2011年12月30日金曜日

とり天


年末に何年かぶりで訪れた大分。実質半日の短い滞在だったので着いてすぐに町の食堂に直行し、とり天を食した。

初めて当地(別府)を訪れたときに、いわゆる関さば・関あじとともに忘れられない味となったのがこのとり天だった。読んで字のごとく、鶏肉の天ぷらなのだが、さくさくとした衣が、から揚げとは違った鶏肉のおいしさを引き出し、また食べたいとずっと思い続けていた。

当地の地銀さんとの面談で、なぜ全国どこでも手に入る食材を使ったあれほどおいしい料理が大分県以外で食べられないのかと尋ねると、大分の人はほかの県にはないとは思っていないので、県外に展開しようという発想もなかったのではないかとのことだった。確かに当たり前に身の回りにあるものが、ほかの県に置いていないとは思わないものなのかもしれない。

とり天をきっかけに、話題が商談からはずれて大分の食文化になってしまった。その中で特に興味深かったのが当地のふぐ料理の話だった。ふぐといえば下関を思い浮かべるが、下関で売られているのは大分沖で獲れたもので、大分では生の肝が食べられるくらい新鮮で、一度食べると他県では食べられなくなるとのこと。そしてふぐ料理を食べるなら大分市から1時間ほど南に下った臼杵に行くことを勧められた。臼杵といえば、前回観光で大分に来たときに石仏を見物した記憶があるが、いつもながらの行き当たりばったりの旅行で、ふぐの町だとは思いもよらなかった。ふぐ料理といえば大阪で一度食べたきりで、前週に下関の対岸の門司港に行ったときにまた食べてみようと思ったが、結局やめてしまった。ちょうどその日は大分県南部の佐伯に泊まる予定だったので、臼杵で途中下車することにした。

臼杵の駅で駅員さんに近くにふぐ料理屋はないかと尋ねると、親切にもネットで調べてちょっと距離はあるけどといいながら、地図をプリントアウトしてくれた。ところが実際に行ってみると10分もかからずに着いてしまい、つくづくふだんからよく歩く東京の人間と、車社会の地方の人の距離感覚の違いを感じた。しかし店に尋ねてみると、ふぐはその日に使うものしか仕入れないので、当日の朝までに予約しないと出せないとのこと。残念…。

食文化が豊かな大分には是非また行きたいと思うが、いかんせん経済規模がそれほど大きくないので、今回の出張でもビジネスに結びつくような具体的な話は出てこなかった。この上はいつかまた観光で訪れてリベンジしたい。

2011年12月25日日曜日

はやかけん


福岡で思わず買ってしまったICカード。市の交通局が発行しているもので、九州ではこのほかにJR九州が発行しているSugoca(関東風にいえば「すごい」)というのもあるが、私はひらがなで書かれた「はやかけん」(標準語で「速いから」といったところか)のネーミングに惹かれた。

JR東日本がSuicaを発行したとき、その名前の意味するところが伝わって来ず、何てセンスがないネーミングだろうと思った。おまけにカードにすいか(西瓜)の絵をあしらうなど、もはや完全なダジャレ。JR西日本が発行するIcocaの方がまだましに思えた。しかし考えてみれば標準語に近い関東のご当地言葉を使ったネーミングというのは実は難しいのかもしれない。

関東ではSuicaと東京近郊の私鉄が発行しているPasmoが相互乗り入れをしているが、今回九州に出張してSuicaが使えるところで必ずしもPasmoが使えるわけではないことを知った。発行者がJRどうしだからかSugocaが使えるところではSuicaも使えるが、東京で地下鉄通勤をしている私が持っているPasmoは九州では一度も使えた試しがなかった。一方、同じ九州どうしのSugocaとはやかけんは完全に相互乗り入れしているので、結果としてはやかけんを記念に買って大いに重宝した。

私がかつて身を置いていた電機業界でもメーカーが新たに開発した製品を世に送り出す度に消費者の利益とは無縁のフォーマット争いを演じていたが、全国各地の鉄道会社がそれぞれにICカードを作りながら、他の会社のICカードとの互換性を確保しないのは明らかに消費者不在。早く全国規模での統一化を図ってもらいたい。

2011年12月17日土曜日

九州


今週は正味3日の旅程で九州を縦断した。もとは北九州と福岡を2日でまわる予定だったのが、これに別途訪問する予定だった鹿児島を加えて3日の旅程とした。以前は福岡に行くついでに鹿児島に足を延ばすなどという発想はなかったが、九州新幹線の開通で今は1時間半とかからず行かれてしまうのだから驚く。私が何年か前に訪れたときは人影もまばらだった指宿が観光客で賑わっているというから経済効果も大きいようだ。

今年の夏以降、セミナーや商談で繰り返し福岡と北九州を訪れているが、何度か通っているうちに町の歴史も産業も異なる両市がお互いを距離感をもって見ていることに気づいた。北九州といえば私の世代は小学校の地理の授業で習った一大工業都市。かつての製鉄の町も今ではすっかり様変わりしたが、福岡の便利なところに空港があるのに自前の空港と航空会社をつくるあたりに地元財界のプライドと結束力が感じられる。今年は初めて北九州市内に本店を置く銀行ができたが、これは山口銀行の九州にある拠点を統合したもので、当地に来ると福岡より海峡を隔てた山口県の方が距離的にも心理的にも近く感じられる。(写真は私が好きな門司港にあるホテルから眺める関門海峡)

福岡での宴席の後、夜の新幹線で鹿児島中央駅に降り立つと、南国とは思えない寒さに驚いた。後になって大陸からの寒波が九州南部までやってきていたことを知ったが、実は東京の方が暖かかったことを知り、7月に札幌に出張して意外に蒸し暑かったときと同様にちょっと損した気分がした。鹿児島中央駅は新幹線の開通に合わせて建てられたのか、立派な駅ビルになぜか観覧車までついていて、かつての面影がなかったが、駅前の「若き薩摩の群像」のみがこの駅が西鹿児島と呼ばれていた当時の名残をとどめていた。

東京の会社が九州で商売をとるには頻繁に通ってこちらの真剣度を示すとともに、地元愛が強い当地の人たちに自分と九州とのつながりをアピールするのが有効だったりする。福岡では私の4代前が黒田藩の商家の出であることがそれなりにアピールしたように思えるが(実は大分の出という説もあるが、これは大分に行ったときのためにとっておいている)、鹿児島でも同じことを聞かれてとっさにご先祖が鰹節問屋をやっていたと話した。実際に枕崎と取引をしていたかはわからないが、面談相手は満足げだったのでそのように思われたようだった。

こうした努力?が報われて九州でも少しずつ商売がとれるようになってきたが、いかんせん本州の大都市圏に比べて会社の数が多いわけでも、規模が大きいわけでもないため、ROI(投資利益率)は決して高くない。このため今後も商用で九州に通い続けられるかはどれだけ商売のフローを生み出せるかにかかっており、来年にはその結論が出るだろう。

2011年12月10日土曜日

大阪秋の陣

大阪のダブル選挙。東京に住む私にはあまり関係のない話だが、思想も政策もまったく相容れない既成政党が特定の候補者の当選を阻止するためにこぞって同じ対立候補の応援に回ったり、ネットや週刊誌で特定の候補者の人格を否定するようなことが書かれているのを目にして何ともいえない異常さを感じた。それほどその候補者に当選されては困る人たちがいたものと想像するが、その候補者が圧勝したところを見ると、こうしたメディアはさして信用されていないようにも思える。

当選した新市長が前職で“独裁的”だったという批判が多く聞かれたが、クーデターでその地位についたわけでもなし、何たる的外れな批判だろうと思うと同時に、こうした批判をもっともらしく展開する類いの人たちこそが重要な意思決定を遅らせて国の停滞を招いてきたのではないかとさえ思った。知事であれ市長であれ、行政首長には大きな権限が与えられているわけで、その権限の枠内で選挙で約束した政策を強力に実行していくことは何ら問題ではないはず。推進しようとしている政策が間違っていると思うのであればそれを批判するべきだろう。

親戚が大阪市役所に勤めている知人から前の市長が就任して間もなく「抱き込みに成功した」という話を聞いていたが、現職では何も変わらないということが市民にも感じられたのではないだろうか。新市長が良いか悪いかは別として、少なくとも変化はもたらすだろうし、それに期待するしかないほどの閉塞感を感じていた人が多かったものと想像する。歴代の市長を“抱き込み”続けてきた大阪市の職員がどこまでだらけていたのか今後つまびらかになっていくのだろうか。

最近友人と日本人の安定志向がもたらす経済的損失について語る機会があった。優秀な技術者が安定を求めて一部の大手企業に集まっても全員が十分にその能力を発揮する場が与えられるとは思えず、国全体として相当な人的リソースが無駄になっているのではないかと思うが、仕事量に比して頭数が多い役所の公務員が競争や効率の追求とは無縁の世界でろくに働きもしないのも大きな経済的損失。安定を望む国民性だからこそ、公務員になれば一生安泰というようなことはやめるべきだろう。

2011年12月3日土曜日

インド

この一週間はインドからの来客で慌ただしく過ぎた。同国の大手コンサルティング会社と提携してから2年余り、製薬、食品、建材、医療機器など様々な業種の企業から順調に受注を受け(これは弊社の実力というよりは提携先の実績によるところが大きい)、セミナーを開けば常に満席になるくらい同国への関心が高まっている。

インドの人口は12億人近く。日本の10倍を超えるのももはや時間の問題。つまり全人口の10%が日本人と同じ購買力をもつだけで大変な市場になるわけで、多国籍企業であれば関心をもたずにはいられないだろう。しかしいかんせん意思決定が遅い日本の企業のこと。業界最大手クラスでも完全に韓国勢の後塵を拝しているところが多い。

インドの提携先との取り決めでは弊社が営業支援をして受注をした後は提携先がお客様に直接サービスを提供するということになっているが、そうはいかないのが日本の企業。何やかやで弊社にサポートの依頼が来る。そして今週はクライアントの大手医療機器メーカーから頼まれて、社長への市場調査の最終報告をインド人コンサルタント同席のもと、私が日本語でやることになった。

思えば大勢の人の前でプレゼンテーションをするなんて久しぶりだ。投資銀行時代ににわか勉強したことをさもずっと前から知っていたかのように語る術は身につけたが、予備知識のないインドの医療機器業界について語るのはかなり荷が重い。しかしインド人から各スライドのポイントを聞き、投資銀行業界で培った厚顔さを活かして?何とか切り抜けた…。

それにしてもインドのエリートたちの優秀さには驚く。自分が担当する業界の様々な製品について聞かれるがままにすらすらと答える。また、見込み客についても徹底的に調べ上げ、営業段階で有用な情報を提供する。人口の母数が多いとピラミッドのトップもそれだけレベルが高くなるということか。逆にいえば大変な競争社会で、つくづくインドに生まれなくてよかったと思う。

2011年11月26日土曜日

地震研究

政府の地震調査委員会が東日本の太平洋沖を震源とする地震の発生確率を公表したという。三陸沖北部から房総沖の日本海溝付近で起こる地震の発生確率について、マグニチュード8以上の規模が今後30年以内で30%とする内容で、東日本大震災に匹敵する大津波が生じる可能性もあるという内容。実に懲りない人たちである。

東京で育った私は小学生の頃から東海沖地震が来るということをさんざんいわれ、学校では防災訓練なるものをしていた。三陸沖だとか房総沖だとかいったことは一言もいわれず、正にノーマークだった。ところがいざ震災が起きてみると、何と明治に入ってから三陸沖で大地震があり、大津波も押し寄せていたというではないか。また、先人達が全国各地に津波が到達した地点を記す石碑などを残しているという。こうした基本的なことを調べずして地震学者たちはいったい何をしていたのだろう。

日本の地震学者たちが東海沖一辺倒ではなく、三陸沖で起こりうる大地震と大津波についてきちんと予想し、注意を喚起していたなら、東京に住む我々が子どもの頃からやっていたような防災訓練を三陸の沿岸に住む人たちもやっていて多くの命が救われたのではないかと思う。また、沿岸のあのような低い土地に原発を建てることもなく、今回の惨事は防げたのではないだろうか。

震災が起きた途端に同じ海域で再び大地震が起きる確率について語るのも専門家としての見識を感じさせないが、南北800キロに及ぶ海域で今後30年以内に起きる可能性が30%あるといわれてもどう解釈していいのかわからない。もっとピンポイントで、かつ高い確率で予想してもらえるならまだいいが、それができないならこのような発表を行う意味が見出せない。

以前このブログでアメリカのワシントン州から震災の被災地の視察に来た建築技術者の一行が同州の地層から300年前に大地震があったことをつきとめていると述べていたことを書いたが、それに比べて地震大国日本の地震学者たちのお粗末さには閉口する。国費を使いながら国民の役に立つ結果が出せないのであれば研究自体をやめるか体制を変えるべきではないだろうか。

2011年11月16日水曜日

TPP

ここのところプライベートでも仕事の場でも話題にのぼるTPP。私の周りには日本の関税・非関税障壁の恩恵を受けている人はいないので反対派は見かけない。私も賛成か反対かと聞かれれば、交渉参加への道筋をつけることに反対する理由は見当たらない。選択肢をもっておくのは悪いことではないし、反対派の人たちの多くがある意味で既得権をもった人たちであるためあまり共感できないのだ。

数年前、当時虎の門にあった新規就農相談センターなるところに行ってみた。メーカーに勤めた後、投資銀行に転職した私はいわゆる第二次と第三次産業は経験したので、残りの人生で第一次産業を経験すれば全産業制覇である。しかしこのような相談所を開設しているわりには本当に農業を非農業従事者に開放する気があるのか疑問に思われた。というのも新規で農業をやるには地元の農業委員会の許可を得てまとまった農地を買い、フルタイムで就業しなければならない。兼業農家は多いはずなのに新規参入者にはそれを許さないというわけだ。それでいて農業で十分な現金収入をあげるのは難しいなどという。また、農業をやっている親戚筋に聞いてみたが、やはり農業委員会の許可などおりないという。つまりたとえ後継者がいなくて農地が競売に出ていても新規参入には高いハードルを課すというわけだ。これまで長年にわたって保護されてきた間に多少なりとも輸入品に対抗する準備をしてきたのかも甚だ疑問で、それがTPPの議論が出てきた途端、食の安全だのと消費者のためを思っているかのようにいわれても説得力を感じない。

そんな折、長年アメリカの通商代表部で対日・対中の交渉にあたり、今は西海岸で隠居生活を送っている人物が東部の名門ダートマス大学で教鞭をとっていたときの教え子を連れて事務所にやってきた。米国の通商代表部というとかなり強硬なイメージがあり、あまり好印象を抱いていなかったが、この人物は1960年代に日本に住んでいた経験があり、実は親日家であることを知った。面談の目的は私の会社が委託業務としてやっている米国企業の日本への輸出の支援(売り先開拓など)で協力できないかというものだったが、日本の業界の多くは監督官庁とタイアップして様々な合理性が感じられない参入障壁を築いている(たとえば薬事法で石鹸の輸入を厳しく規制しているが、最近の「茶のしずく」問題からも国民の健康を守ることが目的でないことは明らか)ので、多くの業界にとって日本は輸出先として労多くして実りが少ない国といわざるをえない。

経済界はTPP加盟に向けての交渉参加を歓迎しているようだが、関税が下がったくらいで日本のメーカーの競争力が飛躍的に高まるかといえば実はそれも疑問だ。早くから海外に進出し、規制にも守られてこなかった電機業界でさえ、大手企業の収益性や株価が下落傾向を続ける一方で韓国の大手は逆に株価が上昇を続けている。TPPに参加することで多少競争力が増すかも知れないが、状況がドラスティックに改善するとは思えない。

日本が戦後急速な経済成長を遂げたのは日本人が勤勉で優秀だったからと思いたいところだが、実際には中国や韓国が共産主義化や内戦などで同じスタートラインに立てる状況になかったことも大きな要因だっただろう。本当の意味で日本の競争力が試されるのはまだこれからであり、TPPという枠組みが最適かは別として、市場を閉鎖することで競争力が高まることがないのは確かだろう。

2011年11月13日日曜日

ポルチーニ


初めてポルチーニなるものを口にしてから何年が経っただろう。忘れもしない、メーカー時代にフランスの工場の売却交渉でイタリア北部にあるオリベッティの旧子会社を訪問したときのことだった。幹部との面談を終え、昼食に招かれたのだが、メニューのイタリア語がわからず、ホストに勧められるままに注文したのがこのとき旬だったポルチーニのスパゲッティだった。きのこ類と聞いてあまり期待しなかったが、食べてみてそのおいしさに感動した。

それからというもの、日本のイタリア料理屋でメニューにポルチーニと名のつく料理を見つけると必ず注文するようになったが、缶詰入りのものを使っているせいかイタリアで食べたポルチーニとは味も食感も香りも似て非なるもので、満足感が得られなかった。それから10年余りがたったある日、資産家の友人に横浜の馬車道近くにあるレストランに誘われた。そこは何とイタリアから空輸された生のポルチーニを使った料理を出していて、ポルチーニスパゲッティのほか、ポルチーニのピザなども堪能した。しかもこうした高級食材をふんだんに入れてくれるところがいい。

私がB級グルメ漬けであることを見抜かれてか、この友人と食事に行くときには決まって彼女が場所を選んでいたのだが、銀座の和食屋も六本木の中国料理屋も西麻布のフォンデュー屋も二の橋のイタリア料理屋も大変美味ながら私の一週間分の食費くらいの支出となった。このときもどれくらいとられるのかと思いきや、耳を疑うほどリーズナブルだった。店が良心的だからなのか、場所が横浜だからなのか。

東京にある一流店を知り尽くしている友人がわざわざ横浜まで足を運ぶのだから、東京には同等レベルのポルチーニ料理を出す店はないということだろう。このとき毎年ポルチーニが旬の時期にここに来ようと心に決めたが、一年に一度来ようなどということは一年も経たずして忘れてしまうものらしく、今年になってようやく思い出し、友人を誘って何年かぶりで訪れた。ポルチーニの時期も終わりにさしかかっていたのでまさにぎりぎりセーフ。

中華街に行くわけでもない限り、東京の友人を誘ってわざわざ横浜まで食事をしに行こうという話にはならないが、このレストランに限っては時間をかけて出かけて行く価値が十分にあると思う。このままでは来年もまた忘れてしまいそうなので、さっそくカレンダーに書き込んだ。

2011年11月5日土曜日

永平寺

零細サービス業者としてはついつい顧客層の多角化を図ることで経営を安定させようという発想になってしまう。このため紹介のあった案件についてはよほど採算に合わない場合は別として基本的に断らないようにしている。

最近提携先から紹介のあった福井の地元メディアから来年永平寺でスティーブ・ジョブズ氏の一周忌をやるのを手伝ってほしいといわれた。何でもジョブズ氏が禅に傾倒して一時は永平寺に出家することまで考えていたので、故人の思いを叶えるために考えついたという。そして副住職からは、寺側が持ちかけることはしないものの、遺族の依頼があればやってもいいとの感触を得ているとのこと。

はじめに依頼されたのは提案書づくり。しかも内容に関して何らインプットがなく、提示された報酬もあまりに少ない。そこでそのような金額では翻訳料にしかならないということと提案書のような商業主義的なものを出しては遺族の心証を害する恐れがあるということを伝えた。すると今度は遺族宛のレターを用意してほしいといわれ、報酬も引き上げられた。

提携先との関係もあるのでお引き受けしたが、思えば永平寺というのは我が家の宗派である曹洞宗の総本山。永平寺から直接依頼があればお布施代わりに無償でお引き受けしたのに。その見返り?にこれまでの人生で犯したすべての過ちを許してはもらえないだろうか…などとくだらない考えが頭をよぎった。

本件は商売的にどうだったかは別として、うちが曹洞宗であることを改めて思い起こすきっかけにはなった。それにしてもなぜご先祖は曹洞宗などというストイックな宗派を選んだのだろうか。私自身は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽に行かれるような宗派の方が合っているような気がする。

2011年10月29日土曜日

オリンパス

オリンパスと大王製紙のニュースに触れてついメーカー時代のことを思い出してしまった。仲介会社に相場とかけ離れた巨額の手数料を支払って高い買い物(企業買収)をする会社、上場してもなおオーナー一族を特別扱いしてしまう会社、ものいわぬ役員たち…。いつまで経ってもこうしたことが後を絶たないのは日本独特の企業風土が原因なのか。

企業買収の対価も仲介手数料も当事者間の合意で決まっているだろうから、いわれているような不透明な資金の流れがなかったのであれば、たとえ結果的に高いものをつかまされたとしてもそれ自体が違法行為とはいえない。しかしこうしたことが公になるのは会社にとって恥ずかしいことで、なぜ口止め不能な外国人を社長などにしたのかが不思議。さらによくわからない理由ですぐに解任するなどまさに恥の上塗りだろう。隠し事が多い会社は物言わぬ日本人役員と従順な外国人役員だけで固めておくのが鉄則だ。

会社が高い買い物をしたことで収益が悪化すれば株主が直接的な被害を被ることになるが(現にオリンパスの株価は暴落した)、かつてメーカーで似た経験をした私は社員の士気に与える影響を心配する。自ら何も生み出さず、金を右から左に動かすだけで大もうけをしている業種であればどれだけ多くの損失を出してもあまり同情できないが、メーカーというのは製造の現場などで一円一銭を節約する努力をしているもので、会社のトップ自らがそうした社員の日々の努力を台無しにしてしまっては社員たちは浮かばれない。

私がいた会社の場合、外国人幹部が毎年天文学的な浪費をする一方で、製造現場では限界に近いコスト削減の努力をし、東京の本社のスタッフでさえ年々コピー用紙の質を下げ、裏紙を使い、まさに焼け石に水としかいいようのない節約を続けていたことを思い出す。自らも現場を知るべきメーカーの経営陣がどうしてこうした社員の努力に無頓着でいられるのか。この点はいまだに理解できない。

2011年10月22日土曜日

ソーシャルメディア

友人らの誘いを受けてFacebookを使い始めたのは何年前のことだっただろうか。とはいえ当初はソーシャルメディアなるものの目的がよくわからず、商売のプラスにもならないので、同僚に「実利が見えない」といったところ、「実利を求める人は使うべきではない」といわれた。昨年になってメールすら交換したことがない取引先のエジプト人の奥さんから友達リクエストが来て、同国では多くの人々がFacebookを利用していることを知った。そして今年起きたエジプト革命でソーシャルメディアが大きな役割を果たしたという報道に納得した。

Facebookを使っていていちばん嬉しいのは長年音信が途絶えていた友人からメッセージをもらったときだろう。最近では大学を卒業して以来会っていなかった友人から突然友達リクエストが来た。彼は愛知県の有名政治家の息子でいずれ地盤を継ぐのかと思いきや電機メーカーに就職してその後インドネシアに赴任したと人づてに聞いていた。彼からのメッセージで今もジャカルタに暮らしていることを知って驚くとともに、それがわかっていれば今年の春に当地に行ったときに会っておけばよかったと思った。

最近はFacebookを使って飲み会の誘いが来ることもある。携帯電話が一般に普及し始めた頃、ある一定の年代以下の人たちは携帯をもっていないと友人との付き合いに支障をきたすようになり、それがどんどんと上の年代へと広がって行ったが、同じことがソーシャルメディアでも起きるのだろうか。Facebookの利用者の間でサークルのようなものが作られていることも最近になって知った。私がいた電機メーカーの同期入社の人々のサークルに入ったのがきっかけだ。入ったといっても私が自分の意思で入ったのではなく、同期入社の友人が私をメンバーに入れてFacebookからその通知が届いたのだ。自身の操作で“脱退”もできるのだろうが、そんなことは感じが悪くてとてもできない…。

Facebookを使い慣れている友人は日記のように日々の出来事を画像入りでアップしていてそのマメさに感心する。私などはとても使いこなしているというレベルではないが、それでもつながりたい人とつながっていられるのだからこの上なく便利なツールと感じる。

2011年10月15日土曜日

日本オープン


所属する千葉のゴルフクラブで日本オープン選手権が行われたため観戦に行った。会費を払い、前売り券の販売に協力したのだからタダで見られるメンバーの特権を使わずにはいられない。

ゴルフを始めて6年が経つが、プロ競技を観戦に行ったのは今回が初めて。5年前に所属する別のクラブでも同競技が行われたが、ちょっと体育会系が入っているこのクラブは私のような“若手”メンバーがボランティアとして競技の運営を手伝うこともなくただ観戦することが許される雰囲気ではなかったので結局一日も行かずじまいだった(今にして思えばもったいなかった…)。

大会3日目は最終ホールの残り200ヤードあたりで観戦したが、石川遼初め有名選手が次々にティーショットを私の目の前に落としてくれたおかげで彼らを間近で見ることができ、ミーハー的な欲求が満たされた。トッププロを実際に見て皆意外に小柄との印象を受けたが、それでも残り200ヤードをアイアンで軽々と打ててしまうのだからすごい。また、プレーの合間に選手たちが交わす言葉にそれぞれの人となりや上下関係が垣間見えて面白い。

今年は石川の不振でゴルフ中継の視聴率は低迷しているとのことだったが、それでもにわかゴルフファンと思しきギャラリーが彼を追いかけまわす姿は相変わらずだった。テレビのスポーツニュースを見て順位にかかわらず石川のプレイに時間を割くのに違和感を覚えていたが、実際に観戦してみるとその理由がよくわかった。彼にだけ専属のテレビクルーがついて回って一打一打を撮影しているのだ。これでは一緒にラウンドしている選手がかわいそうだが、石川がホールアウトするとそそくさと帰ってしまう人々は彼を見るために3000円の当日券を買っているのだから、こうした人たちがこのスポーツを成り立たせているのであれば仕方のないことかと思った。

最終日は18番ホールの観覧席で最後の一打まで見届けたが、ベテランの久保谷がこれを入れれば優勝というパットを外して韓国の若手選手にプレーオフに持ち込まれ、前日まで首位だったベテランの佐藤がこれを入れればプレーオフに参加できるというパットを外すのを続けざまに見て、日本人は大事なところで緊張してしまって力が出せないのだろうかと思った(写真はプレーオフ直後)。帰り際に韓国の優勝選手について「石川遼よりだいぶ上だな」というのが聞こえてきたが、遼君ら日本人の若手がもっと上に行かないと日本オープンでさえ日本人がなかなか優勝できない事態になりかねない。

2011年10月9日日曜日

盛者必衰

先日お招きを受けて参加した昼食会であの寺島実郎先生の講演を聞き、アメリカが抱える問題の根深さを改めて認識するとともに、この半年間に私自身の身の回りで起きたことを思い起こした。

中国やインドのようにもともと大国であった国々が再び台頭し、アメリカの相対的な力が弱まっていくのは時間の問題とは思っていたが、イラク戦争以降、それが加速度をつけて進行しているようだ。寺島先生によるとイラク戦争の戦費は現在価格でベトナム戦争のそれを大きく上回る1.2兆ドルに達し、アフガンを含む戦闘での米軍兵士の死者も戦争の発端となった9・11同時多発テロの犠牲者をはるかに上回る6,000人を超えたという。空港で厄介な荷物検査をやられる度に「あのブッシュのせいで…。」と思っていたが、不毛な戦争でアメリカ国民が負った犠牲は計り知れない。

今年に入ってからクライアントであったアメリカの州政府の予算がカットになり、財政状況の悪化が比較的裕福であるはずの州にまで及んでいることを認識させられたが、最近アメリカへの出張から帰国した50歳代後半の知人は長年アメリカに通っているが、あれほどひどい状況は見たことがないといった。また、東南アジアでコンサルティング会社を経営している知り合いのアメリカ人は母校のプリンストン大学(超名門)で講演をするとたちまちアジアで働きたいという学生たちから履歴書が送られて来るといい、英語のオンライン学習を提供しているアメリカの若い女性企業家は高学歴でも職に就けない人が大勢いるので英語の先生はいくらでも調達できるという。そして母校のアメリカのビジネススクールからは米国経済再生の提言を行う参考にするとして、アメリカのビジネス環境やその競争力に関するアンケート調査が送られてきた。

アメリカの状況が時間をかけて少しずつ改善することはあるかもしれないが、冷戦終結後に唯一の超大国といわれた時代に戻ることはなさそうだ。また、弱者救済を社会主義的として頭から否定する国民性からして貧富の格差が是正されることもないのだろう。アメリカが何をやっても許される時代が終わることは好ましいことのようにも思うが、子ども時代から通算6年半を過ごした国が混乱し、力を失っていく姿を目の当たりにするのは一抹の寂しさもある。

2011年10月1日土曜日

九郎と黒尾


前回の家系図の話でご先祖に歴史上の人物がいればミーハー的な興味がわくと書いたが、実は母方にはいるかもしれない。それもほかならぬ源義経だ。

母の旧姓は黒尾(くろお)というが、竹内や二人の祖母の旧姓である小野や中山と違って全国的に見ても珍しい、というか栃木を起源とするその一族しかいない姓だ。つまり黒尾の名字をもつ人々は嫁に来た女性を除き血縁にあたるはず。

黒尾家はもともと栃木の豪族の家(本家は地元の神社の神主をしていると聞く)だが、同家には源九郎義経の“くろお”に地元の山の名前から“黒尾”の文字をあてたのが名字の由来という話が伝わっている。義経の落とし胤の末裔だからこうした姓を名乗り始めたというが、義経が栃木に胤を落としていった経緯も想像がつかず、ご先祖の作り話ではないかと話半ばで聞いていたのを思い出す。

ところがあるとき偶然テレビで義経について取り上げた番組をやっているのを見て、黒尾家に伝わる話がまんざら作り話でもないことを知った。奥州に逃れる途中、北関東に滞在していた義経のもとに地元の豪族が競って娘を送りこんだというのだ。京都が都だった頃の北関東はそれこそ僻地で、その地の豪族にとって天皇家の血を引く人物の子種をもらうことはこの上ない権威付けになったという。とはいえ黒尾の祖先が本当に子種を授かったことを証明する術はないものと思った。

その後皇位継承の男系論者の話を聞いて、黒尾家が本当に清和源氏を祖とする義経の末裔でその後男子の跡取りが続いてきたとしたら、私の叔父やその息子たち(私の従弟)も男子の皇族と同じY遺伝子をもっている可能性があることに気づいた。そしてそのことが確かめられれば黒尾家に伝わる話が現代の科学によって事実であったと証明される。しかしそのためには皇族の遺伝子を調べなくてはならず、やはりハードルは高そうだ。

2011年9月24日土曜日

家系図


伯父(父の姉の夫)からの突然の電話。孫(私にとっては従兄の息子)が結婚するので父方の家系図をもたせたい、ついては父方の祖母の実家である竹内の方を調べてほしいといわれた。父は女きょうだいばかりなので竹内の名字を継いでいるのは兄と私だけ。次男の私に頼んでくるということは私の方が暇と思われているか?などと余計なことを考えつつ、調査に取り掛かった。

父方の祖父の家がもとは日本橋の裕福な鰹節問屋であったこと、曾祖父、その先代とも養子で曾祖父は信州、先代は九州の出ということは聞いていた。ただ先代は大分とも黒田藩(つまり今の福岡県)とも聞いていて、どちらか定かではなかった。曾祖父が信州に里帰りするときにはまるで大名行列のようで、大伯母(祖父の姉)は女中さんを伴ってお稽古事に通っていたという。ところが祖父の長兄が放蕩をして店が傾き、祖父の姉が番頭さんと結婚してその後を継いだものの時すでに遅しだったと聞く。かつての商売敵があの“にんべん”だったというからずいぶんと明暗を分けたものだ。

伯父にお寺に過去帳が残っているはずなので、それを調べればご先祖のお墓に入っている人たちの名前はわかるはずといわれ、曾祖母までが入っている浅草のお寺(江戸の商家のならわしとかで墓石には名字ではなく店の名前が刻まれている)に聞いてみたが、関東大震災と第二次大戦の戦災に遭っているので残っていないといわれた。また、祖父の本籍地である中央区の区役所に出向いて調べてみたが、曾祖父の戸籍はすでに廃籍となっていて、それ以上はたどれなかった。ただ若くして亡くなった曾祖父が彌右衛門という名前だったことだけはわかった。

竹内の家系図作りはこうして残念な結果に終わってしまったが、面白い発見もあった。祖父の戸籍を見ると祖母の元の戸籍が岡山市の小橋町というところになっていた。祖母は池田藩士の家の出だが、東京の学校に通っていた祖母の兄と級友だった祖父が当地に遊びに行ったときに、川沿いの道を日傘をさして歩いて来た祖母に一目ぼれしたという話を聞いていたが、グーグルマップで調べるとこの小橋町は岡山のお城から川を隔てたところにあり、こうした話を見事に裏付けるロケーションだった。

結婚する従兄の息子にとって竹内は父方の祖母の実家。そして私にとっての父方の祖母の実家がこの岡山にあったわけだ。祖父の一家の家系図ができなかったのは東京のお寺が震災と戦災に遭ったためで、岡山の方は親戚を探し当てれば比較的簡単にわかるかも知れない。しかし冷静に考えてみるとご先祖の名前がわかったからといってそれ以上のことは何もない気がする。誰か歴史上の人物に行き当ればミーハー的な興味はわくが、地方の士族の家だとその可能性も低いだろう。

2011年9月19日月曜日

北陸

福岡、広島、岡山、金沢…この一カ月はこれまでになく国内出張が多かった。特に北陸への出張は週末をまたいで金沢・福井・富山の三県を慌ただしく移動することとなった。西から福井→金沢→富山の順番かその逆方向で東から西へ移動できればよかったのだが、面談相手の都合で金沢→福井→金沢→富山→金沢→福井→金沢ときわめて効率の悪い移動をすることとなった。

飛行機派の私は当然のことながら羽田から小松行きの便に乗り込んだのだが、何と滑走路に入って離陸の滑走を始めた後に急停止した。操縦士が即座に機内アナウンスで安全に問題がないといったが、別の飛行機が着陸するので離陸の許可が取り消されたなどと説明されては何とも説得力がない。その後NHKのニュースで羽田空港の管制官が部外者立入禁止の管制室に見学者を入れたり、中学生に飛行中の旅客機と交信させたり、エアフォースワンの飛行計画を個人のブログに載せたりと不祥事続きであることを知った。4つ目の滑走路が完成し、管制がますます難しくなっているという同空港だが、このような状況では大事故が起きるのも時間の問題か…。

それはさておき、北陸3県はそれぞれに特徴があって面白い。北陸最大の都市金沢はやはり別格といった感じで、香林坊あたりを歩いていると町も人も洗練されているように感じる。対照的に地味なのが(よくいえばチャラついていない)富山。それでいて北陸銀行や北陸電力など、地域を代表する企業が数多くあるので、質実剛健といったところだろうか。福井はまだ二度目なので特徴をつかめていないが、このご時世に県庁のロビーで原発のプロモーションビデオを流し続けていたのには驚いた。

2014年にいよいよ北陸新幹線が開業するそうだ。前の与党の有力議員を輩出している石川県では何年も前から新幹線のホームだけ建設していたが、富山ではそのようなポーズはとらず、着工が本決まりになるのを待ってホームの建設を始めているあたりが面白い。当然のことながら福井も新幹線の延伸を望んでいるようだが、採算的にちょっと難しいか。

新幹線が開業すると東京から金沢まで2時間半で行かれるとのこと。そうなると大阪に行くのとほぼ同じで、飛行機とどちらにすべきか迷う。しかしそんなことを考える前に当地に顧客を確保してまずは行く用事をつくる方が先か。

2011年9月11日日曜日

LCC


3年ほど前、商用で北九州に行くことになり、スターフライヤーという聞き慣れない新興の航空会社を利用した。値段が安かったのであまり期待していなかったのだが、機体は新型のエアバス機、革張りのシートはピッチも広く、大手航空会社のフライトよりよほど快適だった。

大手二社も他社との合弁で参入を決めたように、日本にも遅ればせながら格安航空会社(LCC)の波が押し寄せて来たようだ。航空業界再編後の国内路線がこの二社にほぼ独占され、価格競争もあまり働いていない状況からすると大いに歓迎すべきという気がする。今年に入ってから二度ほど松江に出張したが、羽田からのフライトを調べてみると、出雲に飛んでいる日本航空と米子に飛んでいる全日空が1円違わぬ料金だったのに驚き、呆れた。

先月再び北九州を訪れる機会があり、帰りはスターフライヤーを利用することとなった。大手航空会社とコードシェアをしていることを知り、チェックインの際にマイルをつけることができるか尋ねたところ、その航空会社が設定している数千円高い料金を払えば可能とのこと。費用はクライアントもちとはいえ、同じ飛行機に乗るのに何千円も高い料金を払うことは正当化できない。

LCCというと「安かろう、悪かろう」の発想でコストを下げるために機体が古かったり、座席が狭かったり、サービスが悪かったりするものと思いがちだが、スターフライヤーに限っていえば革張りの各シートに電源やディスプレイまでついていて、タリーズのコーヒーがふるまわれるなど、至れり尽くせりだ。テレビのチャンネルもゴルフレッスンからBBCニュースまでそろっていて機内で退屈することがない。

大阪への出張も飛行機で行く飛行機派の私にとっては今後もこうした「安かろう“良かろう”」の新興の航空会社が正常な競争を促し、空の旅がますます快適になることを望む。

2011年9月3日土曜日

唐津


出張ついでに訪れた唐津。福岡からの電車は玄界灘沿いを通るのだが、その景色の美しさにずっと窓外を眺め続けた。海辺を走る路線は少なくないが、トンネルもなく、これほど長い時間にわたって海を眺め続けられるのは珍しいのではないだろうか。

その地名からもかつて大陸との交易で栄えた歴史が感じられる唐津は譜代大名の城下町でもあり、刀町、城内、大名小路といった地名にその名残を残す。九州にはこのように海があって城があって武家屋敷や寺町もある“模範的”な日本の町が多いような気がする。そして関東にはない歴史が感じられる。

当地に住む父の友人が運転する車で市内をめぐると海沿いにあるお城の天守閣が見えて来た。当地の観光パンフレットにも出てくるこの天守閣は再建されたものかと尋ねると、唐津のお城にはもともと天守閣などなく、いわば“でっち上げ”とのこと。全国各地で数多くの城を見て来たが、もともとなかった天守閣をつくり、それを観光資源にしてしまっているところは聞いたことがない。

お城の近くに我が出身大学の付属校があった。拡大志向が顕著で“粗製乱造”に陥らないか心配な同学が建学の父である大隈重信公の出身地である佐賀に付属校を建てたという話は聞いていたが、唐津は佐賀県ではあっても佐賀藩ではない。今は福岡の経済圏に入っているためか、当地の人たちは佐賀への帰属意識は希薄であるように感じられた。

今回は父の友人の計らいで海岸線沿いに建つ老舗ホテルに泊まらせてもらったが、窓から見える玄界灘の美しい海岸線(写真)のすぐ向こう側に今話題の玄海原発があると聞いた。何でも市町村合併で唐津市が拡大する中で原発マネーで潤っていた玄海町だけは加わらなかったため、まわりを唐津市に囲まれる形になっているという。原発を再開したくてしかたなげだった町長の弟は佐賀県の建設業界の重鎮で、原発利権にどっぷり浸かっているという報道は間違っていないそうだ。

虹の松原という地名に違わぬ風光明媚な町。10数時間の滞在だったがそのよさが存分に伝わった。今度いつ訪れる機会があるかわからないが、そのときは柿右衛門薫や呼子の朝市を訪ねてみたい。

2011年8月27日土曜日

信州

会社で購読を始めた旅行業界の専門誌に長野県が夏の涼しさを売りに観光振興を図っているとの記事が載っていた。今夏二度ほど当地を訪れた私にいわせれば長野県はどこも涼しいわけではなく、避暑を目的に行くとあてが外れることもある。

長野といえば夏も涼しいイメージがあるが、これはあくまで高原の話だ。県内の気温分布を見てみると昼間でも比較的涼しいのは軽井沢とか野辺山といった海抜1000メートル級のところで、こういったところは夜も気温が下がるので夏は間違いなく過ごしやすい。一方、山がちな長野県に多い谷や盆地は昼間は熱がこもるので東京に比べてそれほど涼しいわけではなく、空気がいいのがせめてもの救いといった感じだ。涼しいと思って行った安曇野が日中の観光を途中で打ち切るほど暑かったのでちょっと損をした気さえした。

節電を理由に事務所をあけることが多かったこの夏。8月は企業も休みに入るところが多く、今年の感じでは来年も同じようにやっても大きな問題はなさそう。家で仕事をする代わりにどこか涼しいところで過ごす場合にはイメージに頼らず、日中と夜間の気温をきちんと調べてから行き先を決めたい。

2011年8月20日土曜日

女性専用車両

ラッシュも終わりきらない午前9時過ぎ。企業訪問のためにふだんあまり乗ることがない半蔵門線のホームに急いだ。ホームへの階段を下りきると発車間際の電車が停車していたので最後尾の車両に飛び乗った。

乗ってすぐに何かが違うと直感した。そしてまわりを見回すと乗っているのは女性ばかり。以前渋谷駅でラッシュ時に同じ半蔵門線の最後尾の車両に乗り込んでしまったことを思い出した。このときは電車が走り出した後に車掌がご丁寧にも車内アナウンスで注意を促してくれたので余計に居心地が悪くなり、隣の表参道駅に着くまでがいつもになく長く感じられた。今回は車内アナウンスされることもなく、また、前の車両が混んでいるのに女性専用車両はやけにすいていて皆涼しい顔をして座っているのが面白くなかったので、せめてもの抵抗?として二駅ほどそのまま乗り続けてから前の車両に移った。

最近飲み会(男女同数であってもこの歳になると合コンなどと呼ぶのは恥ずかしい)でご一緒した女性は自意識過剰と思われるたくないので女性専用車両には乗らないのだといった。こうした女性が多いからラッシュの混雑時にもかかわらず空いているのだとすれば、そもそも女性専用車両などというのは男が考え出した本当はいらないものなのではないかという気さえしてくる。女性を痴漢被害から守るというなら男性も冤罪被害から守るために専用車両をつくり、男女間の公平を期すとともに各車両の混雑度をバランスさせてはどうかと思う。

以前どこかで女性専用車両というのは戦後間もない頃に中央線で導入されたのが初めてという記事を読んだ。当時は車内で“恋文”を渡すのを防ぐのが目的だったそうで、痴漢防止の目的で女性専用車両をつくる時代が来るなど、誰も想像できなかっただろう。

2011年8月14日日曜日

曲げわっぱ


松本で買った木目も美しい弁当箱。ただ見とれているばかりでは意味がなく、さっそく弁当を作って会社に持って行くようになった。もちろん今さら“弁当男子”を目指しているわけではなく、あくまで健康のため。そう思って小さめのやつを買ったのだ。

弁当を持って行くからといって朝家を出る時間が遅れるのは困る。涼しい早朝のうちに出てゆったりと座って通勤したいからだ。弁当は前の日のうちに作っておくことになるため、仕事帰りにスーパーに寄るのが日課となった。その日に売られている食材を使った献立を考えるのもやってみると結構楽しく、まるで主婦状態。ただし手の込んだものは作れないので最小の手間で作れるものを考える。

ただ食事をする時間も惜しんで朝早く家を出る私は朝と昼の2回外で食事をしていたため、一食分の弁当を作ったからといって間に合うわけではない。朝は抜いて早めの昼食に充てようなどと考えると始業が早いだけにすぐに燃料切れを起こす。かといって“早弁”(高校時代以来の懐かしい響き…)をしてしまうと午後がもたない。朝食にしては重く昼食にしては軽い内容の弁当なので、どちらに充てるかによって必ずしもカロリーセーブにはなっていない。

とはいえ自分の好きなものを詰め込める弁当は何とも魅力的。しかも天然素材の曲げわっぱの弁当箱はプレスチック製やステンレス製のものと違って中に入れたご飯やおかずが水気を帯びることなく、おいしい食感のまま食べられる。今後も少しずつレパートリーを広げながら弁当生活を充実させていきたい。

2011年8月7日日曜日

松本


札幌から戻って早々、電機メーカー時代の友人が単身赴任している松本に向かった。翌週に予定している安曇野での休暇の情報収集を兼ねてのことだったが、当地を舞台に放映されている朝のテレビ小説の影響を受けていることは否定できず、自分も実はミーハーな人間なのだろうかと思った。

大学時代は北アルプス登山の途中で立ち寄った松本。その後社会人になった後も仕事などで何度か訪れているが、いずれも市内観光が目的ではなかったため、国宝のお城さえも見たことがなかった。今回は仕事帰りの友人の案内で城下町の面影を残す石畳の道や古い洋館やお洒落な店が並ぶ通りをぶらぶらと歩き回った。民芸品店ではかねてから欲しかった曲げわっぱ弁当箱を買い、超ローカルな居酒屋では広島の竹鶴(国産ウィスキーの父でニッカウヰスキーの祖、竹鶴政孝氏の生家)の日本酒を初めて飲むことができて感激した。最後はジャズが流れる小洒落た珈琲店でフレンチコーヒーのダブルを飲みながら安曇野の見どころを教えてもらった。

友人は県庁所在地である長野よりも松本の方が文化の香りがして好きだといったが、いわんとしていることはよくわかる。個人的には地理的に北に寄り過ぎている長野よりも松本に県庁を置くべきではないかとさえ思う(なんて部外者がいったら怒られるか)。何度足を運んでも新たな発見がありそうな奥深さを感じさせる町。ぜひまた小旅行で訪れてみたい。

2011年7月31日日曜日

成吉思汗

夏の盛りの札幌出張。商用があってのことだがあえてこの時期を選んだことに何ら不純な動機がないといえばウソになる(まわりくどっ)。近年の札幌は温暖化の影響か夏でも蒸すようになったが、それでも東京に比べれば過ごしやすい。

今回は週末までの滞在となったので(というか自分でそのようにしただけ)、毎晩のようにジンギスカン屋に行った。ホテルで勧められたのが老舗の有名店DとM。Dはオーソドックスな焼いた肉をタレにつける方式、Mは予めタレに漬け込んである肉を焼く方式。肉だけについていえばラムかマトンかを選べるMの方がおいしいと思ったが、難点は肉汁で焼く野菜の味が関東人でもきびしい濃さになってしまうことか。

Dは支店を2店舗出している上、観光客と思しき客が多かった。以前も同じ札幌のラーメン屋や広島のお好み焼き屋で経験したことだが、人気が出て拡大志向に走る店は味が落ちていたりする。地元で観光業に携わっていない人に聞いてみたところ、案の定、当地ではそのような評価を受けていて、地元で行く人は少ないとのこと。とはいえ塩だとかとき卵につけて食べる店もあるくらい味付けや食べ方にバラエティがあり、お客の側もそれぞれに好みがあるので地元で人気の店と問われてもラーメン同様一概にはいえないそうだ。唯一ビアガーデンで出されるジンギスカンはハズレがなく意外にあなどれないという。

ではなぜ地元に住んでいるホテルの人たちが有名店を勧めるのか。へたに自分が好きな店を勧めて客の好みと合わなかったリスクを考えると観光客の定番となっている店を勧めておいた方が無難ということがあるものと察する。「美味しい店はガイドブックなど信じず地元の人に聞け…ただしホテルの従業員は除く」というのが今回の教訓だ。

2011年7月23日土曜日

再転職

日本中が女子サッカーのワールドカップで沸いているさなかに届いた電機メーカー時代の友人からのメール。転職先のメーカーの駐在員として北京に赴任していたのだが、再び転職するために帰国するという。彼が初めての転職をしたのは40歳近くなってからだったと記憶しているが、その転職先の会社も2、3年で辞め、今の会社に入ってからもまだ2、3年しかたっていないはず。転職は癖になるといっていた投資銀行時代の同僚のことばを思い出す。

この友人とは同じ年にソニーに入社したときからの付き合いだが、配属先は私が本社の経営企画、彼は海外営業とまったく別の道を歩むこととなった。その後も付き合いは続いたが、一緒に仕事をした間柄でもなかったので彼の結婚式で挨拶を頼まれたときにはちょっと驚いた。しかしその後会社の別の友人からも結婚式の挨拶を頼まれ、私が彼らにとって悪い話を知らない程度の距離感がある“安全牌”であることに気づいた。

それはさておき、彼はソニー時代、今や新興国としてもてはやされているインドを担当し、その後会社の派遣で北京大学に1年間語学留学した。帰国後に彼が中国人と話しているのを聞いてその流暢さに驚いたが、その後転職した2社でも中国駐在となり、今度の転職先でも中国を担当するというから、メーカーでの経験に加えて語学力が買われたことは間違いないだろう。英語ができる人材なら掃いて捨てるほどいるが、北京語はまだ市場価値が高いようだ。

それにしても40半ばを過ぎてなお転職先があるというのは大したもの。運もあろうがメーカー一筋でありながら都区内に家を買い、中国で株に投資して大きな含み益をもつ彼の人生設計には感心する。北京ではゴルフ三昧だったらしく、今からしきりに誘われているが、羽振りもよくなったようなので何でも一円単位まで割り勘する癖が直っていることを願いたい。

2011年7月16日土曜日

斜陽の国

イギリスから久しぶりの大臣の来日。最近どの国も中国詣でが激しい一方で日本に来る要人はすっかり減ってしまい寂しい限りだ。イギリスもご多分にもれず就任したてのキャメロン首相が一大デリゲーションを率いて中国に行った一方で、大臣級の来日は同国での政権交代後今回が初めてだ。聞けば今回来日した大臣は連立相手の自民党出身の人物で、首相の意に反することも歯に衣着せずいうため疎んじられているとか。大使公邸で行われたレセプションでも日本の企業関係者を前に日本の市場の閉鎖性についてチクリとやった(いっている内容は正しいと思うが)。

我が社が業務委託を受けているアメリカの州政府からの突然のメール。来年度の海外予算が大幅に削減されるため、中国と欧州を残してほかの事務所の予算は凍結にするとのこと。優先順位に異存はないが、日本がゼロというのはあまりに極端。秋口に連邦政府の予算がおりれば日本の予算も復活するかもしれないというが、インドやブラジルといった新興国を差し置いて閉鎖的で成長が見込めない国に予算を割り振るとは思えない。かつて日本には全米50州のうちの半数以上が我々のような業務委託という形で事務所を構えていたが、年々その数は減る一方で、かたや中国にはすでに37を超える州が事務所を構えているという。

海外の政府機関からの委託業務をしていると日本の凋落ぶりを身に染みて感じる。国内産業を守るための非関税障壁がてんこ盛りの国も世界第2位の経済大国であった頃には見向きもされたが、人口が減り、購買力が落ち、景気も低迷する中ではとても関心がわかないのだろう。我が零細企業も“細々”と生き延びるために業務の多角化か業容の転換を迫られそうだ。

2011年7月9日土曜日

飲み友だち

先日クライアントを連れて移動中の電車の中で電機メーカー時代の同僚にばったり出くわした。彼女は私より前に寿退社をしたのだが、聞けば最近同じ部署にいた先輩社員の退職祝いの集まりに行ったという。年賀状も出さない不義理さからすれば当然かも知れないが、思えばメーカー時代の飲み会にはすっかりお呼びがかからなくなった…。

一方、ここのところアメリカのビジネススクール時代のクラスメートと投資銀行時代の同僚の集まりが続いた。ビジネススクール時代の集まりは年に一度、日本人の奥さんをもつ二人のアメリカ人クラスメートが来日する機会をとらえて行われるが、彼らもほかの多くのアメリカ人クラスメート同様、すでに一財産築いて半ばリタイア状態のいい身分だ。一人は日本の某有名大学の社会人向けコースで夏の間だけ教えていて、その名刺を誇らしげに配り歩いている。大学側はこうした名刺がほしい人たちを安く雇う一方で、学生たちからはしっかりと授業料をとることができる社会人コースを貴重な収入源にしているが、その名刺には大学のロゴとは別のものを使わせて学部の先生としっかり区別していたりする。

卒業後の進路がばらばらでその後の接点もないビジネススクール時代のクラスメートとの話題はもっぱら在学中の思い出話かバカ話。一方、投資銀行時代の同僚との集まりは何年かぶりのことで、皆現役で働いていることもあり、近況報告などで大いに盛り上がった。集まった6人のうち誰一人としてその投資銀行に残っていないというのがこの業界の人材の流動性が高さを物語っている。

ともすれば家と職場を往復するだけの毎日になりがちな零細事業者。たまの飲み会はビジネス以外の会話が少ない日頃のストレスを発散できる貴重な場で、精神衛生上も好ましいものと感じる。元同僚に限らず気の合う仲間とは定期的に交流をもち、老後のためにも茶飲み友達をしっかり確保しておきたい。

2011年7月2日土曜日

節電の夏

小社の小オフィスにも「電力使用の15%削減令」のお達しがあり、家主である大手不動産会社から具体的な行動計画の提出を求められた。電灯、パソコン、空調など、そもそも最低限の電力しか消費していない我がオフィスで15%削減というのは容易なことではない。南側が一面のガラス張りで日中はブラインドを開ければ電灯がいらない明るさだが、空調を強くしないといられないくらい暑くなる。逆にブラインドを閉じてしまうと部屋の中が暗くて電灯を使わざるをえない。苦肉の策?として7月と8月に1週間ずつ事務所を閉鎖して在宅勤務にすることにした。

東京では駅もビルもすっかり節電モードで消えている電灯が増えたが何ら支障は感じない。むしろこれまで昼間から無駄に明るくし過ぎていたのではないかと思う。節電中の駅の雰囲気はヨーロッパを思い起こさせる。当地の人たちは自然光を多く使い、電灯で無駄に明るくすることがない。それに近年増えた駅のエスカレーター。お年寄りや体が不自由な方のためのエレベーターなら分かるが、健常者が少しでも楽するように使われるだけのエスカレーターに貴重な電力を使うのは甚だ疑問。そしてエスカレーターばかり使っている人たちはやがて生活習慣病になり、医療費の負担増に寄与することだろう。資源のない日本がなぜあそこまで無駄に電気を使うようになってしまったのか?原発に依存せざるを得ないくらい消費があったのか、それとも供給側が必要以上に消費を煽ったのか…。

村上春樹氏がカラルーニャで述べたことはもっともと思う。公共工事の名のもとに美しい国土を削って道路やらダムやらを造ったかと思えば、雇用を創出する産業がなくていよいよ困っている自治体に札束と引き換えに原発の立地を受け入れさせ、ついには国土の3分の1を放射能で汚してしまった。このような事態に及んでもはや「入るを量りて出づるを制す」が不可避であることがはっきりしているのに、国民の間に不安を煽って原発容認に世論を誘導しようとしているように思えるのは私だけだろうか。東電が保有している大量の株式や不動産を見ていったいあなたは何屋さん?と聞きたくなるが、その金満ぶりは原発利権の根深さをも反映しているのだろう。我々国民は二度騙されないようにしなければならない。

話を我が社に戻すと、事務所を一週間単位で閉鎖することで何か支障があるか同僚と考えてみてもあまり思いつかない。メールはネットのアクセスさえあればどこからでも出すことができるし、電話は転送可能。大企業でないので社内会議もなく、在宅の同僚とのコミュニケーションはスカイプで済む。来客はあるが、営業の人以外はアポイントをとってから来るので日程は調整可能、荷物の受け取りや発送も1週間分まとめてもほとんど問題はない。資料の印刷なども予めわかっている企業訪問のタイミングに合わせてやっておけばいい。そう考えると計画性をもつことでふだんからあまり事務所に来る必要はなくなり、事務所の代わりにどこか涼しいところで仕事をするのが最大の節電方法という気がしてきた。

2011年6月25日土曜日

R. マキロイ

北アイルランドにいずれ世界の4大メジャートーナメントで優勝するであろうゴルフの逸材がいると当地のクライアントから聞かされたのはもう2年以上前のことだっただろうか。日本では石川遼君がメディアの注目を一身に浴び始めていたためタイガー・ウッズ以外の外国の選手が報じられることはほとんどなく、マスターズ優勝が確実視されるほど秀でたゴルファーが本当にいるのだろうかと半信半疑で聞いていたことを思い出す。しかしこのゴルファーこそ先週全米オープン選手権で圧勝したロリー・マキロイで、地元の評は決して客観性を欠いたものではなかった。

北アイルランドは面積が福島県ほど、人口は鹿児島県ほどの小さな地域で日本での認知度はきわめて低い。イギリスの一部であるため日本ではスコットランドやウェールズと同様、イングランドとひと括りにされてしまう。サッカーではもちろんイングランドと区別されるが、いかんせん北アイルランドのチームはすこぶる弱いのでワールドカップに出てくることがなく、日本での知名度は上がらない。人口170万人余りの地域ではいたしかたないことか。ただゴルフについていえば昨年の全米オープンの覇者もグレアム・マクドウェルという当地出身のゴルファーで、この大会で同じ国(地域)の人が2年連続で優勝するのはアメリカ以外では初めてというから大したものだ。

今週北アイルランドから来日したクライアントがマキロイのクラスメートの父親ということもあって、企業を訪問した際にはその話題でもちきりだった。中には現地に視察に行ったら本人に会わせてもらえるかと無茶をいう人もいて、クライアントはマキロイの父親なら会わせることができるかもしれないといってその場をしのいだ。マキロイはベルファスト近郊のホリウッドという町の出だが、農地に囲まれた彼の家の周りには練習用のゴルフコースが造られているそうだ。クライアントの息子の話ではほとんど学校には来ず、ひたすらゴルフの練習をしていたという。

4月に行われたマスターズではリードしながら最終日に大崩れして優勝を逃したため、今回の全米オープンでは北アイルランド中の人がかたずを飲んで見守っていたそうだ。かくいう私も北アイルランドの人たちと付き合ううちに他人ごととは思えなくなっていたので、最終日には朝からテレビの生中継に見入ってしまった。彼は私と身長が同じで体重は私のほうが勝っている?のに、ティーショットの飛距離が340ヤードも出るのが不思議だ。また、ろくに素振りもせずに正確なショットを重ねられるのが信じられない。私など何度も素振りをした挙句、林やら池やらに打ち込んでしまうのだからどうしようもない。

3月にロンドンで会った電機メーカー時代の同僚が帰任を前にゴルフ仲間とスコットランドに行く予定だというので行き先を北アイルランドに変えるように勧めた。行った人の誰もが大絶賛する世界有数のゴルフコースを有する北アイルランドだが、クライアントによると雨や強風が日常茶飯事で、当地でまともにプレーできればほかの国のコースが楽に思えるとのこと。人口が少ない当地が世界トップクラスのゴルファーを生み出すのもこうした環境の影響があるのかもしれない。毎年当地に出張しているのに一度もゴルフをしたことがない私は来年こそはと思っているが、今の実力では到底及びでないかもしれない…。

2011年6月18日土曜日

福岡


突然の福岡出張。同僚だけが参加する予定だった業界団体主催のイベントに県庁やら産業局やら領事館やらの方々が来られることになり、一人では荷が重いといわれ、急きょ私も参加することになった。

あまり頻繁に行かない町の地理はなかなか頭に入らないものだが、福岡に行くのは今年に入ってから二度目で、右も左もわかるようになってきた気がする。特に今回は夜行われるイベントのために一泊することになっていたので、町をぶらぶらと歩き回る時間があり、来月行われる博多祇園山笠のグッズが売られている川端の商店街を散策したり、イベントの翌日には大宰府まで行って好物の梅ヶ枝餅(写真)を食べたりした。

それにしても福岡は何度行ってもいい町だ。東京のように大き過ぎず、人も多過ぎず、それでいて何でもそろっている、というより東京にないものまで置いている。デパートの地下に行けばふつうに辛子蓮根や明太子が試食でき、博多駅近くに見つけた居酒屋では馬刺しが食べられるほか、東京の居酒屋ではあまり見かけないアルゼンチンのワインやアイリッシュウィスキーが飲める。三越の地下にあるフォートナム&メイソンでは東京の店舗にはないスコーンやドーナッツまで置いてあった。

福岡に行くと首都東京が日本でいちばん進んでいるわけではないことを認識させられる。幅が広い道路には自転車専用のレーンが設けられ、地下鉄の駅には東京ではまだ少ない転落防止用の柵が設けられている。また、走行中の地下鉄の車内でも携帯の電波が入るのはソウルと同じで、東京は完全に両都市の後塵を拝している。

せっかく福岡に来てテンションが上がっていたところ、イベントでお会いした建築関係者からまたも中央官庁のがっかりな話を聞かされた。2年前お台場に巨大なガンダム像が建てられてなぜここに?と思ったものだが、もとはヨーロッパから輸入した発電用の風車を建てる予定だったのが、"監督"官庁から姉歯事件で厳しくなった規制を盾に邪魔が入り、せっかく買った風車を泣く泣く中古品として第三国に売るとともに、予定地にガンダムの像を建てることになったのだという。

福岡は東京に行くのと同じ時間で上海まで行かれるそうで、成長著しいアジアの新興市場へのアクセスのよさが大きな潜在力を感じさせる。こうした地方都市が日本にあるがゆえに既得権益を利するだけの中央官庁の理不尽な干渉を受けて成長を阻害されることがないように祈るばかりだ。

2011年6月11日土曜日

姉妹州


契約先の米国ワシントン州から震災被災地の視察のために構造工学技術者の一団がやって来た。10日ほどの日程で宮城県や千葉県の被災地をまわり、東京では大手建設会社の協力で最新の免震技術を使った高層ビルの建設現場を見学させてもらった(写真は駿河台に建設中の大手保険会社の新社屋)。

ワシントン州はカリフォルニアと同じ北米大陸の西側にあるが、大きな地震があったという話は聞いたことがない。しかし視察団のメンバーによると地層などから300年ほど前に大地震が起きたことがわかっているとのことで、このあたりは“千年に一度”のこととして今回の震災の可能性さえ予測できなかった日本の地震研究より実は進んでいるのかもしれない。

被災地での視察を終えて夜に東京に戻った一行が同行していた女性の同僚に歌舞伎町に行きたいと言い出し、私も付き合うことになった。思えば大学時代に飲み会などでよく行っていた歌舞伎町も今や外国からお客さんが来たときくらいしか行かなくなった。なぜ歌舞伎町などに来たかったのかと尋ねると純朴な?エンジニアらしく「(ニューヨークの)タイムズスクエアのようなところと聞いたから」といった。いったい誰がそのようなことを吹き込んだのだろうか…。

今回の視察は一行が大絶賛するほど収穫の多いものとなったが、これもひとえに宮城県庁の協力のおかげだった。同県とワシントン州とは姉妹関係はないが、航空宇宙産業などの交流を目的として以前から県庁の方々の来訪があり、こちらがワシントン州関連のイベントを開催するときにもお招きしてきた。今回はこうした非公式のお付き合いが役に立った形だが、それにしても震災復興の忙しい中、視察への同行に加え、プロ野球観戦や石巻でのボランティア活動のアレンジまでしてくださり、まさに至れり尽くせりだった。

ちなみにワシントン州の姉妹州は兵庫県で、シアトルと神戸も姉妹都市且つ姉妹港の関係だ。これはイメージ的にもぴったりの組み合わせだが、一方で宮城県とデラウェア州との姉妹関係は正直よくわからない。カリフォルニア州の姉妹州も何らカリフォルニアンなものを感じさせない大阪府で、これもよく理解できない(アメリカ村なるところには行ったことがあるが)。こうした姉妹関係は県民自身が知らないことが多いようだが、どのようにして組み合わせが決まったのか知りたいところだ。

2011年6月5日日曜日

大阪

大阪府議会の定数削減。先の統一地方選挙で過半数をとった大阪維新の会の強行採決が話題となっているが、選挙公約で掲げながら国政レベルでまったく実現できていない既成政党に比べてそのスピード感に感心した。

7年ほど前、縁あって英国の経済開発機関の仕事をしていたときに、大阪府議会から議員による視察受け入れの申し入れがあった。大手旅行代理店がアレンジしていたその視察というのは当時のブレア政権下で地方分権が進められていたスコットランドについて学びたいという趣旨だったが、当時の大阪府の財政状況を調べてみると地方分権どころではない全都道府県中断トツのワーストで、なぜそのような台所事情のときに議員がこぞって海外視察などするのだろうかと思った。

さらにその後、サミット(先進国首脳会議)が開かれていたスコットランドの町に当時の府知事がやって来た。次に日本で行われるサミットを大阪に誘致するのが目的だったのだが、個人的にはこうしたイベントが開催されることで地元の経済に持続的な効果がもたらされるとは思えず、また、知事自らがわざわざスコットランドまで足を運ぶことの効果も大いに疑問だったが、案の定、開催地は別の場所(洞爺湖)に決まった。この一件は大阪らしく、わざわざ当地まで足を運んだ知事が風邪でダウンするというオチまでついていた。

当時の状況からすると大阪府の財政が黒字化する日が来るとは想像もできなかったが、それがこうも早く達成されたのだから驚く。これは知事が首相と違って市民から直接選ばれて大きな権限をもっているからだけではく、議員や職員の抵抗にあっても強引に物事を進めたからこそ成しえたのだろう。その後ろ盾になるのはやはり民意であり、それが前回の府議会議員選挙の結果に表れた。逆に民心が離れてしまった首相や首長には反対派や抵抗勢力を押し返す力もなく、結果が出せない。

和を重んじる日本人の決定的な弱みは意思決定の遅さだろう。利害関係者やら専門家やらが集まって長い時間をかけてあれやこれやと議論をしてもなかなか結論が出ず、時間だけが無駄に過ぎていくなどということはほかの国ではあまり聞かない。世の中全員がハッピーな結論などないものと割り切って、どこかでスパッと結論を下さなければ物事は前に進まない。現首相にそれができていれば現在のような事態になることもなかったのではないかと思う。

2011年5月29日日曜日

ゆるやかな衰退

先日ゴルフをご一緒した大手商社に勤める知人が日本の将来をこう評した。「もはや国の体をなしておらず、隣国に攻め込まれたらすぐに占領される。平和な時代で本当によかった。」とも述べた。いったい誰がこのような国にしたのだろうか?

今週は先週のイギリスに続き東南アジアに行った。テレビでは日本のGDPの落ち込みのニュースのすぐ後にシンガポールのGDPが年率にして20%近い高成長を遂げているというニュースが流れた。今回はメーカー時代以来10数年ぶりに同国にも立ち寄ったが、当地のジェトロの人の話だとシンガポールは一人当りGDPですでに日本を抜いており、購買力(PPP)では大きく水をあけているという。今の状況だと日本が再逆転することはないだろう。

シンガポールの発展を支えてきたのは指導力のある政治家と優秀な役人たちであることは間違いない。徹底した透明性の確保と経済の開放、そして効率的で小さな政府によってもたらされる低い税率。企業の登記一つとっても日本では司法書士などの専門家でないとなかなか書くことができない複雑な書類を紙で用意し、法務局に足を運び、一日中そのためだけに座っている窓口のおばさんから印紙を買い、それを貼って提出しなければならないが、シンガポールはインターネットでものの30分で手続きが完了する。

既得権益を守ることで政治家は票、役人は天下り先というご褒美を得る構造が出来上がり、最先端の医療機器はおろか石鹸一つも自由に商業輸入できない仕組みを作り上げた厚生労働省は一方でご褒美が出ない外食産業は生食用の肉の扱いを実質野放しにして死亡事故まで引き起こした。こうした利権構造をあぶり出すべきマスコミも一大スポンサーである電力業界には及び腰で、いつもは正義漢ぶった報道が目立つ民放の夜の報道番組も東電本社に押し寄せるデモ隊のニュースなどほとんど取り上げることがない。

ASEANで一人勝ち状態のシンガポールとは対照的に、今回訪れたベトナムやインドネシアなどほかのASEANの国々は日本でのポジティブな報道とは裏腹に閉鎖的な経済と腐敗のまん延が進出する外国企業を待ち受けている。(日本語で袖の下というが、着物を着ない英語圏ではテーブルの下(under the table)というのが面白い。)EUとの首脳会談ですんなりと自由貿易交渉に入らせてもらえなかったことからもわかるように、日本はあからさまな不正は少ないものの、新規参入を阻む様々な障壁が巧みに作られていて、シンガポールとその他ASEAN諸国のどちらに近いかといわれれば必ずしも前者とはいいきれない。

日本の経済発展を支えてきたのは日本人の勤勉さということがよくいわれるが、購買力をもった1億人を超える市場をあの手この手で保護してきたこともその大きな要因と思う。保護された市場を与えられてある意味それにあぐらをかいてきた企業が突然国際競争にさらされて本当に勝ち抜けるのだろうか。自由貿易は必然の方向性だが関税が下がったところで意思決定が恐ろしく遅い日本の大企業が国際競争に勝ち抜いていかれるか甚だ疑問だ。現に新興国の企業に真っ向から勝負を挑まれている日本企業の多くは海外の市場では敗色が濃く、日本の牙城もいつやられるかわかったものではない。

興味深いのはシンガポールではこうした目覚ましい経済発展にもかかわらず、最近行われた総選挙では万年与党の人民行動党が大きく票を減らした。国民の間に人口の増加に伴う地下鉄などの混雑や閣僚の高給に不満が出ていると聞いたが、日本に比べれば何ともぜいたくな悩みに思える。完全な開放経済で既得権益を作らせず、100%の透明性を確保する。こうしたことを思い切ってやれる指導者が出てこない限り、日本のゆるやかな衰退を食い止めることはできないだろう。

2011年5月22日日曜日

沈まぬ太陽


1年ぶりのエジンバラ。一生に一度行かれたらいいというくらいに思っていたこの町に毎年来るようになるとは思いもよらなかった。観光客でにぎわうエジンバラ城からホリルードハウス宮殿へと続くロイヤルマイルも今や歩き慣れた道だ。エリザベス女王が宮殿に滞在しているときには旗が揚げられてそのことを知らせるが、私の滞在中はちょうどお隣のアイルランドに歴史的な訪問をされていた。

よくアメリカに行くよりも太陽と同じ方向に移動するヨーロッパに行く方が時差調整をしやすいといわれ、私の経験でもその通りと感じるが、緯度が高い当地ではこの時期は夜遅くまで外が明るいのでカーテンを閉めないと寝つけない。しかしカーテンを閉めると朝日が差し込まないので寝過ごす恐れがあり、それを防ぐためにモーニングコールを頼むと当地では忘れられることがある。出張を重ねるうちにここに来るときだけは目覚ましを持って来ることを覚えた。

夏場の日が長いということは当然、冬場は逆転して夜が長い。当地の人たちはよく酒を飲むが、これは冬の長い夜を過ごす娯楽がほかになかったからではないかと思う。彼らは日本に来ても毎晩当たり前のように飲みに出かけ、閉店を知らせる蛍の光のメロディが流れると皆大喜びで歌い始める(ちなみにスコットランド民謡である原曲は別れの曲ではないので彼らには「閉店時間なのでさっさと帰れ」というメッセージが伝わらないのだ)。

初めてスコットランドを訪れたときにグラスゴーでバーを5、6軒はしごしたのはいい思い出だが、果てしなく飲み続けるスコットランド人たちと最後まで付き合うと体がもたないし、翌日の仕事にも差し支える。これもまたスコットランドに来るようになって学んだことだ。

(写真は今回泊まったホテルの窓から撮った“夜の”町の風景)

2011年5月15日日曜日

Zero

珍しく同僚と残業することになり、コンビニに行くついでにコーラを買って来るように頼んだ。ところが頼んでもいないカロリーゼロのコーラが来てがっかり、さらに自分がそこまで見た目が太ってしまったことに気づいて二度がっかりした。

世はダイエット食品流行り。ゼロなんちゃらだとか特定保健用食品とかいったものがずいぶん幅をきかせているが、本来脂肪分が入っているべき食品に入っていなかったり、甘いのに糖分が入っていなかったりというのはいかにも不自然で逆に体に悪いように思える。現に特定保健用食品の中には後になって発がん性があることがわかって許可が取り消されるなんてことも起きている。しかし私の健康を気遣ってくれているであろう同僚にそんなことはいえない。

その後何週間かして急な腰痛に襲われ、たまらずネットで見つけた事務所近くの整体師のところにいった。施術台に横たわる私を見て大阪弁の整体師が体重は何キロかと聞いてきた。「80・・・」と語尾が小声になったのはあまりいいたくなかったからだけではなく、いやなことから目をそむけたがる性格から大台を超えてから1年以上測っていなかったからだ。整体師にやんわりと「ベストの体重は?」と聞かれて言わんとしていることが十二分に伝わった。

それにしてもなぜこうまで太ってしまったのか?年齢とともに代謝が落ちているのに食べる量を減らせていないからだろうが、出されたものを残すのははばかられる・・・。などと考えているうちにあることに気づいた。最近はどこで食事をしてもごはんが大盛りで出てくるのだ。明らかに育ち盛りの年齢ではない私に大盛りにするのはそれだけ食べそうに見えるからだろう。肥満体形を売りに食べ歩き番組に出ている芸能人を思い出してにわかに危機感がわいてきた。

このことに気づいてからというもの、外食をするときは注文する段階でご飯を少なめにと頼むようになった。(それでも出てくる量がふつうだったりする・・・。)こうした努力?を積み重ねながら、コーラを頼んだらふつうのコーラを買ってきてもらえるくらいの体形に戻したい・・・。

2011年5月7日土曜日

前任の非

「前任の非は後任の非。」サラリーマン時代の上司がよく口にしていた言葉だ。何たる理にかなわない発言、と思っていたがこれが世の現実のようだ。

以前勤めていた電機メーカーのネットワークがハッキングにあい、個人情報が漏れてしまった。一般の民間企業がこうした不祥事を起こすと経営陣が謝罪したり訴訟を受けたりするだけでなく(特に訴訟大国アメリカではこれが厄介)、顧客離れや買い控えが起きかねず、また不祥事によって生じる経済的損失は会社が被ることになる。しかし地域独占の公益法人の場合、顧客側に買い控えたりほかの業者を利用したりする選択肢はなく、従ってどんな不祥事を起こしても発生した経済的損失は料金への上乗せという形で何ら責任のない顧客が負担させられることになる。

今回の原発事故では自分で扱う実力のないものを扱い、国全体に計り知れない損害を与えた東電も、当初事態を正確に把握せずに楽観的な発言を繰り返し、その後も放射線量等の情報を積極的に開示して来なかった政府も責任重大であり、我々に損失補償の負担がかかる以上はなおさら生半可な報酬カットでは納得がいかない。しかし甘い前提のもとに原発を建てたのは過去の経営陣であり、それを追認し、さらには“原発利権”を生み出したのは前政権なので、より大きな責任を問われるべきは現在矢面に立たされている人たちよりも退職金をガッツリもらってすでに引退してしまっている過去の経営幹部たちといえよう。しかし彼らに責任追及が及ぶ気配はない。

大手企業のサラリーマンは恵まれた稼業とやめてから思うところもなきにしもあらずだが、役職に就く場合には前任の犯した過ちの結果責任もろとも引き受ける覚悟が必要なようで、責任ある立場になるとそれなりのリスクも伴うようだ。前述の上司はまた、部下の一人がチョンボしてチーム全体のアウトプットに影響が出たときも「これがうちの実力」と達観したようなことをいっていた。確かに個々のメンバーの実力がチームの実力に反映されるわけで、それ以上のアウトプットを期待すべきではない。サラリーマンをやめた今でも同じようなことが起きると当時の上司の言葉を思い出し、自らの戒めとしていることに気づく。

人生経験の長い人の言葉は世の中の現実を正確にとらえていることが多い。こうした現実を踏まえれば受け入れるものは受け入れていらぬ波風を立てず、一方で受け入れられないことに対してはあくまでそのスタンスを貫くことができる。しかし自分自身もある程度人生経験を積まないとそうした言葉のありがたみがわからないというのもまた現実のようだ。

2011年5月1日日曜日

ドルトムント


震災後、海外の友人・知人たちからずいぶん心配のメールをもらったが、3年ほど前にインドのタージマハール観光で知り合ったドイツ人からのメールは嬉しい驚きだった。デリーからの飛行機が悪天候で着陸できずに引き返し、空港でさんざん待たされた揚句、ようやく夜中過ぎに車で目的地に運ばれたのは忘れ難い思い出で、このとき同じ車に乗っていたのが彼だった。その翌年、大の相撲ファンである彼が息子と二人で日本に来ることになったが、あいにく私が出張中で会えず、それ以来連絡が途絶えていた。

偶然とは不思議なもので、彼からメールをもらったとき、何年かぶりにドイツに行く予定を立てていて、しかも彼が住むドルトムントに近いデュッセルドルフで週末を過ごすことになりそうだった。そのことを伝えると車で案内するのでどこか行きたいところはあるか聞かれた。ミーハーにも香川真司が活躍するドルトムントの町を見てみたいといったところ、「私はドルトムントで生まれ育った人間なので断言するが、この町に見所は一つもない!」といわれた。何と明快で潔いコメント。大学時代、名古屋出身のクラスメートが同じことをいっていたような…。

というわけでドルトムントはあきらめてベルギーとの国境地帯の町をめぐることになったが、その代わりに?彼が撮った香川の写真を2枚ほど送ってくれ、タージマハールに行ったときにも彼がものすごい勢いで写真を撮っていたことを思い出した。ドイツで会ったときにこのときの写真を保存したディスクをくれたのだが、デリー出発前に撮った空港の写真や振替輸送で手配された車の写真、さらには運転手がお客を待たせて腹ごしらえをしに行った沿道の食堂の写真まで几帳面に撮っていたことに驚いた(さすがドイツ人…)。

ドイツで彼と再会したときには香川はけがで戦線を離脱してしまっていたが、彼はドルトムントが香川なしでも勝てるチームになったといっていた。そして昨日(4月30日)、とうとうドイツ1部リーグで9季ぶりの優勝を決めたことをニュースで知った。何となく我がことのように嬉しくなって彼にお祝いのメッセージを送ったところ、すぐに「これも香川のおかげだ」と返事が返って来た。香川が引き続き当地でがんばってくれれば、いくら見どころがない町でも次回は行く口実になるかもしれない。

2011年4月23日土曜日

日本郵便

公益企業でもう一ネタ。2011年度も1000億円の赤字を見込んでいるという日本郵便。同社の苦戦は官から民へのシフトがいかに難しいかを物語っているように思う。

私の会社では海外向けの郵便物は日本郵便のEMSを利用することが多い。他社に比べて料金が安いというのがその理由で、それでいて荷物が紛失したり届くまでに余計に時間がかかったりすることもなく、他社同様にネットで配送状況をトラッキングすることもできる。また、各国の郵便局網を使っているので中東などに物を送るときには特に格安でスムーズ。しかしこうした低料金もまた同社の赤字の要因なのだろう

配送上のトラブルがない一方で驚くようなことも起こる。たとえば集荷。ほかの業者だとよほどのことがないと時間のコミットをしないが、日本郵便の場合、電話で集荷を依頼するとオペレーターがマニュアル通りに2時間以内に集荷に来るという。しかし電話を切って程なくして管轄の支店から2時間以内は無理との訂正が入る。しかも毎回だ。サービスの速さを強調したいのだろうが、守れないのだから逆効果だ。しかも一回一回支店に訂正させるのは時間の無駄。

それから社名や住所、電話番号の伝票への印刷。依頼してもなかなか届かないのでリマインドの電話を入れたところ、すぐに5年あっても使いきれないくらいの膨大な量が届けられた。ほかの業者だと有料の厚紙でできた書類入れや紙袋も頼めばいくらでもくれる。どこにいくつ出したかという記録をとっている様子もないので、うちのような誠実な?顧客でなければ必要以上にもらってほかの目的に使うかもしれない。

投資銀行から政府系の仕事に移った経験からすると民から官へのシフトというのは比較的容易だが、その逆は難しいようだ。何せ規制に守られてコストを意識しなくてもよい世界から急に競争にさらされ、売上と利益をあげるために努力をしなければならない世界に放り込まれるわけだ。日本郵便は赤字の削減のためにさらに人件費を抑制するそうだが、集荷が今以上に遅れたり、頼んだことを忘れたりということがないよう願いたい。

2011年4月16日土曜日

公益企業

都心に事務所を移してちょっと浮かれていたが、それは非常時に帰宅困難者となりうることだと今回の震災で思い知らされた。揺れが収まってしばらくすると同じビルで働く私より一回り上の同業者がやって来て、荻窪の自宅まで歩いて帰るという。距離にして20キロくらいだろうか。私は人ごみの中を歩くのが嫌いで、途中で何かあってもいやなので事務所に泊まる覚悟でいたが、驚くことにその日のうちに地下鉄の運転が再開され、家路につくことができた。

鉄道会社というのは走っている地域ですみ分けができているので基本的に地域独占だが、そうした中でも顧客サービスの面で大きな違いがあるのが興味深い。私が利用する路線の中では東京メトロと京王電鉄はきわめて優秀で、今回の震災でもいち早く復旧した。早々に当日の運転をすべて取りやめると発表したJRとはエラい違い。JRは路線が長いからという人もいるが、中央線の東京・新宿間と山手線の池袋・渋谷間、及び上野・品川間だけでも復旧させていれば助かった人がおおぜいいただろう。

同じ運輸系の公益企業でいえば成田空港はまったくもっていただけない。羽田の再国際化で部分的な競争が始まったとはいえ、国際線の数ではおおよそ比較にならず、国内線を増やすことで地方から海外に行く人たちの取り込みもできるはず。ところが空港の施設使用料を引き上げて利用客の負担を増やす一方で意味のないテレビCMにお金をかけている。大多数の人々は必要があって成田を利用するわけであってCMを見て利用しようなどと思う人はいないだろう。

鉄道会社や空港以上に競争がない電力業界。福島第一原発での事故の報にふれ、真っ先に思い出したのが10年近く前に発覚した東京電力のトラブル隠し事件。原子炉のひび割れなどの検査結果を隠していたわけだが、福島第一原発もその一つだった。想定以上の津波が来たとはいえ、同規模の津波に見舞われた東北電力の女川原発は同様のトラブルが起きていないことから、今回の事故がこうした企業体質に起因する部分があったのではないかと疑う。少なくとも事故後の状況についてあまりに把握できていないことには驚く。

競争のない世界ではとかく独占状況にあぐらをかいてしまい、自らを律し、よいサービスを提供しようという動機づけが薄まるものかもしれないが、公益企業の場合、一般企業のように淘汰されることがないから厄介だ。特に我々がライフラインの一つを依存している企業が顧客や周辺住民といったステークホルダーの視点を欠き、危険なものを扱っている事業者としての自覚と規律が働いていないとすれば実に不幸なことと思う。

2011年4月10日日曜日

情報統制


出張の最後に立ち寄った北京。紫禁城も万里の長城も現地のパートナーが連夜連れて行ってくれた本格的な中国料理もどれもよかったが、ホテルでブログをアップしようとして、何度やってもつながらないことに気づいた。

中国政府に問題視されるようなことを書いただろうか、いや私のブログなど問題視されるほど影響力はないはず、などとあれこれと考えていたところ、グーグルが中国を撤退していたことを思い出した。色々と試してみると検索のページやGmailはふつうに使えるのだが、同社が提供しているブログのサービスやYou Tubeはつながらなかった。知人からFacebookのメッセージが届いていたのだがこれも開けない。やはり中東の民主化デモに使われたツールだから当局が警戒しているのだろうか。

こうして前回のブログのアップが日本に帰国するまで数日遅れてしまったわけだが、同国に行ってはじめて報道でしか知ることのなかった情報統制を自ら体験することとなった。以前のブログに中東の民主化の波が中国にも波及するだろうかと書いたが、中国のパートナーいわく、それはまずないとのこと。そもそも長年情報統制下で暮らしてきた中国国民の多くは民主主義の何たるかを知らないし、むしろヒトラーのような人物が登場したら暮らし向きがよくない大多数の国民の不満のはけ口が他国へ向けられる可能性さえあるとのこと。

彼によると日本での震災後の中国国内のブログはその半数がざまあ見ろ的な内容だという。親日的な彼でさえ、「他国に攻め入ったり支配するのはいいけど一般の人たちを殺しだしたらすべてが正当性を失う。」といった。そういう彼のおじさんも日本軍の犠牲になったそうだ。北京に来ると中国のスケールの大きさを感じる。そしてとにかく人が多い。こんな国にけんかをふっかけられたらたまったものではない。

一党独裁を布いている中国の現政権が第二の天安門事件を起こさないためには国民感情に無頓着でいられるとは思えず、従って親日的な姿勢は取りづらいだろうし日本にとって都合のよい情報を積極的に流すとは考えづらい。こうした現実を踏まえてどうやってこの国と付き合っていけばいいのか。そして日本の為政者にこうした難しいかじ取りができるだろうか・・・。

2011年4月2日土曜日

自粛ムード

出張に出てから2週間、日本ではさまざまなイベントが中止やキャンセルになり、自粛ムードが高まっている様子。しかし何もかも自粛することが本当にいいのだろうかと思う。

東日本で働いている者としては震災後しばらく積極的に営業活動をする気にはならなかった。相手先の企業やそこで働く人たちが震災の影響を受けたり身内が被災しているとも限らないので、何事もなかったかのように面談を申し入れたり商談をもちかけることがはばかられた。海外の取引先からの心配の声に、出張などしている場合なのだろうかと考えたほどだ。

しかし私が事業活動を控えることは被災者にとって何のプラスにもならない。むしろ商売を続けて収益をあげ、国庫に少しでも貢献することの方が大事と考え直した。特に我が零細企業の場合、海外のお客様からの収入が多いので、ビジネスを続けてこそ日本経済にわずかばかりの貢献ができる。

BBCの報道の影響か、イギリスでは会う人会う人に日本が沈没したかのような勢いで大丈夫だったかと聞かれた。東日本以外は大きな影響を受けていないことをわかっていないようだ。また、「日本のお茶はお土産に持って行くと喜ばれたけど、もうだめだね。」などと国全体が放射能に汚染されているかのような言葉も聞かれた。

被災者のことを思い、イベント等を中止するのは間違ったことではないと思うが、国策として振興しようとしていた農産物の輸出や観光が大打撃を受けかねない中、行きすぎた自粛はかえってマイナスな気がする。特に国際会議やスポーツの国際大会などは日本が安全であることをアピールする絶好の機会であり、予定通りにやるべきではないかと思う。

2011年3月26日土曜日

危機管理2

「こんな時期に海外出張なんていいですね。」などといわれるが、うらやましがられることなど何もない。長いフライトで東京のピーク時よりもずっと高い放射能を浴び続けるだけでなく、最初の目的地が偏西風で放射性物質が運ばれているアメリカの西海岸なので、10時間近いフライトの間、通常より高いレベルの放射能に晒され続けることになる。

出張の機内でイギリスのファイナンシャルタイムズ紙を読んで同国から特に多くの心配のメッセージが寄せられたのがわかる気がした。震災から1週間以上経ってもなお紙面の多くを割いてさまざまなアングルから報じている。そんな記事の一つに買いだめ騒動について取り上げたものがあった。食べ物がないわけではないのにパニック買いに走っている人たちのことだ。

震災の直後にスカイプで連絡をくれたイギリスのクライアントに泊まり覚悟だと伝えると食べ物は大丈夫かと聞かれ、すぐに階下の店に走った。すると棚は写真のような状態で、すぐに食べられそうなものはすでになくなっていた。事務所の周辺を歩くとふだんあまり客が入っていない店まで満席状態で、駅近くのマクドナルドには店の外まで長蛇の列ができていた。(翌日休日出社すると食材の在庫が尽きたらしく、年中無休のはずが臨時休業していた。)

都心は勤め人が当座の食料確保に走ったからこうしたことになったのだろうと思っていたら住宅地にある地元の店も同じ状況で、来る日も来る日も牛乳が買えず閉口した。店の人に入荷がないのかと聞けばそんなことはなく、ただ来るとすぐになくなってしまうとのことだった。命がけで原子炉の冷却作業にあたっている人たちがいる一方で戦後の食糧難の時代でもないのに買いだめに走る利己的な人々もいるわけで、つくづく人間の“幅”の広さを感じる。

紙面の中で同志社大学大学院の経済学者が寄稿した記事を読んで我が意を得た気がした。こうした買いだめに走る人たちや被災地の手前で救援物資を運ぶトラックを降りてしまうドライバーがいるのは正確な情報が迅速に提供されていないからというのだ。つまり物流が滞っているため一時的に搬入が遅れることがあっても食料は十分に足りているとか、いわき市の放射能の水準は内陸の福島市や郡山市よりもずっと低いといった情報を前もってきちんと伝えなかったことが人々の不安を増幅させ、合理的でない行動を招いたというものだった。

同日の日経新聞には日本には“緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム”という仕組みがあって原発で放射性物質が放出された時、その広がり方を瞬時に予測できるそうだ。この予測システムがあれば周辺のどこがいつ危険な状態になるのかシナリオが描けるという。ところが”SPEEDI”という同システムの略称とは裏腹に、こうした情報はこの記事が出るまでまったく公表さなかった。こうした対応がさらなる不安を生み、理性的でない行動を招く一方で必要な人たちが必要な備えをできないという悪循環に陥るのではないかと案じる。

2011年3月19日土曜日

危機管理

原発の事故が明るみになった当初、事態を正確に把握している様子もなく楽観的な発言を繰り返す官房長官の姿勢に危ういものを感じた。そして案じていた通り事態は日に日に悪化していった。

現在のような事態に至ってもなおCTスキャンの被曝量などといった話を持ち出して国民を安心させようとする姿勢に疑問を感じる。事態が目に見えて悪化していく状況の中で国民に知らせるべきことは、すでに起きてしまったことよりも最悪の事態に至った場合の備えだろう。そんなことをするとパニックが起きるという向きもあるが、それよりも備える時間もないままに最悪の事態を迎えるのとどちらがいいだろうか。そもそも「“ただちに”健康に影響を与えるものではない」という言い方はいかにも欺瞞ぽく、引き合いに出す医療機器がたとえ本当に安全なものであったとしても汚染地域で日常生活を送るのと比べると晒されている時間があまりにも違いすぎる。

木曜日に予定されていた某国大使館でのミーティングがキャンセルになった。大使館員からの自動返信メールには緊急事態に対応するため日常業務を停止していると書かれていたが、実際にはさっさと退避しているのかもしれない。こうした政府の発表と外国政府の対応との温度差も気になる。日本人だろうと外国人だろうと同じ人間なのだから放射性物質から受ける影響も同じはず。なのになぜ外国の政府の方が退避勧告の対象にする地域が広かったり、自国民に出国を促したりするところまであるのか。日本の政府のいうことが楽観的すぎるのか外国の政府が過剰反応をしているのか。後者であってほしいが前者の可能性も否めない。

政府のいうことを信じていない人たちが多いのか、私のまわりでは週の半ばあたりから疎開を口にする人や実際に実家のある西日本に避難する人が出て来た。東京にしか生活の基盤をもたない立場としては政府の楽観的とも思える発表が正しく、事態が収束することを願うしかない。

2011年3月13日日曜日

震災

いつかはやって来ると思っていたものがついにやって来た。事務所で電話中に激しい揺れがやってき、すぐに収まるどころかさらに激しくなったため、電話を切って机の下に避難した。

激しい揺れの割には棚に飾ってあったガラス製のかぼちゃが落ちて壊れた以外に物損はなかった。ほんの一週間ほど前に棚に陳列してあるガラス細工を落ちにくい場所に配置し直し、事務所と廊下を隔てるガラスの壁にぶつからないようにブラインドを下ろしたばかりだった。

揺れが収まったところで仕事を再開したが、ほどなくしてアメリカのクライアントから電話がかかってきた。ニュースで大変なことになっていると聞いたので心配になってかけたという。その後朝を迎えたイギリスのクライアントから続けざまに心配のメールが届き、事務所にテレビがないのでユーストリームで津波の光景を見てようやくことの重大性に気づいた。

かつて旅した風光明媚な三陸の町が跡形もなく押し流されていく映像はあまりにショッキングだ。釜石や女川では昔の津波の話を聞いたが、今回はかつてない規模だったとようで、電機メーカー時代に出張でたびたび訪れた多賀城の事業所にまで被害が及んだ。ここは海岸のすぐそばといった感じのところではないのだが、平坦な土地が続いているので波をせき止めるものがなかったのだろう。

同じ自然災害の映像でも自分がかつていた場所で起き、知っている人たちが被災したとなると現実味がまったく違う。自分にもいつどこで降りかかってくるかわからないことを改めて思い知らされた。

2011年3月4日金曜日

FOODEX


仕事柄展示会に行くことがよくあるが、年に一回この時期に幕張メッセで開かれる食品の展示会FOODEXほどテンションがあがるものはない。何せ海外からの輸入食材や全国各地の物産が食べ放題、飲み放題なのだ。もちろん飲み食い目当てでやって来る不届き?な輩を排除するために、ほかの展示会と違って招待状がないとお金を払っても入れない。

最近日本で行われる展示会は規模の縮小が目立つ。我が国の斜陽ぶりを物語っているようで寂しい限りだが、そうした中にあってこのFOODEXは今でも幕張メッセの会場を埋めるだけの出展者が集まるのだから大したものだ。不要不急の商品と違い、やはり食というのはいつの時代にも必要とされ、景気の影響を受けづらいというのが強い。

今年もアジア、欧州、北米、中南米、オセアニアからアフリカまでまさに世界中の企業が出展し、色々なものを試食・試飲させてもらったが、日本の各県の出展コーナーにはアジア各国からのバイヤーが目立ち、「輸出歓迎」的な看板を出している出展者が目立った。展示会は日本で行われていても企業の目はやはり成長著しいアジアの新興国に行ってしまっているようだ。

2011年2月26日土曜日

ソーシャルメディア

中東で吹き荒れる民主化の波。独裁者が電波と活字メディアをコントロールしていれば済む時代は完全に過去のものになってしまったようだ。

それにしてもソーシャルメディアの影響力には驚く。私も友人に誘われてフェイスブックをやっているが、エジプトの知人のスレッドには革命の最中のやり取りがどんどんとアップされていき、現地の様子と人々の思いが臨場感をもって伝わってきた。私がカイロに住むエジプト人だったらタハリール広場に行こうという気にさせられたかもしれない。

ムバラクにしてもカダフィーにしてもその蓄財ぶりもさることながら、ひとたび実権を握ると何十年でもやり続けるというのがすごい。サラリーマン時代、いつまで経っても得た地位にとどまって後進に道を譲ろうとしない幹部が少なからずいたが、その比ではない。カダフィーなどは権力の座に就いた頃は国家の英雄だったのかもしれないが、それは今デモに参加している若者たちが物心がつく前のことで、居場所を失った元英雄の悲哀を感じさせる。

今中東で起きている民主化の動きが中国に波及するかというのが興味深いところだ。政府が情報をコントロールしているが、国民がその事実に気づいていないわけはないし、共産主義とは名ばかりでコネのあるなしで将来が決まってしまうような社会(胡錦濤や温家宝の息子は様々な企業の株や鉱山まで保有しているという)では不満が出ないわけはないだろう。加えて最近では日本軍と戦って中国を独立に導いたのが共産党軍ではなく国民党軍であったということに多くの国民が気づき始めているという。

最近電車に乗っていると新聞や雑誌を広げて読んでいる人が減り、スマートフォンなどの携帯端末に見入っている人を多く見かける。テレビでは大多数の国民にとってどうでもいいようなことがトップニュースに来たり、ことさらセンセーショナルに伝えられたりする傾向を感じていたが、先日ゴルフをご一緒した大手広告代理店の人によると、どこも数字を稼ぐのに必死なのだそうだ。インターネットの台頭に押されて苦戦しているというが、情報の発信者の“信頼度”が強みであるはずのオールドメディアがこのようなことでは自滅行為のようにも思える。

一国の政権をも転覆させてしまうインターネット、そしてソーシャルメディアの普及。情報の正確さや質を担保するメカニズムがないためリスクも伴うだろうが、情報操作によって国を統治してきた独裁政権にとって大きな脅威であることは間違いないだろう。

2011年2月20日日曜日

スーパータワー


先月発表されたNECとレノボの国内パソコン事業における合弁のニュースを驚きをもって聞いた。かつて日本のパソコン市場といえばNECの独壇場で、当時はこんな日が来るとは誰も想像だにしなかったのではないだろうか。

6年ほど前、レノボがIBMのパソコン事業を買収した直後に仕事でお会いしたNECのパソコン事業を担当する部長から、国内の市場がほかのパソコンメーカーの“草刈り場”になっているという話を聞いた。IBMの顧客がそのままレノボに移ることなどなく、他のメーカーに乗り換えるというのがその理由だった。当時はそんな発言が出るほど中国系のメーカーのステータスは低かったわけだが、あれから6年で立場が逆転してしまったようだ。

思えばNECさんには投資銀行時代にずいぶんとお世話になった。私が在籍していた2年足らずの間に戦略的保有株の売却やM&Aのアドバイザリー業務、子会社の上場などの仕事を頂き、当時の社長のお供で海外での投資家まわりもやらせて頂いた。ほかの電機メーカーに比べて財務状況は決してよくなかったにもかかわらず金払いがよく、こちらが心配になったくらいだったが、後に財務状況が盤石だった別の電機メーカーの担当者から「うちは渋ちんだからお金が貯まるんだよ。」といわれて納得した。思えばNECさんは人のいい人が多かった。

昨年の暮れに久しぶりに三田にある同社の本社に行く機会があった。10年前に地上43階の通称“スーパータワー”を初めて訪れたときにはその巨大な吹き抜けに度肝を抜かれるとともにメーカーは本社ビルにお金をかけ始めると経営が傾くという話を思い出した。すでに築10年を経ていた当時、経営状況は決して芳しくなく、我々が商売を頂けたのも資金繰りのニーズがあったからといえる。当時の財務室長さんに「立派な本社ビルですね。」というと「証券化して売却したからもううちのものではないんですよ。」といわれたことを思い出す。

同社の売上を調べてみると2008年の4.6兆円から2010年は3.6兆円まで落ち込んでいた。半導体子会社を非連結化(会計上企業グループから外す)したことが要因のようだが、海外事業の撤退を含むパソコン事業の縮小も影響しているものと思われる。半導体事業もパソコン事業も自発的にやめたというよりは競争力を失って撤退を余儀なくされた感じだが、お世話になった方々の顔を思い出すと、同社が新たな活路を見出して復活を遂げることを願わずにはいられない。

2011年2月13日日曜日

美肌

久しぶりに会った同い年の女友達。長信銀最大手で総合職女性初の社費留学生となり、将来を嘱望されていたが、その後外資系投資銀行を経て今は新興の金融企業の幹部となっている。

3年ほど前に会ったときには彼女の会社のファンドでゴルフ場の買収をしていて物件を探すのに忙しいといっていたが、今は破たんした大手消費者金融から買い取った債権の回収と最近買収した美容クリニックの経営指導に忙しいとのこと。彼女のツイッターには何たら注射をうっただのとその美容クリニックを自ら利用していることが書かれており、共通の知人からは彼女の顔が変わったと聞いたので、どのようなことになっているのだろうかと思った。

実際に会った彼女は顔が変わったというよりは肌が輝くように白く、しわが一つもなかった。何たら注射のおかげだろうか。私の同世代といえばどんな美形だった子も顔に疲れが出始めているが、金で肌の若さが買えるのだからすごい時代になったものだ。

ゴルフを始めてから顔のシミが目立つようになった私は思わずそれを取ることができるのか聞いてしまった。答えはイエスでひとつ2万円とのことだった。足裏マッサージ何回分だろうなどと口走ったら、以前は10万円単位のお金がかかり、価格競争でそこまで落ちたのだといわれた。シミ取りにそんな大金をはたくなど、女性の美に対する執念には恐れ入る。

シミ取りはシミになった細胞に光を当てて死滅させ、再生を促すので若返りにいいといわれたが、一つ当たり2万円だと今の私の状態でいったいいくらかかるのだろうか。金で若い肌が買えるのは経済力のある人のみができる贅沢で、そのような意味で彼女は“勝ち組”なのかも知れない。

2011年2月5日土曜日

エジプト騒乱

3月に久しぶりのエジプト行きを計画していた矢先の騒乱。同国が実質的には独裁制で選挙の不正や汚職が横行していることは認識していたが、近隣のチュニジアの政変でいっきょに火がつくほど人々の不満が鬱積していたとは…。

旧東ドイツを崩壊させたのは西側から入って来る衛星放送だったといわれているが、カイロの家庭ではなぜか欧米や中東の衛星放送がただで見られ、独裁政権が情報を操作するのが難しい。加えてインターネットや携帯端末を使った通信の普及で情報の広がりもそのスピードも飛躍的に高まったと見える。

テレビでは連日、何度となく足を運んだカイロ中心部のタハリール広場の光景が映し出され、心配になってエジプトの知人の携帯に電話をかけたところ背後が妙に騒がしい。聞けば何と還暦を過ぎた氏がデモに参加していたのだ。ムバラク嫌いであることは知っていたが、抗議活動は若い者に任せればいいのに…。

日本の報道では政権の腐敗が国民の不満の原因とされているが、実際にエジプトの人々と接した感じからすると、そのこともさることながら、同じアラブ人であるパレスチナ人を迫害するイスラエルとそれに加担するアメリカ、さらにそのアメリカから支援を得ている現政権への怒りが根底にあるように感じる。シナイ半島の港にはヨルダン行きのフェリーに乗る貨物トラックが長い行列をなしている。陸路でイスラエルを通るのを避けるためにそこまでやるところにエジプトの人々の本音がうかがえる。

かつては自らのいいなりになりさえすればもっとも腐敗し、国民に嫌われている政権でさえも支援していたアメリカも、キューバやベトナムでドツボにはまった教訓からか、今回は早々にムバラク切り捨てを決断したのが興味深い。エジプトが本当の意味で民主化され、政権が民意を反映するものになると札束でほっぺたをひっぱたくことも容易ではなくなり、これまでのアメリカのやり方は通用しづらくなるが、政権移譲が不可避となれば、来るべき新政権との関係を考えて行動するのはきわめて妥当に思われる。

3月のエジプト訪問は実現しそうもないが、同国の民主化が平和裏に達成され、アラブ世界全体にプラスの効果をもたらすことを願いたい。

2011年1月29日土曜日

インフルエンザ

クライアントのアテンドで福岡の後、松山と広島をまわり、その日のうちに東京に戻ったのだが、出張中喉が痛くて咳が止まらず、さらに頭はふらふらで体の節々まで痛み出し、いよいよインフルエンザにかかってしまったものと覚悟した。同僚にはすぐに病院に行くように勧められたが、過去の経験からそれには従わず、何年か前に同じ症状になったときに見事に解決してくれた荻窪の鍼灸師のところに行くことにした。

9年前に全身の筋肉痛で社会復帰の見通しが立たない状態から救ってくれた恩人だが、最近はこういう深刻な事態にならないと行かなくなっているのだから我ながら現金だ。前回インフルエンザにかかったときには絶対に安静にはせず、善福寺川沿いを走るようにと鬼のようなことをいわれ、ふらふらしながら川沿いの道を歩いた記憶がある。しかし施術で筋肉がほぐれて呼吸が楽になった上、背中に使い捨てカイロをぺたぺたと貼られていたせいで、新鮮な空気を吸いながら、体全体から心地よい汗が流れた。そして翌朝には予定していた京都旅行に出かけられるまでに回復した。

今回も案の定、施術の後に肌着の背中に使い捨てカイロをぺたぺたと貼られ、荻窪駅から結構距離がある自宅まで走るのと歩くのを繰り返すようにいわれた。先生のいうことを100%やらなくても効果があることを知る私は、いつものように楽をして、走る部分を省いてただ歩いたのだが、やはり筋肉がほぐれているのと背中がぽかぽかと温かいことから、寒空の下にかかわらず、心地よく家路につくことができた。そして翌日には再び使い捨てカイロを背中に貼りつつ、ふつうに出勤することができた。

もし病院に行っていたら注射を打たれ、薬を出され、家で安静にしているようにいわれただろう。鍼の先生はそんなことをしたら余計に悪化するという。病院に行くことを勧めた同僚に病院に行けばよくなるのかと聞くと、少なくとも行かないよりはいいといったが、おそらく行かずに済ませたことはないのだろう。果たして我々日本人が西洋医学信奉(盲信?)から脱する日は来るのだろうか。

2011年1月23日日曜日

竹野屋


イギリスのクライアントを連れて福岡と松江に行くことになり、週末をまたぐ上に今回は奥さん連れでもあるので観光を兼ねて出雲大社近くの竹野屋旅館に泊まることにした。客人に日本の伝統的な旅館を体験させるのが大義名分だが、一人では敷居が高い老舗旅館に泊まる絶好のチャンスだ。

この旅館はあの竹内まりやの実家だ。彼女がデビューしたのは私が中学生のときだったが、その後入学した高校でAFSという国際教育交流団体の交換留学生としてアメリカに留学することになり、英語が流暢な彼女もまた同団体の派遣生であったことを知った。この団体の派遣生には広島市の秋葉市長やNHKの藤澤秀敏解説委員長などもいる。

デビュー当時の彼女はどちらかといえばアメリカの西海岸的な的なイメージだったが、同じ西海岸でも洋楽とは対極の山陰の出雲大社の近くで育ち、留学先もアメリカ中西部のイリノイ州だったというのが面白い。ちなみに彼女と私は名字が同じだ(った)が、ホームステイしていたホストファミリーの名字も同じで、留学先の町の名前もロックフォールズとロックリンでよく似ていた。

それはさておきこの竹野屋旅館、古いだけあってほかにはない雰囲気を味わうことができる。畳敷きの広いロビー(写真)の鴨居は私の身長(178センチ)でも頭をぶつけそうなくらい低く、部屋も風呂場も改修されたであろう当時(昭和40年代?)の香りがプンプンする。幼い頃に家族旅行で行った伊豆稲取の温泉旅館がこんな雰囲気だっただろうか。たださすがに料理の味はすばらしかった。

老舗旅館の多くが味気ないコンクリート造りの建物に変えている中で創業当時(130年前)の建物をそのまま残しているのは貴重な存在と思うが、内装や設備のくたびれ方が目立ち過ぎているところは若い人には敬遠されるのではないかと思う。木のぬくもりが感じられる日本家屋が好きな私でさえも、外国のお客さん連れでなければアクセスのよい市内の小ぎれいなホテルに泊まる気がする。

出雲市駅近くに新しいホテルが建ち、出雲大社への車の便がよくなってから門前町もすっかりさびれてしまったと聞くが、こうした中、この旅館が竹内まりやの知名度に頼らずともやっていかれるのか、ちょっと気になる滞在となった。

2011年1月16日日曜日

六本木ランチ

投資銀行時代の副会長との久しぶりの会食。古い名刺を整理していると、今は他の外資系投資銀行に移られている氏のものが出てきて、在籍中にお世話になったのでご挨拶のメールを出すことにしたが、今はまったく別世界にいることもあって書くことが思いつかず、お時間のあるときに食事でもと書いた。私のために時間を割いて頂いても何のメリットもないので、お時間はないだろうとタカをくくって書いたところもあったのだが、出張先の海外からすぐに返事が来て秘書を通じてアポをとるようにいわれた。

さて、これはどうしたものか…。ランチとはいえ私だけではとても間がもたない。苦し紛れ?に投資銀行時代の同僚に声をかけたところ、幸いにして一人付き合ってもらえることになった。どこにお招きしたらいいのかもわからず氏の秘書さんに相談したところ、ANAホテル2階の中華でいいのではないかとのことだった。元副会長は中華がお好きなのか、同じ投資銀行に在籍していたときに接待や会社訪問帰りによくご一緒したことを思い出した。

しかし実際にお会いするとこちらが何を話すか考える必要もなく、氏の方から次々に面白い話をされた。中でも印象に残ったのが4年前に話題になった米系ファンドによるブルドッグソースの“買収未遂”だ。このときブルドッグはファンド側に、ほかの株主に割り当てた新株予約権の代わりに23億円もの現金を払ったのだが、氏曰く同社の株のほとんどは持ち合いなのでそもそもあのようなことをしなくても乗っ取られる心配はなかったとのこと。氏がブルドッグに助言を求められたときにはそのように進言したのだそうだが、その後日系最大手の証券会社の入れ知恵で要らぬ買収防衛策(いわゆるポイズンピル)をやってしまったのだそうだ。儲かったのはファンドと手数料収入を稼いだその証券会社でその他の株主は大損をさせられたわけだが、そのような事態に至らしめたのが外資ではなく日系の証券会社だったというのは何とも皮肉なことだ。

私が在籍していたときに同じ投資銀行で働いていたプロフェッショナル職の人たちはもうほとんどいなくなってしまったが、当時の投資銀行部門の共同部門長がクビになり、私がいっしょに大手総合電機メーカーのM&A案件をやったことのある40代前半の若手がとってかわった。サバイバル術に定評があった前共同部門長がやめさせられたのが意外だったが、氏の話では表向きは大切な顧客の不興を買ったのが理由になっているが、実際はセクハラとのことだった。米系と違ってこうしたことには寛容で、私が在籍していたときも一般企業では考えられないさまざまなことが社内で起きていたが、どれだけのことをすればクビになるのだろうかと思った。

元副会長は東大の法学部を卒業後、大手都市銀行でキャリアを始めてその後外資畑を歩いて来られたのだが、顧客の信頼が厚いのだろう、ずいぶんと成功し、田園調布に豪邸を建てられた。一度遊びに行ったことがあるが、何とカラオケルームまでついていた。しかし黒塗りのリムジンに乗ることがステイタスのように思っている人たちが多い世界にあってふつうに電車通勤をされていた。

最近熱海に別荘を買われたと聞き、還暦を過ぎても第一線で活躍しつづける氏の姿に大いに刺激を受けたが、会食の最後に「それで何をしてあげればいいの?」と聞かれ、かつて自分も接待一つにも見返りを期待する業界にいたことを思い起こした。相手は業界の大物。何か頼みごとを考えておけばよかったか…。

2011年1月9日日曜日

初詣


人気のない早朝の出雲大社。初詣に有名どこの寺社に行きたがる人たちは“寄らば大樹”的でいかがなものかと思っていたが、三が日明けに松江への出張が入ったとたん一日早く島根入りして出雲大社にお参りしようなどと思いつく自分も似たようなものかもしれない。私の場合は家と事務所の氏神様に参った上でのことなのだが、それでもさらに出雲大社に参りたがるなど、どれだけ欲張りな人間なのだろう…。

それにしても何年か前に観光で一度だけ訪れた島根に商用で行くことになろうなどとは思いもよらなかった。月末にもクライアントを連れて再び行く予定なのでひと月に二度行くことになる。今回の出張は当地の地銀さんとの面談が目的だったが、昨年から仕事を手伝ってくれている人の紹介で当地の医療機器の販売会社の社長とも面識ができ、松江でお会いすることになった。さらに島根に発つ直前に事務所に遊びに来た電機メーカー時代の同僚が松江に行ってきたばかりとかで地元の美味しい店を教えてくれた。何たる幸運!

こうした偶然も大阪とかだと驚きもしないが、人口も行く人も少ない山陰の島根である…。これほどまでに偶然が重なると、島根が私を呼んでいると思いたいところだが、実際に交通機関をまひ状態にした年末の大雪も私が発つ頃には峠を越し、出雲空港行きのフライトも問題なく運行された。一方、通常であれば松江へのアクセスが同じくらいいい米子空港の方は雪が深くて再開が一日遅れたというから出雲大社にお参りしようという発想が吉と出たようだ。聞けば宍道湖をはさんで松江の反対側にある出雲はもともと松江よりも雪が少なく、一方米子側は松江以上によく降るのだそうだ。

縁起を担がない家で育った私は子どもの頃に初詣なるものに行った記憶がない。しかし投資銀行時代に千駄木から荻窪に引っ越してからさまざまなことが身にふりかかり、たまらず地元の神社の神主さんに相談に行ったのをきっかけにきちんとお参りするようになった。あらためて聞いてみてまわりの人たちの多くが当たり前のように毎年初詣に行っていることを知り、さらに資産家の友人には商売をしているのであれば店(または会社)がある場所の氏神にも参った方がいいといわれ、事務所の近くの神社にもお参りするようになった(別に資産家を目指しているわけではない)。

三か所にお参りした今年は果たしてどういう年になるだろうか。

2011年1月1日土曜日

ハワイアン航空


2泊3日のハワイ旅行。何も混雑する年末の時期にわざわざ行くこともないのだが、たまっていたマイルを消化しがてら羽田の新しい国際線ターミナルを使ってみようと思いついた。当初はもう少し長く滞在しようとも思ったが、年末までに片づけなければならない仕事があったのと、ホノルルだけだとたいてい時間をもてあましてしまうことから現地2泊にとどめた。

羽田の国際線ターミナルを二言でいうなら“コンパクト”で“効率的”。真新しい出発ロビーはテレビで見るよりこじんまりとしているように感じられ、成田のように安全を見て早めに行く必要がないためか、24時間空港で飛行機が出発する時間帯がばらけているためか、旅客が時間をつぶすための施設が少なく、それでいて私が利用した夜の時間帯はそれほど混雑していなかった。そして何よりチェックインカウンターから出国審査場、さらにゲートまで歩いてすぐで、行列することもなくすんなりとたどり着くことができた。

飲食店が並ぶフロアもこじんまりとしているが、和洋食から中華まで色々と食べられ、空港内の限られた立地からか、ここぞとばかり高いことをいう店がある一方で、驚くほど良心的な値付けの店も混在しているのが面白い。多くの利用者にとっては成田に比べて移動時間も待ち時間も短いだろうから小腹が空いた程度の客にあまりアグレッシブな値付けをしてもうまくいかない気もするが、何年か後にこうした店がどのように変わっているのか見てみたい気がした。

今回利用したのはハワイアン航空。1992年にアメリカ留学中の夏休みをコナで過ごしたときにはハワイの島間航空会社はこのハワイアン航空とアロハ航空の二社体制だったが、いつしか後者が姿を消し、新興のLLCを除けばハワイアン航空の独占状態になってしまった。ホノルル空港にある島間フライトの専用ターミナルもハワイアン航空一色に変わり、時代の流れを感じた。

興味深いのは当時経営がいいといわれていたアロハ空港がなくなり、フライトの遅れや預入荷物の紛失などのトラブルが多いといわれていたハワイアン航空の方が生き残ったことだ。果たしてその後経営が変わって問題が解決されたのか、それとも経営がいい会社が必ずしも生き残るわけではないという実例なのか。いずれにしてもハワイアン航空は米本土行きのルートを着実に増やしている上に、限られた羽田の国際線のスロットまで手にしたのだから大したものだ。

アメリカの航空会社だとろくなサービスは期待できないが、今回ハワイアンに乗ってみて本土の航空会社とは明らかに一線を画す存在と思った。B767は座席の配置に余裕が感じられ、さらに愛想のよい客室乗務員のサービスも効率的で出される食事も悪くない。どちらにしてもまずい料理を選ばされる“究極の選択”よりは一つしかないメニューでも味のよいものを適量出してくれる方がいい。ハワイに住んでいたときに植えつけられた同航空会社のイメージが払しょくされた。

帰りの便の搭乗を待つホノルル空港の待合室ではハワイアン航空の地上係員がたどたどしい日本語で無邪気に乗客を呼び捨てにしたりして笑いを誘っていたが、機内で日本人客室乗務員が行うアナウンスは日本の航空会社並みの的確且つ流暢さで、若干冗長で無駄に長い挨拶が入ったりするあたりがJALからの転職組であることを伺わせた。一方でローカルの客室乗務員が醸し出すハワイアンな雰囲気は懐かしく心地よかった。

今回かなわなかったが、ハワイから羽田への便に乗るときにお勧めしたいのが向かって右側の窓側の席だ。到着時刻が夜遅いため、成田空港がある房総半島を通過した後、千葉から東京にかけての東京湾の夜景が一望できる。湾全体を見渡せるのは東側から入って来るハワイや北米からの便だけで、当然のことながら夜景が楽しめるのは夜に到着する便だけだ。