由来でもある北米に渡ったスコットランド人移民の歴史を描いた本を読んでこの土地のことを知り、その後長崎で会った当地出身のエンジニアがスコットランドなまりにも似た独特の英語を話すのを聞いて興味をひかれた。

もとは3泊4日の短い滞在の予定だったが、メキシコでの旅程を早めに切り上げたため予定よりもゆっくりできることになった。このため滞在しているハリファックスのホテルが勧めるツアーでまる一日かけて風光明媚な海辺の港町などをめぐった。ノバ・スコシアは州旗がスコットランドの旗であるセント・アンドリューズ・クロス(青地に白い斜め十字体が入っている)を下地にしたものであるくらいその影響がそこかしこに見られるが、ヨーロッパのほかの地域からの移民も多く、ドイツ系移民がつくったルーネンベルグという町には通り沿いにドイツから取り寄せたベルリンの壁の一部が置かれていたりする(写真)。しかし第二次大戦中にカナダの敵国になってからはドイツ語は使われなくなり、地元の高校では今でもドイツ語を教えていないのだという。大学院時代に聞き慣れない名字のドイツ系カナダ人のクラスメートがいて、戦時中におじいさんがドイツ系とわからないように名前を変えたのだという話を聞いたのを思い出した。

ノバ・スコシアはアメリカの東海岸とヨーロッパを結ぶ航路が沖合を通っているため、様々な海難事故に巻き込まれてきた(1998年にはスイス航空機が沖合に墜落)。ハリファックスで最も印象に残ったのは船着き場近くにある古い建物を改装した海洋博物館で、ここにはタイタニック号ゆかりの品々が展示されている。タイタニック号が沈没した後、同船を運行していた船会社が、寒さや荒波といった劣悪な条件の中での作業に慣れているハリファックスの海底ケーブル修繕船のクルーに現場での回収作業を要請したのだという。展示物の中には船上で実際に使われていたデッキチェアーや犠牲となった2歳児が履いていた靴などの遺品もある。また、同船が氷山に激突した後にSOSを受信したニューファンドランドのレース岬の通信士直筆のノート(実物)には事故の第一報から突然通信が途絶えるまでの間の交信内容が時系列に書き込まれていて実に生々しい。

この展示室には私が前の週まで滞在していたベルファストで建造されたときから北大西洋に沈むまでのタイタニック号の短い歴史や船内の構造、遺体や遺品の回収作業などが写真入りで細かく紹介されている。映画でも再現されていたが、一等客室と三等客室は見取り図で見ても写真で見ても天と地ほどの差があるのがわかる。また、救命ボートに乗るのは女性や子ども優先という建前とは裏腹に一等客室の男性客の生存率がもっとも高かったという話や、一等客室の乗客の遺体が棺に納められたのに対して二等、三等の乗客の遺体は布の袋に入れられ、死後も差別的な扱いを受けたといった話も紹介されている。ミニシアターでは事故現場周辺に浮く遺体や遺品の回収作業にあたった船員の証言にもとづいて作られたビデオが流され、強烈な印象を残す。

ハリファックス滞在中、ホテル近くのタイ料理屋で日本人留学生の姿を見かけたが、観光客の姿はついぞ見かけなかった。聞けば日本人観光客は皆『赤毛のアン』の舞台となったお隣のプリンス・エドワード島に来るが(もちろん女性ばかり)、ノバ・スコシアまではなかなか足をのばさないのだそうだ。確かにそれほど見どころが多いようには思えず、5月になってもまだ新緑にもならない寒さだったが、夏場や秋の紅葉の時期に来ればいっそう美しい景色が楽しめるのではないかと思う。また、当地は一年中新鮮なシーフードを楽しむことができ、特に獲れたてのロブスターを溶かしバターにつけて食べるのは格別だ。市内の有名レストランで食べたロブスターのビスクは忘れられない味だった。

カナダといえばフランス語圏のケベック州にしか滞在したことがなかったが、今回ノバ・スコシアに来てあらためてアメリカ人とは似て非なる人々だという印象を受けた。ツアーガイドもいっていたが、カナダ人は控えめ(reserved)、アメリカ人よりヨーロッパ的であるというのも何となくわかる。同じようにイギリスの植民地から始まり、国境一本隔てているだけなのにこうも違ってしまったのは興味深い。