2009年5月26日火曜日

内戦終結


エジンバラの後は商談のためスリランカに向かった。当初は週末到着で週明けに用事を済ませた後すぐにスリランカを立つ予定でいたが、直前になって相手先から急にサウジに行かなければならなくなったので訪問を土曜日に延期してほしいといわれた。イギリスに必要以上に長く滞在する気にもなれないし、いったん帰国して出直すのも時間とお金がもったいない。そこでスリランカでまる1週間を過ごすことに決めた。

スリランカに向かう機内でイギリス、香港、シンガポールの新聞を、スリランカに到着した後は当地の英字新聞を読んだが、いずれも日本が新型インフルエンザで大騒ぎになっているというニュースを、マスクをつけた人たちの写真入りで掲載していた。いいお笑い草だ。感染者の数が急速に増えているのは、ほかの国以上に積極的に検査をしているからだろう。我が国の恐ろしいほどの情報鎖国ぶりを再認識させられた。

スリランカは海外青年協力隊の一員として1年間を過ごしたサラリーマン時代の同僚から話を聞いていたので一度は行ってみたいと思っていたが、なかなかきっかけがなかった。今回内戦が終わったちょうどいいタイミングで来ることになったが、治安状況もわからないのであまり動き回らず、デリーですっかりはまってしまったアーユルヴェーダの治療でも受けようと思い立った。そして商談相手に調べてもらった、コロンボから車で南に1時間ほどくだったワッドゥーワという海辺の町にある施設に滞在することにした。

30年にわたる内戦が終結したスリランカは祝賀ムード一色で、多くの車が国旗を掲げていたほか、国旗を振りかざしながら通りに集まる軍人や一般市民の集団を見かけた。テレビをつけるとシンハラ語と思われる地元テレビ局の番組でもこのニュースを長々と伝えていた。BBCはLTTE(タミール人の分離独立派の組織)の幹部が指導者の死を公に認め、今後は武力に依らない目的の達成を目指すという声明を出したと報じ、少し安堵した。

最近まで少数派タミール人が分離独立を求めている背景についてよくわかっていなかったが、今回聞いた話では、イギリスの植民地時代にはタミール人が多く住む北部地域に高等教育の機関をつくるなど恵まれた環境にあったのが(同国で医者や学者、技術者といったら皆タミール人だった時代があったとのこと)、独立後に多数派のシンハラ人が政権を握ると不遇な状況に陥ったという(決してそんなことはなく、良港や天然資源に恵まれる北部地域を切り離そうとした英・印の陰謀という人もいる)。LTTEは海外に亡命したタミール人やインドの支援も受けていたが、度重なる無差別テロに加え、政府軍の支配地域に移動しようとするタミール人にも銃口を向けるようになってから孤立を深めていったという。

こうした話を聞くにつれ、つくづく平和が当たり前な国に生まれたことを有り難く思う。たとえその国が驚くほどの情報鎖国であってもだ。

2009年5月23日土曜日

エジンバラ


5年ぶりのエジンバラ。いつ来ても美しい町だ。ただ空港から町の中心を通るトラムを建設中で、メインストリートのそこかしこが工事中。不便な上に美観を損ねている。2012年完成予定の工事が遅れに遅れていてしかも予算オーバーとのこと。何年か前に建設されたスコットランド議会の議事堂のようだ。

2日にわたるクライアント主催の会議に出席するためにやって来たのだが、初日の朝にいきなりトラブル発生。ホテルの部屋の外でけたたましく鳴り響く掃除機の音で目が覚め、『何もこんな朝早くからやらんでも…』と思って時計を見るとすでに8時半を回っていた。前の晩に頼んでいたモーニングコールを忘れられていたのだ。おかげで朝食を食べる時間もなく、肝心の会議にも遅刻してしまった。

モーニングコールを忘れるなんてホテルにあるまじきミスで断固抗議しなければと後でフロントに行ったのだが、話をしているうちに急速に戦意?を失ってしまった。人柄の良さげなスコットランド人に独特の訛りで謝られるとそれ以上厳しいことがいえなくなる。エジンバラ訛りは特に響きがやわらかく、当地の人々の人の良さが増幅されて感じられる。スコットランド訛りと一口にいっても地域差が大きく、列車で1時間とかからない距離のグラスゴーでもまったく違った訛りを話すから面白い。

これは後で聞いた話だが、会議が始まる時間になっても私が現れないのでクライアント企業の社長がほかの出席者に「シンジは日本人だからモーニングコールがちゃんと来るものと信じ切って寝坊しているのではないか」といっていたそうだ。イギリスに度々出張に来ていた同僚によるとモーニングコールを忘れるなんてよくあることで、明け方に頼んでもいないルームサービスがやってきてたたき起こされたこともあるそうだ(これは隣の部屋と間違えていたとのこと)。

コスタリカで現金不足に陥りそうになった経験から今回はエジンバラ市内のATMで多めにおろしたのだが、うっかり大事なことを忘れていた。スコットランドでは当地の銀行が発行した紙幣(写真)が流通しているが、ほかの地域では受け取ってもらえないことが多い。日本に持ち帰ろうものなら日本橋のHSBCまで持って行って高い手数料を払わないと円に換えられない。レストランやお店でお釣りにもらったイングランド銀行発行の紙幣を大事にとっておきつつ、通常はクレジットカード払いするようなところも現金払いをして何とか使い切った。

2009年5月22日金曜日

新型インフルエンザ

騒動の真っ最中にメキシコシティを後にしたが、コスタリカに来ていたメキシコ人観光客によると今はすっかりおさまってふつうの生活に戻っているとのこと。さすがはラテンの人たちだ。今回の騒動が唯一残したものは液体せっけんで手を洗う習慣とのこと(それまでやってなかったのかい!)。

当のメキシコ以上に大騒ぎをしていた日本でも“水際作戦”がはじまる前からウィルスが入っていたことがわかり、また新たな感染者が次々に判明しつつも犠牲者も出ていないことから特に危険なインフルエンザではないことが認識され始めるだろうか。

厚労省はすでに方針転換をしているようだが、「冷静に対応するように」とは、そっくりそのまま返したい言葉だ。さんざん煽りに煽ったメディアはどう落とし前をつけるのだろうか。

2009年5月18日月曜日

コスタリカ


サクラメントの後は中米のコスタリカに立ち寄った。なぜコスタリカにしたかといえば利用する航空会社が飛んでいること、それから何となくイメージがよいからといったところだろうか。相変わらずガイドブックももたない行き当たりばったりの旅行だが、行く間際になって大学院時代のコスタリカ出身のクラスメートに連絡をとり、見どころを尋ねた。

この元クラスメートによるとコスタリカは火山とビーチがいいとのこと。最近は年齢のせいか強い直射日光が苦手でビーチは避けるようにしているため火山へのツアーに参加することにした。おもな火山ツアーは私が滞在している首都サンホセに近いポアス火山に行くものと車で3時間半ほど北上したところにあるアレナル火山へ行くものの二通りがあり、私はホテルの人の勧めで溶岩流が見られて且つ温泉に入ることができるという後者のツアーにした。

サクラメントでホストマザーにコスタリカはアメリカ人観光客が多く行くところだと聞かされていたが、実際に火山ツアーに参加していたのもアメリカ人8人、メキシコ人4人、ウルグアイ人2人、ギリシャ人1人で東洋人は私一人だった。ツアーガイドが道路の横を流れる川が“コロラド川”という名前だと説明すると、アメリカ人の一人が真顔でアメリカのコロラド川と同じ川かと質問した。確かに地続きではあるが…。アメリカはもう少し地理の教育に力を入れたほうがいいかもしれない。

せっかく長い時間をかけて行ったのに火山は雲隠れしていて溶岩も見られなかった。唯一楽しめたのは温泉で、普通の川のように温水が流れてくるリゾートで3時間余りの時間を過ごした。深い緑に囲まれた場所で温泉につかるのは格別だが、川の流れが結構急で、日本であれば危険だという理由でこういうことはやらせないのではないかと思った。同国滞在中、日本人観光客には一人としてお目にかからなかったが、この温泉リゾートには日本人と同じく温泉好きといわれる韓国人のグループが来ていた。その中にいたおばあさんが上流の方で下着姿のままお湯につかって垢すりをしていたのには驚いた。

欧米を旅行するとホテルのバスタブが浅すぎて風呂に入る気が起きないことが多い。コスタリカも滞在しているホテルがシャワーだけだったので温泉に首までつかってリラックスすることができたのはよかったが、そのためだけに3時間半もかけて行く価値があるかといえばちょっと疑問。特に我々日本人であれば母国に火山も温泉もたくさんある。一方で温泉に行く機会が少ない欧米人は皆大はしゃぎだった。

私がコスタリカに来る前に描いていたイメージは、ジャングルやビーチなどの手つかずの大自然、軍隊のない平和な国といったポジティブなものだったが、同国出身の元クラスメートがいっていた通り、首都サンホセはこうしたイメージとはだいぶ趣を異にする。滞在初日の夜にホテルから2ブロックしか離れていないスーパーに買い出しに行こうとするとフロントの人に一人で行ってはいけないといわれた。そこで渡された観光客向けの注意書きにはこんなことが書いてある。

・貴重品は必ずホテルの部屋のセイフティボックスに入れる
・ホテルのフロントであっても持ち物から目を離してはいけない
・出かけるときは必ずフロントにもっとも安全な行き方を確認する
・タクシーに乗るときは必ず法律に準拠して営業しているか確認する
・現金の引き出しは人通りが多く明るいところにあるATMを利用する
・現金の引き出しは近くに誰もいないことを確認してから行う
・引き出したお金は金額を確認したら必ずしまってからATMを離れる
・迷子になったら周りの安全を確認してから地図を広げるか警察に助けを求める
・見知らぬ人の前で立ち止まってはならない
・車で移動するときは窓を閉めてドアをロックし、車内にものを置きっ放しにしない
・タイヤがパンクしたり、後ろからつけられたり追突されても決して車外に出ない

どんだけ危ないんだい!私が勝手に抱いていたコスタリカのイメージがもろくも崩れ去った。

2009年5月17日日曜日

サクラメント

2か月連続のイギリス出張。今年3回目の世界一周にして高校時代に1年間留学していたサクラメント郊外のロックリンの町を訪ねることにした。サラリーマン時代は何年かに一度しかホストファミリーのもとを訪ねることがなかったが、3年前にホストファーザーが他界してからは年に一回のペースでホストマザーのもとを訪ねている。

私が留学していた1980年代前半以降のサクラメント周辺の発展ぶりは目覚ましいものがある。当時は国際空港とは名ばかりの、ちっぽけなターミナルビルが一つあるだけだった空港には新しいターミナルが建ち、ネット予約の先駆けで機内も自由席という斬新な経営で成長著しいサウスウェスト航空がかつての大手航空会社を押しのけて圧倒的な便数を占めるようになっているのも時代を反映している。カリフォルニア州の州都であること以外、これといって特筆すべきことがなかったサクラメントだが、1980年代からベイエリアなどからの企業進出が進み、第二のシリコンバレーなどと呼ばれるようになった。周辺の町もどんどんと宅地開発が進み、ホストファミリーのところに遊びに行く度に道路の混雑がひどくなっている。

空港からサクラメントの北東40キロにあるロックリンへと車を走らせていると、目に飛び込んでくるフリーウェイの標識から留学時代の思い出がよみがえる。週末に日本語を教えていたナミオ君が住んでいたメリーズビル(ホストファミリーから彼が成長した後の写真を見せられ、26歳の若さで亡くなったことを聞かされたときはショックで言葉もなかった)、英語があまり得意でないカナダのケベック州からの留学生カールと小さな体にかかわらず1年間で20ポンドも体重が増えたタイからの留学生シャニカがホームステイしていたウィンターズ、ドイツ語の先生とクラスメートとレストランでパーティーをしたシトラス・ハイツ(後年、先生からこのレストランもなくなってしまったと聞かされた)…。

ホストマザーと話をしていると、私の同年代の人たちであれば今何をしているとか結婚して子供が何人いるだとかという話になり、ホストペアレンツの世代の人たちだと誰それが最近亡くなったといった話になる。やはり時は容赦なく流れているのだ。私と一つ違いのホストシスターと四つ違いのホストブラザーもサクラメント周辺に住んでいるが、ともに家庭をもち、それぞれの家族との生活があるので、私が行っても食事をともにするくらいになっている。私がこの地を訪ね、その発展ぶりを見届けられるのもホストマザーが健在なうちかもしれない。

2009年5月11日月曜日

水際作戦?


17日ぶりの日本。飛行機は定刻より早く到着したのに一向に下ろしてもらえない。「これから機内検疫を行う」とのアナウンスが流れ、しばらくしてゴーグルにマスク姿の検疫官がぞろぞろと乗り込んできた。とんだ歓迎だ。

WHOも疑問を呈する日本の水際作戦。島国ならではの発想だろう。致死率の高い危険な伝染病なら徹底的にやってほしいが、今回はちょっと違う気がする。何せメキシコ以外では死者の数が少なく、また、ほかのインフルエンザに比べて特に致死率が高いとか感染力が強いということもいわれていない。

家に帰ってテレビを見てようやく日本での大騒ぎの原因がわかった。7時のニュースの何と冒頭の15分間も割いて新型インフルエンザの話をしていたのだ。感染者が多数出ているアメリカやカナダの落ち着いた報道ぶりとは対照的だ。メディアがこうも視聴者の不安を煽るような報道をしていたとは…。特に公共放送の場合、海外のニュースのクリッピングを使って他の国でも大きく報道されているような話をするが、実際には数あるニュースの一つとして取り上げられているだけで、トップニュースですらない場合が多い。海外のニュースがリアルタイムに入って来る時代になったとはいえ、国内のメディアの影響力はやはり大きく、国民の間で要らぬパニックを作り上げることさえできることを再認識させられた。

日本のメディアが過剰?報道をしている要因としては、メキシコでの犠牲者の数が数十人にのぼっているからということがあるかもしれないが、新型インフルエンザと特定されるまで感染者の数を調べることすらなかったのだから、実際に感染した人の数は報道されている千人とか二千人といった単位ではなく、もっと何万人もいた可能性がある。3月にシアトルに出張したとき、メキシコからの出張者がインフルエンザにかかっていて、彼と接した人たちのうちの何人かがうつされた。皆かなりつらそうだったが、当の出張者は回復し、最終日にはぴんぴんしていたし、うつされた人たちも皆ほどなく回復した。彼がかかっていたインフルエンザが新型だったとしても今さら誰にもわからない。

感染者が千人でそのうち数十人が亡くなっているとしたらちょっと心配だが、何万人中数十人なら普通のインフルエンザと変わらないのではないだろうか。また、メキシコからの出張者が新型インフルエンザだったとして、彼と接した人のごく一部しかうつらなかったことを考えると(ちなみに私はセーフだった)、感染力も決して高くないことになる。さんざん大騒ぎをしてパニックを作り上げたメディアと国(厚生労働省)がどのようにしてこの騒動を収束させていくのか見ものだ。鳥インフルエンザのときのように何となく立ち消えにして人々が忘れるのを待つのか。鳥インフルエンザが終息したという報道はいまだに聞いていない。

2009年5月9日土曜日

モントリオール

北京に向かおうとしていた矢先、ネットのニュースで中国当局がメキシコから帰国した豚フル患者を隔離したとの報に触れた。当地で会うことになっていた知り合いに聞いたところ、機内でこの患者の近くに座っていた人たちも監視下におかれているとのこと。メキシコを出てすでに5日が経っていて、カナダ経由で入国する予定だったが、慣れない国でのこと、日本への帰国の日程が遅れるリスクはとれないので北京行きを断念し、その分長くカナダに滞在することにした。とはいえハリファックスにこれ以上いてもやることが思いつかない。そこでボストンに留学していたときに訪れたケベック州のモントリオールに再び行ってみることにした。

思えばボストンに留学していたのは17年も前のことで、そのときは車で5時間かけて行った。これほど長い時間ドライブするのは初めてで、なるべく早く着こうとスピードを出しすぎて途中のニューハンプシャー州で白バイに停められたことを鮮明に覚えている。その場で70ドル余りの罰金を払って済ませることができたが、スピード違反で捕まったのは後にも先にもこのときだけだ。

島国育ちには陸路の国境越えは海外を旅行するときにしか味わうことができないことだが、カナダに入ると道路標識がマイルからキロメートに変わり、ケベック州だけあってフランス語の看板を目にして別の国に来たことを実感した。同じカナダでも英語圏の地域を訪れていたらあまり国が変わったという印象は受けなかったかもしれない。

このときはモントリオール市内のB&Bに泊まったが、今となってはどうやってそこを見つけたのか、また、どのあたりにあったのかも思い出せない。今回久しぶりに行ってみて何となく街並みに見覚えがあると感じるくらいだった。唯一思い出せるのは目抜き通りにある皮革製品を売る店で、中東系と思われる店主と価格交渉の末、エメラルドグリーンっぽい色合いの皮ジャンを買ったことくらいだ。ちなみにこの皮ジャンはデザインも洗練されていて、ボロボロになるまで着続けた。

カナダにフランス語圏が存在することを知ったのは高校時代にアメリカに留学していたとき。近くの高校にケベック州から来ていたカールという留学生がいて、彼の英語のたどたどしさに驚いた。聞けば彼の地元では英語を勉強しなくても何の支障もないとのこと。国全体が商品のラベルを二言語表記にするなど、フランス語圏の人々に配慮しているにもかかわらず、フランス語地域では子供に積極的に英語を教えようとしていないのだろうかと思った。そして実際にケベック州に行ってみるとテレビはフランス語のチャンネルばかりで、特に年配の人たちはあまり英語を話さなかった。

今回久しぶりに当地に行って驚いたのは、どのレストランやお店でも若い店員さんは皆流暢に英語を話すことだ。旧世代の人たちは南部のルイジアナ州などを含めて国全体が完全に英語化されてしまったアメリカの二の舞にならないように(今ではアメリカの一部がスペイン語化されているという説もあるが)、子供になるべく英語を話させないようにしていたのかも知れないが、周囲を英語圏に囲まれていては自ずと限界があろう。国内のフランス語地域の中にはすでに子供たちがフランス語と同じように英語を話すようになっているところもあると聞く。

ケベック州の場合、州全体がフランス語圏で人口の母数も多いので、そう簡単に英語化されることはないだろう。看板や標識の表記や地下鉄のアナウンスはいまだにフランス語のみだが、英語しか話せない旅行者が問題なく滞在できるようになったことはありがたい。

2009年5月4日月曜日

ノバ・スコシア


メキシコを出たフライトが遅れたため、トロントでの乗り継ぎに失敗し、次の目的地であるカナダ東端のノバ・スコシア州に着いたときには夜中の1時をまわっていた。初めての土地に夜遅く着く場合には安全のため空港近くのホテルに泊まるようにしている。今回も予約していた空港近くのホテルに直行した。

なぜよりによってノバ・スコシアに来ることにしたのか。特に見たいものがあったわけではなく、一度来てみたかったからとしかいいようがない。何年か前にノバ・スコシア(ニュー・スコットランド)の地名の由来でもある北米に渡ったスコットランド人移民の歴史を描いた本を読んでこの土地のことを知り、その後長崎で会った当地出身のエンジニアがスコットランドなまりにも似た独特の英語を話すのを聞いて興味をひかれた。

もとは3泊4日の短い滞在の予定だったが、メキシコでの旅程を早めに切り上げたため予定よりもゆっくりできることになった。このため滞在しているハリファックスのホテルが勧めるツアーでまる一日かけて風光明媚な海辺の港町などをめぐった。ノバ・スコシアは州旗がスコットランドの旗であるセント・アンドリューズ・クロス(青地に白い斜め十字体が入っている)を下地にしたものであるくらいその影響がそこかしこに見られるが、ヨーロッパのほかの地域からの移民も多く、ドイツ系移民がつくったルーネンベルグという町には通り沿いにドイツから取り寄せたベルリンの壁の一部が置かれていたりする(写真)。しかし第二次大戦中にカナダの敵国になってからはドイツ語は使われなくなり、地元の高校では今でもドイツ語を教えていないのだという。大学院時代に聞き慣れない名字のドイツ系カナダ人のクラスメートがいて、戦時中におじいさんがドイツ系とわからないように名前を変えたのだという話を聞いたのを思い出した。

ノバ・スコシアはアメリカの東海岸とヨーロッパを結ぶ航路が沖合を通っているため、様々な海難事故に巻き込まれてきた(1998年にはスイス航空機が沖合に墜落)。ハリファックスで最も印象に残ったのは船着き場近くにある古い建物を改装した海洋博物館で、ここにはタイタニック号ゆかりの品々が展示されている。タイタニック号が沈没した後、同船を運行していた船会社が、寒さや荒波といった劣悪な条件の中での作業に慣れているハリファックスの海底ケーブル修繕船のクルーに現場での回収作業を要請したのだという。展示物の中には船上で実際に使われていたデッキチェアーや犠牲となった2歳児が履いていた靴などの遺品もある。また、同船が氷山に激突した後にSOSを受信したニューファンドランドのレース岬の通信士直筆のノート(実物)には事故の第一報から突然通信が途絶えるまでの間の交信内容が時系列に書き込まれていて実に生々しい。

この展示室には私が前の週まで滞在していたベルファストで建造されたときから北大西洋に沈むまでのタイタニック号の短い歴史や船内の構造、遺体や遺品の回収作業などが写真入りで細かく紹介されている。映画でも再現されていたが、一等客室と三等客室は見取り図で見ても写真で見ても天と地ほどの差があるのがわかる。また、救命ボートに乗るのは女性や子ども優先という建前とは裏腹に一等客室の男性客の生存率がもっとも高かったという話や、一等客室の乗客の遺体が棺に納められたのに対して二等、三等の乗客の遺体は布の袋に入れられ、死後も差別的な扱いを受けたといった話も紹介されている。ミニシアターでは事故現場周辺に浮く遺体や遺品の回収作業にあたった船員の証言にもとづいて作られたビデオが流され、強烈な印象を残す。

ハリファックス滞在中、ホテル近くのタイ料理屋で日本人留学生の姿を見かけたが、観光客の姿はついぞ見かけなかった。聞けば日本人観光客は皆『赤毛のアン』の舞台となったお隣のプリンス・エドワード島に来るが(もちろん女性ばかり)、ノバ・スコシアまではなかなか足をのばさないのだそうだ。確かにそれほど見どころが多いようには思えず、5月になってもまだ新緑にもならない寒さだったが、夏場や秋の紅葉の時期に来ればいっそう美しい景色が楽しめるのではないかと思う。また、当地は一年中新鮮なシーフードを楽しむことができ、特に獲れたてのロブスターを溶かしバターにつけて食べるのは格別だ。市内の有名レストランで食べたロブスターのビスクは忘れられない味だった。

カナダといえばフランス語圏のケベック州にしか滞在したことがなかったが、今回ノバ・スコシアに来てあらためてアメリカ人とは似て非なる人々だという印象を受けた。ツアーガイドもいっていたが、カナダ人は控えめ(reserved)、アメリカ人よりヨーロッパ的であるというのも何となくわかる。同じようにイギリスの植民地から始まり、国境一本隔てているだけなのにこうも違ってしまったのは興味深い。