2009年3月28日土曜日

ブラックベリー


ここ数年のアメリカでのブラックベリー(キーボード付きスマートフォン)の普及のし方は目を見張るものがある。アメリカの取引先にメールをしたときに不在を知らせる自動通知が返ってくる代わりにブラックベリーからと思しき手短な返信が来ることが増えた。いつでも連絡がつくように社員全員に持たせるなんて会社も多いようで、会議中しきりにメールをチェックする人たちもいる。かつて日本人を称して“エコノミック・アニマル”と呼んでいた人たちがいたっけ。

2009年3月26日木曜日

シアトル


ロスの後は飛行機で2時間余り北上したシアトルに到着。春の日差しがまぶしい南カリフォルニアから一転、どんよりとした曇り空。しかも滑走路のわきには雪が積もっているではないか。ここ3年ばかりこの時期にシアトルを訪れているが今年は特に寒く感じる。

今回も商用があって来たのだが、当地を観光したいという友人を案内するために3日ばかり早くシアトル入りした。この町はサンフランシスコのような派手さがなく、ここで暮らす人々も肩ひじ張ったところがなくて落ち着くのだが、この時期はいかんせん雨が多い。帝国ホテルのアネックスに事務所を構える知人の弁護士さんが、当地の大学に留学していたとき毎日のように雨が降っていたので勉強に集中できたといっていたのを思い出す。氏の成功はシアトルの天気のおかげかもしれない。

友人との観光3日、仕事1週間の計10日間の滞在だったが、友人と過ごした3日だけ天気に恵まれた。以前日頃の行いに自信がないと書いたが、やはり私ではなく友人の行いのお蔭だったようだ。今回観光した中でもボーイング社の工場は容積が世界最大の建物の中に747、777、787のラインが同居していて、生産工程の進化を見ることができる。最新の787型機のラインは翼や機首といった大きなパーツの生産を国内外のサプライヤーに任せ、それらを改造型747型機で運び込んで組み立てている(工場敷地内には航空機を“出荷”するための滑走路がある)。昨年お会いしたコンサルタントが787型機用のラインであれば比較的簡単にほかの場所に移せるといっていたのがよくわかる。高給で知られるボ社の従業員はストなどをやっている場合ではないかもしれない。

ボ社の工場以外では風光明媚なオリンピック半島やピュージット湾に浮かぶ島などシアトル周辺をドライブし、リースリングで名を馳せた有名ワイナリーでは工場見学とテイスティングを楽しんだ。我々がシアトルに着く前日まで雪が降っていたといい、観光を終えた翌日からまた天気が崩れたことを考えると束の間の晴れ間にこうしたところを回ることができたのは実に幸運であった。

2009年3月17日火曜日

ラキンタ・リゾート


ペルーの後はロサンゼルスに飛び、パームスプリングス近くの高級リゾートに別荘を所有している資産家の友人と合流した。ところが間際になって友人から別荘の借り手がついたので代わりに近くにある高級リゾートを予約しておいたといわれた。こっちは“高級”じゃなくていいんだけど…。

この高級リゾート、10年ほど前に当時勤めていた会社が雇ったコンサルティング会社の研修会で一度訪れたことがある。こうしたところに泊まる趣味がないので、もう二度と来ることはないだろうと思っていた場所だ。たまの海外旅行くらいいいところに泊まりたいと思う人も多いようだが、私は東京での普段の生活と大きな落差を感じるようなところにあえて泊まりたいとは思わない。一人で旅行しているときはそうしたわがままを通せるが、人と一緒の場合は相手に合わせることも必要。そう自分に言い聞かせた。

仕事ではなく休暇であらためて泊まってみると居心地は悪くない。コテージ風の広々とした個室にはキングサイズのベッドが置かれ、バスルームは東京の私のベッドルームよりも広い。色とりどりの花が植えられた中庭には小さな温水プールまでついている。2泊3日の滞在で、中日には世界的に有名なPGA Westのスタジアムコースで終日ゴルフを楽しんだ。テレビで見た浮島のグリーンや驚くほど大きなバンカーがあるコースでプレーをするのは格別。冬季の砂漠地帯は暑すぎず、汗がべとつくこともなくきわめて快適。いい思い出となった。

アメリカは不景気というが富裕層にはあまり影響がないのか、週末の高級リゾートは満室。ゴルフ場も結構人が入っていた。周辺の別荘地からゴルフ場に通じる道は車道の脇に歩道ならぬ“カート道”が設けられていて、マイ・カートを走らせている人たちを見かける。アリゾナ州のトゥーソンあたりもそうだが、こうした避寒地に別荘を買って老後を過ごす人が多いと聞く。私も老後は南の島でのんびりと暮らしたいなどと思った時期があったが、今はそんな生活もすぐに飽きるだろうから、自分にやれる仕事がある限り働き続けたいと思っている。

2009年3月15日日曜日

コカ茶


ペルーで普通に飲まれているコカ茶。クスコのホテルでは乾燥させた葉っぱをそのまま湯に浸したものが出てきたが、スーパーなどでは写真のようなティーバッグで売られている。苦味が少なくて飲みやすく、続けて飲むと胃の調子もすこぶるいい。クスコに4日滞在して高山病にかからなかったのもこのお茶のおかげだろうか。ぜひお土産に持ち帰ろうと思って一箱買ったのだが、日本でも手に入らないものかとネットで調べたところ禁輸品、というか麻薬扱いで空港で見つかると即捕まるとのこと。危ないところだった。

2009年3月13日金曜日

インカ道


ブラジルの次はペルー。日本から南米まで来るのは大変なので一回の旅行でなるべく多くのところを見ようと欲張った結果だ。朝の便でサンパウロからリマまで行き、クスコ行きの国内線に乗り継いだ。リマを飛び立った飛行機はクスコとは反対の海側に旋回しながら高度を上げた。6,000メートル級のアンデスの山々が迫っているため直に行こうとすると衝突してしまうからか。

それまでガイドブックも持たない無計画な旅行でしのいできたが、クスコに行く3日前に予約を入れたホテルからマチュピチュ行きの列車は事前予約が必要と知らされ、ペルーの国営鉄道にメールで問い合わせたところ6日前が期限との返事。クスコまで来てマチュピチュを見られないなんて一生後悔しかねない…。メールで事情を説明して頼み込んだところ、翌朝には3日後の座席のコンファメーションの連絡が来た。どうやら特別に手配してくれたようだ。このあたりはさすがにフレキシブルなラテンの人たち。日本ではなかなかこうはいかない。実際に乗った列車はオフシーズンだというのに満席だったので、間際で席がとれたのは実に幸運だった。

クスコからスイッチバック式の登山列車に揺られること4時間余り(実際に列車はかなり揺れる)、マチュピチュのふもとの駅に到着した。駅を出ると雨が激しく降っていて駅前で待ち構えていた物売りのおばさんからポンチョ型の雨具を購入。人の流れについて行くとバスが並んでいる場所に着いた。どうやらそこでバスに乗り換えるらしい。窓口で切符を買って乗り込んだ。座席がうまるとバスはスピードをあげてガードレールもないS字型の急な山道を上りはじめた。おいおい雨が降っているんだからそんなにスピードを出さないでほしい。ベテラン運転手の腕を信じるよう自分に言い聞かせながら窓側の席に着いたことを後悔した。マチュピチュの入り口と思しきところでバスを降りたときには一層雨足が強まっていた。

再び人の流れに着いて行くとチェックポイントで足止めされた。入場券はと聞かれたので持っていないというと入口で買うようにいわれた。そういうことは早くいってほしい。それともガイドブックで下調べしてこない私が悪いのか。ちなみに入場券売り場は気づかずに通り過ぎてしまいそうなところにあった。列に並んでようやく自分の番が来たと思ったらさらにトラブル発生。入場料は現地通貨でしか受け付けないという。列車もバスも米ドル払いなのになぜ入場券だけ現地通貨なのか。訳わからん!現地通貨の持ち合わせがない旨伝えると、バス乗り場近くのカフェまで戻って換金してくるようにいわれた。

そんなこんなでずいぶん時間を食ってしまったが、ようやく遺跡に到着したときにはあれほど激しく降っていた雨があがっていた。雨の中を歩き回るのはつらいし、写真を撮るのも大変だ。日頃の行いには甚だ自信がないが、ありがたい限りだった。テレビで見たそのままの遺跡の光景が目の前に現れたときにはしばし感動。半日をそこで過ごす間にカメラのシャッターを切り続けた。リオのカーニバルやイグアスの滝を見に行ったときのように、デジカメのメモリーがいっぱいになってしまった。こんなことは南米に来るまでなかった。

翌日はくだんのスペイン人の友人が勧めたクスコがある聖なる谷(Sacred Valley of the Incas)の遺跡めぐり。宿泊先で車を手配し、一日借り切ることにした。6,000メートル級のアンデスの山々に囲まれた谷は阿蘇山のカルデラをもはるかに上回る広大な盆地といった広さで、車でおもだった遺跡を回ってもまる一日かかる。氷河に削られた山肌や雪をかぶった山頂、青々とした草原など、これまで見たこともない雄大な景色は息を飲む美しさで、勧めてくれた友人に感謝した。

この聖なる谷のそこかしこにインカ時代の遺跡が残っているのだが、山道を登らなければならないところはかなりつらい。富士山の山頂のような標高のところなのですぐに酸欠を起こして息苦しくなってくるのだ。しかも手すりもない崖っぷちを歩かなければならないところもあり、ひたすら足元だけを見て進むしかない。大学時代山登りをやっていたが、落ちたら間違いなく命にかかわるようなところを歩いた記憶はあまりない。

クスコ周辺は世界有数の観光地だけあって各国から大勢の人々が訪れていた。ペルー政府もこうした“金づる”に対してまさにやりたい放題。マチュピチュに行く観光客は列車に乗るために一番安い“バックパッカークラス”でも100ドル近い料金を払わされる。さらに遺跡まで往復するバスは14ドル。きわめつけはおよそ40ドルの入場料。これまで世界遺産を含めて様々な観光名所に行ったがこれほど強気な値付けは見たことがない。しめておよそ15,000円也。これは現地ではとんでもない大金だ。

それでいて観光からあがる莫大な収益が広く人々に行き渡っているという感じがしない。クスコの中央広場から脇道に入ると寒空の下、ホームレスと思しき人が道端に座り込んでいたりする。観光客が多く集まる場所には多くの警察官が立っていて生活に困って犯罪を犯す人々を力で押さえつけている様子がうかがえる。旅行先でその日の生活に困っている人たちの姿を目にすると悠長に海外旅行などしている我が身を振り返って楽しい気持ちも覚めてしまう…。

2009年3月12日木曜日

漢字ブーム?


前のブログで海外に行くと漢字のタトゥーをしている人たちをよく見かけるということを書いたが、中にはよく意味がわからなかったり、非常に“悪筆”だったりするものもある。また、タトゥー以外にも漢字が書かれたTシャツを着ている人も多い。写真は聖なる谷を観光しているときに見かけた、そのアクセントからイギリス人と思しき観光客が着ていたTシャツだ。漢字国の人間に笑われかねないが、あえて教えるべきかは迷う。

2009年3月7日土曜日

サンパウロの日本人街


ブラジル最後の目的地はサンパウロ。大都市なだけでたいして見るものはないといわれていたので2泊3日の短い滞在にした。ただサンパウロで一つだけ見ておきたいものがあった。それは日本人移民がつくった日本人街だ。世界に数多ある中華街と違って、海外の大きな都市で日本人街があるのは私が知る限りリトル・トーキョーで知られるロサンゼルスとここサンパウロだけである。サンフランシスコにもジャパン・タウンと呼ばれるところはあるが規模が小さく、日本人コミュニティという感じではない。

ホテルで日本人街の場所を聞き、地図を頼りにダウンタウンを歩いているとポルトガル語で“日本人移民博物館”という意味らしき言葉が書かれた看板が現れ、その方角に進むと赤い提灯の形をした街灯が並ぶ道にたどり着いた。通りを歩いてみると中国料理屋だとか中医学の治療院だのの看板が並び、店で働く東洋系の人たちも中国や東南アジア系と思われる言葉を話していて日本人街というよりは東洋人街のような感じがした。中華街化が進むニューヨークのリトル・イタリーを思い出させる光景だが、日系ブラジル人の人たちがこぞって日本に出稼ぎに行ってしまったからだろうか。目抜き通りらしきところに出るとようやく日本人街らしい店が多くなった。

日本食の食材店をのぞいてみると店頭には銀米だの金米だのといった聞いたことがない銘柄のお米が並んでいたが、一通りのものは置いてあるようだった。日本を遠く離れた地でもその食文化はしっかり受け継がれているようだ。また、ブラジルによくあるバイキング形式の和食店では春巻なんかが置いてあるのはご愛嬌として、酢の物もかき揚げもみそ汁も味付けはきちんとしていた。値段はやはり割高で、普通のバイキング料理に比べて倍といった感じだった。ちなみに普通のバイキング店にも寿司が置いてあることがあるが、こちらはおにぎり状に固めたごはんの塊(酢飯ですらない)に魚の切り身を乗っけただけのもので超マズく、日本の食文化が誤って伝わっていることにがっかりさせられる。

この日は日曜日だったからか街は多くの人でごった返し、メトロの入り口にある小さな広場にはいくつもの屋台が所狭しと並んでいた。中にはエッセンシャルオイルを売る店など日本とは到底関係のなさそうな店もあったが、寿司や天ぷら、焼きそばやどら焼き、今川焼きの店まで出ていた(焼きそばの麺がビーフンだったりするのもご愛嬌)。中には神主の装束をまとった人が客の依頼に応じて漢字を短冊にしたため、お祓い風のジェスチャーをした後に引き渡している出店もあった。どうやらお守りとして売っているようだった。アメリカ同様、当地も漢字がクールと思われているようで、体に漢字の入れ墨をしている人を多く見かける。

滞在期間が短かったこともあり、サンパウロで観光らしい観光をしたのはこの日本人街(というより東洋人街といった方がいいかも知れない)のみであったが、今や完全に現地化してポルトガル語しか話さない日系人の人たちが日本の文化を守っているのを見て何となくうれしい気持ちになった。

2009年3月5日木曜日

イグアスの滝


リオの後は昨年アルゼンチンに行ったときに時間がなくて行かれなかったイグアスの滝を見に行くことにした。ところがカーニバル休暇の最中だったためフライトがとれず、まる一日かけてバスで行くことになった。日本で夜行バスに乗ったのは学生のときにスキーに行ったときのみで、それでも乗っている時間はせいぜい8時間程度だった。果たしてこんな長時間バスに乗っていて大丈夫なのか…。

日に2便しかないイグアス行きのバスはちょっとくたびれているものの、さすがに長距離仕様になっていて、前の座席の背もたれから長方形の板状の足置きを手前に倒せるように設計されていた。単純な構造ながらこの上に脚を乗せているとふくらはぎ全体が支えられてきわめて楽であることに気づいた。さすがに長距離バス大国である。バスは途中で食事や給油の休憩をはさみながらおよそ23時間かけてイグアスに着いた。バスの中では何度となく眠ったため不思議と疲れは感じなかった。ただ、まる一日ほぼ座った状態でいたため、バスを降りたときにはさすがに足元がふらついた。

イグアスの滝はブラジル、アルゼンチン、パラグアイの三国の国境にあり、ブラジル側とアルゼンチン側から眺めることができる。複数の目的地がある場合、遠い方から順番に行くことを鉄則としている私はホテルにチェックインする際にその日のうちにアルゼンチン側の滝を見に行くことができるかと聞いたがもう遅いといわれたのでその日はまずブラジル側を見て、翌朝アルゼンチン側に向かうことにした。

バスで国立公園の入り口まで行き、入園料を払ってさらに園内バスに乗って行くと遊歩道の入り口に着いた。そこから坂道を下っていくと川の向こう側にいくつもの滝が見えてきた。その規模は遠くからでも十分に実感できるものだった。しかしそこで見たものはまだ序の口で、遊歩道を進んでいくとさらに多くの、さらに水量の多い滝が流れ落ちているのが見えてきた。

イグアスは滝が断崖を侵食しながら川上方向に後退を続けているということで、浸食が最も進んでいる一番奥にあるのが“悪魔ののど笛”として知られる大滝だ。流れ落ちる滝の多さそして高さ、さらに華厳の滝であれば中禅寺湖がすぐに空になってしまいそうなその水量に感嘆した。

翌朝は国境越えのバスに乗ってアルゼンチン側に行き、同じように国立公園の入り口で入場料を払って今度は園内を走っている小型列車で悪魔ののど笛を見に行った。アルゼンチン側では遊歩道を渡って水が流れ落ちる滝の上部を間近で見ることができ、その迫力に圧倒されるとともに、しばらくいただけで全身びしょ濡れになった。アルゼンチン側ではこのほかにも大小様々な滝を様々な角度から見ることができるように遊歩道が設置され、川の中州にボートで渡ることもできる。

ブラジル側とアルゼンチン側とでは滝の景色もまったく違って見えるので、せっかくイグアスまで行くのであれば二日かけて両側から見ることをお勧めしたい。ただしブラジルに入国するには予めビザをとっておく必要がある。

世界三大瀑布を制覇した旅行代理店に勤める幼馴染は1にビクトリア、2にイグアス、3にナイアガラとランク付けしていた。今度はイグアスに勝るというビクトリア滝を見てみたいという思いを強くした。

2009年3月1日日曜日

脱税指南

先週末の移動の飛行機で読んだ新聞はいずれも7年前まで勤めていたUBSがアメリカの富裕層に対して行っていた脱税ほう助に関するニュースが一面だった。何でも同行が米当局の求めに応じて脱税の疑いのある米国人顧客の情報を提出するというもので、すでに250人分を提出済みでさらに52,000人分の情報も提出される可能性があるという。UBSの手口は顧客の資産を新たに作った代理人あるいはペーパーカンパニー名義の口座に移し、資産の帰属先をわからなくすることで課税を回避するというもので、同行は数千人の顧客の脱税を助けたことを認めて7.8億ドルの罰金を支払うことにすでに同意しているという。

私がUBS傘下の証券会社に転職した2000年に同行はアメリカに富裕層の顧客を多く抱えるペインウェバーという証券会社を買収した。そのわずか8年後に今日のような大規模な脱税ほう助が明るみに出る事態に至ったということは、買収の隠れた目的にスイスの銀行の“守秘義務”を隠れ蓑にしたこうしたブラック・ビジネスの企みがあったのではないかと疑ってしまう。ファイナンシャルタイムズ紙の記事にはスイスの銀行家たちがこうした守秘義務によって圧政に苦しむ人たちが救われ、ときには全体主義と闘うのに役立ったと主張していると書かれていたのを読んで2001年にUBSの米国法人で行われた内輪の会議で誇り高きペインウェバーの社員がUBSを称して「世界の独裁者や麻薬王のお金を運用している銀行」と述べていたことを思い出した。どちらが実態に近いかは言わずもがなだ。ちなみに私は投資銀行部門で法人向けの営業を担当していたので(自分がやっていたことがほめられたことかは別にして)、こうしたビジネスには手を染めていない。

それはさておき、今回の一件で改めて驚かされるのはアメリカの富裕層のあくなき強欲さである。一生かけても使い切れないお金をもってもなお脱税によってさらに蓄財しようとするのだからすさまじい。もはや金儲け自体が人生の目的になってしまっているようだ。時を同じくして日本では竹中平蔵元総務相が市場競争の末に富が一部に集中しても、そのおこぼれを貧困層も享受できるとする「トリクルダウン効果」を主張していたことについて、与謝野馨財務相が「人間の社会はそんな簡単なモデルで律せられない」と一蹴したと報じられたが、富裕層の行動パターンを見る限りトリクルダウンはあっても限定的で、社会全体に広く薄く富を分配した方が経済効果は高いように思われる。今滞在している南米は貧富の差が特に激しい地域だが、ブラジルのような経済成長著しい新興国でもトリクルダウンが貧困層に行き渡っているようにはとても思えない。

リオのカーニバル


一生に一度は見ておきたいものの中で現実には難しいかなと思うものもある。その一つがリオのカーニバル。何せ日本から見て地球の真裏の国で行くのが大変。さらにエジプトのピラミッドや中国の万里の長城と違っていつ行っても見られるわけではない。GRUPO ESPECIAL(スペシャルグループ)と呼ばれるあの有名なパレードが見られるのは年にわずか2日しかないのだ。

カーニバルの時期を狙ってリオに行くのは無謀と思いつつ飛行機の空き状況を調べたところ、なぜかいとも簡単にとれた。ところが問題はホテルで、世界中の観光客がこの時期を狙って来るらしくどこも満杯。しかもどのホテルも通常の倍以上の料金で、一週間固定の“カーニバル・パッケージ”にして売り出している。この時期に来るなら一年前から予約しなければだめだといわれたが、サラリーマン時代よりも自由がきく身とはいえ一年も前から“サンバ休暇”をリザーブしておかれる身分ではない。

これまでにもホテルの予約なしに海外旅行に行った経験はあるが今回は事情が違う。時期が時期なだけに現地に着いてからホテルがとれる可能性が低く、さらにリオに行ったことのある同僚からは危険な場所なので行くあてもなしに町に出てはいけないと注意されていた。しかもブラジルは英語が通じない。今回のワーストケースシナリオはリオの空港でホテルが取れないことだったが、その場合の“次善の策”というのが思いつかなかった。

夜の7時にリオの空港に着き、入国・通関を済ませて到着ロビーの案内所に直行した。中にいた女性にホテルを探している旨伝えたところちょっと驚いた顔をされ(あるいは呆れられたのかも知れない)、「探してみるけど保証はできない」としごく当然のことをいわれた。そして何軒かにかけて断られた後、奇跡的にコパカバーナにあるホテルが滞在期間中二度部屋を変わる条件で私が希望する4泊分用意できるといった。料金もこの時期としてはリーズナブルだという(それでもホテルのランクにしてはかなり高い)。一も二もなく同意した。

さて肝心のカーニバルのパレードだが、こちらもチケットも取らずに来たので現地で購入するしかない。しかし値段を聞いてみるとどうも定価というものがないらしく、売り手の言い値で売られているように感じられた。もちろん席によって価格は違うだろうが、同じセクションの切符でも人によって350リアルといったり280リアルといったりする。流通量は十分にあるようだったので、当日会場で買うことにした。パレード開始直前にゲートの前に立っていると案の定、切符を手にした人が寄って来た。何人かに値段を聞くと最安値は200リアルだった。手持ちがあまりないというと何と165リアルまで下がった。日本円にしておよそ6,600円。パレードの入場口に近いところなのであまりいい席ではなかったが、前日まで350リアルと聞かされていた席なので初めて来た旅行者としてはまずまずだろう。2日目にはパレードがスタートした1時間余り後に行ったら同等クラスのチケットが何と50リアルで買えた。まさに大暴落。

夜の9時過ぎから始まったスペシャル・パレードは想像を超えるものだった。参加できるのは最高峰のチームだけだが、その一つ一つが両側に観客用のスタンドがある1キロはあろうかという道をおよそ1時間かけて行進していく。各チームとも数十人あるいは100人単位で同じ衣装をまとったグループが次から次へと通り過ぎて行く。先頭と最後尾、そして中間のところどころに出てくる“山車”は3階建ての建物に匹敵する高さのものまであり、その上で派手な衣装をまとった人たちが踊っている。参加者が一年の蓄えをすべてつぎ込んでいるという話が説得力を持つ豪華さだ。ブラジル人はサンバの音楽を聞くと血が騒ぐのか、会場も興奮の渦に巻き込まれて大合唱が始まる。こればかりはテレビで見てもなかなか伝わらない。

世界的に有名なコパカバーナやイパネマの広大な砂浜、リオのシンボルともいえるコルコバードの絶壁に立つキリスト像も一見の価値があるが、できればカーニバルの時期に来てパレードを見ることをお勧めしたい。私のように無茶はせず(こんなことをする日本人はあまりいないか)、一生に一度のことと思って多少高くても桟敷席からパレードを見ることができるツアーに参加するのがいいだろう。