2010年11月28日日曜日

健忘症

アメリカの大学院時代のクラスメートからの突然のメール。仕事で日本に来るので会わないかという。今年アメリカに住むクラスメートが訪ねてくるのは4人目で、大学院を卒業して10数年が経ってもこうして連絡してきてくれるのは嬉しい限りだ。

今回連絡して来たのは大学院1年目のときに隣の席に座っていた女性で、宿泊先の新宿のホテルで待ち合わせて食事に向かう途中、日本は初めてかと聞くと、10年以上前に一度来てそのとき私とも会ったといわれて驚いた。何せ彼女と日本で会った記憶などまったくない…。ほかの人の間違いではないかと聞いたが紛れもなく私で、shrine(おそらく明治神宮)にも連れて行ってもらったとまでいわれた。

最近同僚にものを尋ねると、前にもいったように…といわれることがある。その口ぶりから前に何度もいわれたことのように思われるが私の方はまったく記憶がないから恐ろしい。電機メーカー時代、飛ぶ鳥を落とす勢いで出世街道を突っ走っていた上司に「人間、40歳を過ぎると目は見えなくなるし、体のあちこちにガタがくる」といわれた通りのことになっている昨今だが、記憶まで飛ぶようになるとは…。

こんなことでこの先どれだけ仕事を続けられるか不安になってくるが、そうした不安さえもまたすぐに忘れてしまう気もする。

2010年11月21日日曜日

グルメ交流会


事務所の移転に伴って商工会議所の所属先が千代田支部に変わった。相変わらず中小企業向けの経営相談だのセミナーなどの案内が多い中、表題の楽しげなイベントの案内が来たので速攻で申し込んだ。

会場は神田須田町にある天保元年(1830年)創業のあんこう料理屋。当時の杉並といえば窪地に荻が生えていたり、井草が自生していたような時代なので、当地の商工会議所でこうしたイベントがなかったのも無理からぬことか。

それにしても予約をとるのも難しい江戸の老舗料理屋を貸し切りにするなど、さすがは地元の商工会。東京都指定の歴史的建造物という古い木造の建物に入り待ち受けていた下足番の人に靴を預けると、鴨居に頭をぶつけそうな2階の座敷に通された。あんこうのフルコースは実に美味で、裏メニューの燻製(写真)までふるまわれ、締めはあんこう鍋の出し汁でつくったおじやだった。

祖父の代から三代続けて東京生まれの私は下町育ちの友人に何といわれようと江戸っ子を自称しているが、江戸と呼ぶには少々無理がある23区の西端で育ったため、このような機会は特に嬉しかった。しかし店の何代目かの若旦那の話では最近の温暖化で茨城辺りで獲れるあんこうが減っているそうで、こうした老舗で江戸の食文化を堪能できるのも今のうちかも知れない…。

2010年11月14日日曜日

稲門会

所属しているゴルフクラブの稲門会(W大学のOB会)。今年最後のコンペと納会に参加した。

我が母校の卒業生はもともと結束力がなく(よくいえば群れない)、ゴルフクラブに稲門会ができたのもライバルのK大学の三田会があるからといういかにも受身的な理由から。毎回参加率の低さに驚くが、今回コンペに参加したのはこれまででもっとも少ない9人なので会の先行きが危ぶまれる。

かくいう私も母校のOB会にそれほど興味があったわけではなく、他界した父の会員権を継承するために入会希望を出したところ、クラブの規定で経歴が掲示板に貼りだされ、それを見た稲門会の重鎮が若手(といっても50代)の幹事に声をかけるように命じたそうだ。会員の平均年齢が70歳近いゴルフクラブで私のような若輩者がそのようなありがたい?申し出を断るわけにはいかない…。

私の次に若いメンバーが50代という年齢差がありながら、というよりあるからこそ実際に参加してみるとゴルフ以外にも学ぶことが多い。大手企業の役員や上場企業の社長など、私とは大きく異なるキャリアを歩んで来られた方々が多いが、それでも人生の大先輩達にその年齢に達したときの自分を重ね合わせて今後の人生をどう生きるべきかなどといったことを考えたりする。

今回は納会ということで会長を務める地元の大手地銀の元頭取の計らいで役員接待用の施設で一足早い忘年会が行われ、メンバー一人一人が近況について語った。会で3番目に若いハイテク企業の社長は還暦を迎えて赤いものをもらうと歳をとった気がするが、自分は今がいちばん楽しく、来年はもっと楽しくなるように思えるという。一代で築いた会社は順風満帆、週末は海釣りにゴルフ、自宅近くに建てた本社ビルには屋内のゴルフ練習場をつくりプロの指導を受けているというから人生楽しくないわけはないか。

結束力に欠けるW大の出身者も集まると決まって校歌の斉唱はするから面白い。しかし某K大と違ってめったに集まることがないため歌い慣れたはずの歌詞がどうもあやしい。今回も一番だけ歌うといいながら誰も歌詞を完全に思い出せず、歌っている間に三番までの歌詞がごっちゃになった。

この会が私が先輩格になるまで続き、元気でゴルフをやっていられたらそれはそれで幸せなことと思う。

稲門会

所属しているゴルフクラブの稲門会(W大学のOB会)。今年最後のコンペと納会に参加した。

我が母校の卒業生はもともと結束力がなく(よくいえば群れない)、ゴルフクラブに稲門会ができたのもライバルのK大学の三田会があるからという消極的な理由から。毎回参加率の低さに驚くが、今回コンペに参加したのはこれまででもっとも少ない9人なので会の先行きが危ぶまれる。

かくいう私も母校のOB会にそれほど興味があったわけではなく、他界した父の会員権を継承するために入会希望を出したところ、クラブの規定で経歴が掲示板に貼りだされ、それを見た稲門会の重鎮が若手(といっても50代)の幹事に声をかけるように命じたそうだ。会員の平均年齢が70歳近いゴルフクラブで私のような若輩者がそのようなありがたい?申し出を断るわけにはいかない…。

私の次に若いメンバーが50代という年齢差がありながら、というよりあるからこそ実際に参加してみるとゴルフ以外にも学ぶことが多い。大手企業の役員や上場企業の社長など、私とは大きく異なるキャリアを歩んで来られた方々が多いが、それでも人生の大先輩達にその年齢に達したときの自分を重ね合わせて今後の人生をどう生きるべきかなどといったことを考えたりする。

今回は納会ということで会長を務める地元の大手地銀の元頭取の計らいで役員接待用の施設で一足早い忘年会が行われ、メンバー一人一人が近況について語った。会で3番目に若いハイテク企業の社長は還暦を迎えて赤いものをもらうと歳をとった気がするが、自分は今がいちばん楽しく、来年はもっと楽しくなるように思えるという。一代で築いた会社は順風満帆、週末は海釣りにゴルフ、自宅近くに建てた本社ビルには屋内のゴルフ練習場をつくりプロの指導を受けているというから人生楽しくないわけはないか。

結束力に欠けるW大の出身者も集まると決まって校歌の都の西北を歌うのが面白い。しかし某K大と違ってめったに集まることがないため歌い慣れたはずの歌詞がどうもあやしい。今回も一番だけ歌うといいながら誰も歌詞を完全に思い出せず、三番までの歌詞がごっちゃになってしまったのがおかしい。社会的な地位はともかくとして、私がこの会で先輩格になるまで会が続き、元気でゴルフをやっていられたらそれはそれで幸せなことだと思う。

2010年11月7日日曜日

ベルリン


10数年ぶりに会ったアメリカのビジネススクール時代の日本人同級生。卒業後は投資銀行などに勤めたがその後結婚して専業主婦をやっている。夏に共通の友人がアメリカから遊びに来たことから再び連絡をとるようになった。

彼女は鹿島建設に勤めていた父上の仕事の関係で子ども時代をベルリンで過ごした。もちろん東西ドイツ、そして東西ベルリンが分断されていた時代のことだ。当時の西ベルリンには彼女の家族のほか商社の駐在員や音楽家など数えるほどの日本人しかおらず、彼女を含む日本人の子どもたちは現地校でドイツ語の授業を受けていたという。

彼女の話を聞くたびに思い出すのが大学時代に短期留学でドイツに行ったときのことだ。まだ東西分断が続いていた当時、旧西ドイツのマインツという町で語学学校に通い、週末などにドイツ各地を旅行したのだが、夜行列車で国境を越えてベルリンに行ったときのことは忘れ難い思い出となった。

西ベルリンは地理的には東ドイツの中にある、西ドイツのいわば“飛び領土”だったため、本土とは途中下車が許されない直行列車で結ばれていた。列車が東ドイツ領内に入ると、車内の明かりがかすかに映し出す沿線の小さな民家が西側に比べた生活の質素さを想像させた。

壁に囲まれ、町の東側とは道路も地下鉄も寸断されていた当時の西ベルリンは独特の雰囲気をもつ町だったが、やはりもっとも印象深かったのは日帰りで行った当時の東ベルリンだった。デパートに陳列されていた数少ない衣料品の質は低く、道端で売っていたヴルストもカフェで食べたタルトも美味しくない…。しかし何よりもそこに暮らしている人たちが幸せそうには見えなかった。

東側に行くには西ドイツのマルク紙幣をおもちゃのような東ドイツの紙幣に1対1で換金させられた。東ベルリンの物価だと一日でなかなか使いきれない金額だったが、西側並みにきれいで新しいホテルのバーに入るとつまみ一皿で手持ちの東ドイツマルクが全部なくなったばかりでなく、所持していた西ドイツマルクにまで食い込んだ。私が日本人とわかるとバーテンダーがそのホテルは鹿島が建てたものだと教えてくれた。そして後年、くだんの同級生の父上がまさにその仕事をされていたことを知った。

その後壁は崩壊し、大学卒業後に就職した電機メーカーがポツダム広場に大金をかけて欧州本社ビルを建てたことから再びこの地を訪れる機会が訪れた。壁は跡形もなく取り払われ、東ベルリン側からは近づくこともできなかったブランデンブルグ門も自由に往来できるようになっていた。日本のニュースで東ベルリンで記念写真をとった巨大なレーニン像が取り払われる様子を見たが、それがどこにあったのかわからないくらい町の風景が変わっていた。

今ではベルリンはおろかドイツに行く用事もまったくなくなり、6年余り勉強したドイツ語もすっかり忘れてしまったが、大学院時代の知人と再会したことで旧東ドイツの観光も兼ねて再び行ってみたい気持ちがわいてきた。

ベルリン

10数年ぶりに会ったアメリカのビジネススクール時代の日本人同級生。卒業後は投資銀行などに勤めたがその後結婚して専業主婦をやっている。夏に共通の友人がアメリカから遊びに来たことから再び連絡をとるようになった。

彼女は鹿島建設に勤めていた父上の仕事の関係で子ども時代をベルリンで過ごした。もちろん東西ドイツ、そして東西ベルリンが分断されていた時代のことだ。当時の西ベルリンには彼女の家族のほか商社や音楽家など数えるほどの日本人しかおらず、彼女を含む日本人の子どもたちは現地校でドイツ語の授業を受けていたという。

彼女の話を聞くたびに思い出すのが大学時代に短期留学でドイツに行ったときのことだ。まだ東西分断が続いていた当時、旧西ドイツのマインツという町で語学学校に通い、週末などにドイツ各地を旅行したのだが、夜行列車で国境を越えてベルリンに行ったときのことは忘れ難い思い出となった。

西ベルリンは地理的には東ドイツの中にある、西ドイツのいわば“飛び領土”だったため、本土とは途中下車が許されない直行列車で結ばれていた。列車が東ドイツ領内に入ると、車内の明かりがかすかに映し出す沿線の小さな民家が西側に比べた生活の質素さを想像させた。

壁に囲まれ、町の東側とは道路も地下鉄も寸断されていた当時の西ベルリンは独特の雰囲気をもつ町だったが、やはりもっとも印象深かったのは日帰りで行った当時の東ベルリンだった。デパートに陳列されていた数少ない衣料品の質は低く、道端で売っていたヴルストもカフェで食べたタルトも美味しくない…。しかし何よりもそこに暮らしている人たちが幸せそうには見えなかった。

東側に行くには西ドイツのマルク紙幣をおもちゃのような東ドイツの紙幣に1対1で換金させられた。東ベルリンの物価だと一日でなかなか使いきれない金額だったが、西側並みにきれいで新しいホテルのバーに入るとつまみ一皿で手持ちの東ドイツマルクが全部なくなったばかりでなく、所持していた西ドイツマルクにまで食い込んだ。私が日本人とわかるとバーテンダーがそのホテルは鹿島が建てたものだと教えてくれた。そして後年、くだんの同級生の父上がまさにその仕事をされていたことを知った。

その後壁は崩壊し、大学卒業後に就職した電機メーカーがポツダム広場に採算を度外視した豪華な欧州本社ビルを建てたことから再びこの地を訪れる機会が訪れた。壁は跡形もなく取り払われ、東ベルリン側からは近づくこともできなかったブランデンブルグ門も自由に往来できるようになっていた。日本のニュースで東ベルリンで記念写真をとった巨大なレーニン像が取り払われる様子を見たが、それがどこにあったのかわからないくらい町の風景が変わっていた。

今ではベルリンはおろかドイツに行く用事もまったくなくなり、6年余り勉強したドイツ語もすっかり忘れてしまったが、大学院時代の知人と再会したことで再び行ってみたい気持ちがわいてきた。来年あたり旧東ドイツの観光を兼ねて行ってみようか。