2009年8月7日金曜日

築地


前回商工会議所のイベントに出ても、ものを売りたい人ばかりが集まって買い手がいないのでしかたがないと書いたが、会員になってから外国の企業からの問い合わせが来るようになった。おそらくうちの会社の概要が会議所が運営する英語版のウェブサイトに掲載されたからだろう。

そのうちの一社に日本に魚介類を売りたいというパキスタンの水産会社があった。メールの署名をみると同国の元首相で暗殺されたブットー元首相の父親でもあるズルフィカール・アリー・ブットーと同姓同名だった。インドでいえばガンジーみたいな響きだ。それだからというわけではないが、日本での市場性を探るために同社が扱っている何十種類にも及ぶ魚の名前を訳して(辞書に載っていないものが多く、日本語名を調べるのが結構たいへん)、以前仕事でお付き合いのあった築地の大手卸売会社の社長を訪ねた。

社長はヘッドハンティングだとか同業者への転職が少ない業界にあって珍しく大洋漁業(現マルハニチロ食品)から招かれた人で、後になって興銀の常務から大洋漁業の副社長になった私の祖父をご存じであることを知った。何でも外語大のロシア語科を出て大洋漁業に入社したときの配属先(国際部)の担当役員だったとかで、まさに“雲の上”の人だったそうだ。サラリーマンは誰しも新入社員の時代があるが、父の世代の会社社長が新入社員だった頃というのはなかなか想像ができない。ただ祖父はその社長と親子ほど年が離れていたわけだから、私がサラリーマン時代に自分の父親と同年代の役員を見ていたのと同じ感覚で見られていたというのは想像がつく。

その祖父は父の赴任で私の家族がアメリカに住んでいる間に他界した。ずいぶんかわいがってもらったと聞くが、渡米する前の幼児の頃、休みの日に近所のおもちゃ屋に連れて行ってもらったことや、お土産にやどかりやパンを持ち帰ってきてくれたことをおぼろげながら覚えている。その後祖父はがんを患い、我々が一時帰国したときにはすでに病床にあった。不思議なことに今でも祖父の姿を思い出すことができるのに、声はどうしても思い出せない。もちろん祖父の職場での顔など知る由もなく、実家の仏間に残っているロシア(当時のソ連)との漁業交渉のときのものと思しき写真を見て想像をめぐらすくらいだった。

7年ぶりに訪ねた卸売会社の事務所は築地の市場の建物の一画にあり、当たり前だが4年前に行ったときとまったく何も変わっていなかった。丸の内の旧丸ビルも日比谷の三信ビルもなくなってしまった今、これほど戦後の時代を感じさせる建物は東京にあまり残っていないのではないかと思う。まるで昭和30年代の映画かテレビドラマの中にいるようで、まさに祖父が現役だったころを体感できる空間だ。都議会議員選挙で民主党が勝利したことで築地市場の移転がどうなるかわからなくなったというが、こうした建物が失われるのをもったいないと思うのは単なる懐古趣味だろうか。