2009年10月12日月曜日

特別講義

仕事でお付き合いのある大学から『ビジネス英語』の特別講義の依頼を受けた。しかもテーマは私自身が到底得意とは思えない交渉術。いかにもこうしたことを教えそうなアメリカの大学院に留学していたからだろうか。

断るのが苦手な私は「私に務まるかどうか・・・」などど消極的な発言をしながら話が立ち消えになることを期待したが、こうしたやり方はこれまでの人生の中で成功した試しがない。私の消極的な発言もただの謙遜と受け取られたのか、今回も失敗に終わり、先月になって担当の先生から講義の候補日をいくつか提示された。もうこうなると後戻りはできない。

確かに留学先のアメリカの大学院で交渉の講義を受けたが、どちらかといえば条件交渉でどこを落としどころにすれば双方にとってメリットのある結論に至るかを定量的に分析するといったもので、交渉自体のスキルを磨くような内容ではなかった。民間企業に勤めていた時代を振り返っても、私の実際の経験といえばメーカー時代に行った赤字の子会社の合弁や売却の交渉と、投資銀行時代にやった顧客への営業活動くらいだ。最近は与えられた予算の中でサービスを提供するパブリックセクター絡みの仕事が多いため、交渉をすることもほとんどなくなっている。

とはいえ引き受けた以上はしかたがない。限られた交渉の経験をできるだけストレッチして、学生が社会人になっときに役立つと思える話をするしかない。準備の日数もあまりない中、過去の記憶をたどりながら考えた結果、交渉の成否を決める重要なポイントとして事前の準備、相手との関係作り、効果的なメッセージの伝え方、交渉の締めくくりについて話すことにした。

交渉の事前準備というのは単に交渉で相手に伝えるべきことや目指す結論について決めておくということにとどまらず、相手(の会社)の置かれた状況を調べてより効果的なメッセージを考えておくこと、そして自分に不利な状況があればそれをなくしておくことを意味する。人は自分(の会社)にとってメリットのあることにしか興味を示さないのが常なので、こちらが何かを売り込もうとしているときには一方的に熱意を伝えても無駄で、それが相手にとってどのようなメリットをもたらすかを納得させなければならない。この製品を買えば業務効率が飛躍的に向上するとか、このサービスを使えば社内の固定費を大幅に浮かせることができる、といったことだ。

また、自分にとって不利な状況がある場合は交渉に臨む前に改めておく必要がある。電機メーカー時代に毎年大きな赤字を出していたフランスの子会社の売却交渉を任されたが、最初に買収を申し出たイギリスの会社からのオファー金額は何と1フランだった(ユーロが導入される前の話)。赤字の原因はその子会社に営業力がなかったことで、営業力のあるイギリスの会社が買収すれば十分に利益が出る見通しがあったが、他に買い手がいないだどうと足元を見られていたのだ。このような状況のままで交渉に臨んでもこちらにとっていい条件を引き出せないことは目に見えていたので、この会社との実交渉に入る前にヨーロッパの同業者に声をかけてドイツの会社を新たな売却先候補として見つけてきた。そのことを知ったイギリスの会社はとたんに買収価格を引き上げてきた。

次に相手との関係作りだが、一回売り切りの商売でない限り交渉相手と初めて会ったときには今後の長い付き合いを見据えて好ましい印象を与えておくに越したことはない。身だしなみはいうまでもないが、笑顔で握手をするとか、相手の目を見て話すといったことは基本だろう。自分がそうするのと同じように相手もこちらが信用に足る人物か見極めようとしていることにも留意したいが、こればかりは自分と違う人物を演じてもいずれボロが出るので自然体でいくしかない。そしてすぐには本題に入らず、少し相手とおしゃべりをするのが望ましい。交渉相手が外国から来ている場合には日本は初めてか聞くのもいいし、天気の話でも景気の話でも時事ネタでもいい。これは交渉を行う雰囲気作りに役立つし、いきなり本題に入ってガツガツとした印象を与えないようにするためにも有効だ。

実際の交渉でのメッセージの伝え方だが、私の経験からいうとできるだけ少ない単語数で簡潔にポイントを伝えるのが効果的だ。我々日本人が外国語である英語で交渉する場合はなおさらだ。日本語で商談をするときには長々と周辺情報を述べた後で結論を伝えることが多々あるが、そうした周辺情報は結論の合理性を納得してもらうためのものだったりして、どうしても伝えなければならない内容ではない。英語でそれをやってしまうと肝心の結論がぼやけてしまいかねず、英語が母国語でない我々であればなおさらだ。私も何度も経験しているが、10を聞いて10が頭に残っている人というのはまずいない。よくて半分である。その頭に残っている半分の中に肝心のポイントが入っていなければ10話したこともすべて無駄になってしまう。

もう一つ交渉で重要なのは相手もだらだらと周辺情報を伝えて来ることがあるので、その中で何が自分にとって重要な情報なのかをしっかりと選り分けて、結論と関係ない情報は切り捨てて行くことだ。こうすることで頭の中が整理でき、目指す結論に持って行くことができる。また、相手がいいたいことが10あるのだったらさえぎらずに全部いわせることだ。そうしないと相手に“言い残した感”が残ってしまい、なかなかお互いが納得のいく結論に至れない可能性がある。内容が何であれ、相手がいいたいことはすべていわせた上で関係のない情報は自分の中で切り捨てていき、自分に受け入れられないないことには一言NO(できればI'm afraid not.)で返せばよい。

最後に交渉で出た結論は必ず確認しておく必要がある。何が合意され、お互いが次のステップとして何をするのかを確認するのだ。このステップを怠ると認識のズレが生まれ、交渉自体が無駄になってしまう可能性もある。

ここまで考えてふと思った。私が大学生のときにこのような実ビジネスで役に立つ話が聞けていたならどれほど興味深く、また社会人になった後に役に立ったことか。私に特別講義の依頼をした大学では度々ゲストを招いてこうしたレクチャーをやっているそうで、これはとても好ましいことに思える。積極的に引き受けた話ではないが、こうした取り組みの一助となる機会を与えられたことを前向きにとらえ、学生たちが聞けてよかったと思える話ができるように努めたい。