2009年4月29日水曜日

豚フル


ニューヨークの次はメキシコシティ。よりによって行く寸前に豚インフルエンザ騒動がはじまった。勘弁してもらいたい。良識ある日本国民であれば外務省の勧告に従って渡航を見合わせるところだが、商談相手からキャンセルの知らせがないので予定通り向かった。

早朝のラゴーディア空港でチェックインする際に帰国便について聞かれた。何日も後に乗る飛行機について聞かれるなんてもちろん初めてのことだ。もうアメリカには帰って来ないといってもメキシコを出国する便をコンピューターに入力しなければならないのだという。同国に行く時点でグレーリストに載せられて、その後の動きを追われるのだろうか。

飛行機は空席が目立ち、メキシコシティの空港に降り立つと多くの人たちがマスクをしていて、ただごとでない雰囲気が漂っていた。知人の同僚が迎えに来てくれて、ホテルにチェックインした後に旧市街に観光に連れて行ってくれたのだが、ふだん渋滞しているという市内の道路は実にスムーズ。週末は行列しないと入れないという人気のレストランも客の姿がまばらですぐに入れた・・・なんて喜んでいる場合ではないか。レストランではウェイターもウェイトレスも皆マスクをしていて、まるで病院にいるような雰囲気だった。店に置かれたテレビに目を移すと、大統領が豚フルと思しきことについて延々と国民に語りかけていた。

私がメキシコに着いた日にはすでに公園や観光地など人が集まる場所が出入り禁止になっていたが、その後加速度的に状況が悪化し、レストランが次々と休業しはじめた。翌日の午前中に予定されていた面談は電話会議に切り替わり、同日の午後に面談した会社の社長は“政府のお達し”とかで握手を避けられた。その翌日は午前中に面談があったものの、晩に会う予定だったメキシコ北部のグアダラハラに住む大学院時代のクラスメートがメキシコシティへの出張を見合わせたことで、予定を切り上げて早々にメキシコを離れることにした。何せ観光地もすべて閉鎖されているのでそれ以上長くいてもやることがない。

飛行機に乗り込んで2泊3日の短いながら忘れがたいメキシコシティでの滞在を無事に?終えることができたかとほっと胸をなでおろしかけたところ、隣の席のカナダ人が話しかけてきた。聞くと長期出張していた先のメキシコの職場で豚インフルエンザの患者が出たために緊急帰国することになったという。そんなことなら話に熱中してマスクを外すのはやめてもらいたい。彼の紅潮気味の顔色と時折する咳がにわかに気になりだした。

日本から来る心配のメールで、太平洋の向こう側で発生したインフルエンザが相当大きく報道されていることがうかがえた。一方、当のメキシコでは多くの人が普通の生活を続けていてパニックという感じにはなっていない。ふつうにマスクをしないで歩いている人も大勢いる。日本だったら白い目で見られるだろう。新型インフルエンザということでわからない部分が多いことが不安を大きくしているのかもしれないが、ことさら騒ぎ立てるだけではなく、ふつうのインフルエンザに比べて特別に感染力が強かったり致死率が高かったりするのか、ワクチンの副作用で死ぬ人の数とどちらが多いのかといった冷静な報道もしてもらいたいものだ。

2009年4月27日月曜日

ジャージー・ボーイズ


久しぶりのニューヨーク。エンタテイメントに事欠かないマンハッタンは週末を過ごすのにもってこいだ。アメリカに来る観光客の数は景気に大きく左右されるがニューヨークは例外と聞く。ここと肩を並べる場所がほかにないからだろうか。

私がニューヨークに来る目的は何といっても観劇だ。特にブロードウェイミュージカル。今回も二泊三日の短い滞在ながら、中日にブロードウェイ、オフブロードウェイ(小規模劇場)合わせて3つのショーをはしごした。中でも圧巻だったのは1960年代にアメリカで一世を風靡したロックグループの実話を描いた“ジャージー・ボーイズ”。日本でいえば埼玉県的なイメージのニュージャージー州で育ったイタリア系移民の若者たちがザ・フォーシーズンズ(ホテルチェーンではない)という名前のバンドを結成し、一気にスターダムにのし上がる。しかしその後多額の借金や家庭不和などの問題を抱え、さらにメンバーが相次いで脱退。それでも新たなメンバーを加えて活動を続けたリードボーカルのフランキー・ヴァリとプロデューサーに転じたボブ・ゴーディオは我々日本人もよく知る“Can’t take my eyes off of you(君の瞳に恋してる)”などのヒットで再起を果たす。

計画性のない旅行が常の私は事前に下調べをすることもなかったのでこのミュージカルのことを知らなかった。それどころか私が生まれた前後に絶頂期を迎えていたザ・フォーシーズンズの存在すら知らなかった。このショーに興味をもったのは不景気でブロードウェイ全体の観客動員数が減っているといわれ、“マンマ・ミーア”や“ライオン・キング”といった人気演目の切符が簡単に入る中、唯一何日も先まで完売している人気ぶりだったからだ。そしてダメモトで行った劇場のボックスオフィスで前方のいい席が一つだけ残っていたのは実に幸運だった。

ジャージー・ボーイズはザ・フォーシーズンズが歩んで来た道をメンバーの人生の喜怒哀楽を交えてテンポよく描いているストーリーもさることながら、出演者の歌唱力に圧倒される。これまでブロードウェイで見たミュージカルの中でも一、二を争うレベルに思われた。ただ、このショーが常に満席なのがそうした理由だけではないこともうかがえた。来場者のほとんどがフォーシーズンズの絶頂期に青春時代を送ったベビーブーマーと思しき年齢の人たちで、母数が多い年代の圧倒的な支持を受けていることも一因に思われた。また、劇中でニュージャージー絡みのセリフが出てくると客席が大いに盛り上がることから、フォーシーズンズの出身地であるお隣のニュージャージー州からかなり多くの観客を集めていることもうかがえた。

これまでもう一度見たいと思ったショーはそう多くないが、ジャージーボーイズは間違いなくその一つとなった。問題は次回いつまたニューヨークに来られるかだ…。

2009年4月26日日曜日

スーザン・ボイル

イギリスのオーディション番組で一大センセーションを巻き起こした47歳のスコットランド人女性。その歌声もすばらしいが、40代後半にしてこれからエレイン・ペイジのような歌手になりたいという夢を臆することなく語るそのポジティブさに感動した。ぎりぎりアラフォーの私でもこの歳にしてそんな大きな夢は語れない、というかすでに老後の生き方なぞを考え始めている。

YouTubeのおかげもあってかイギリスでは誰もがテレビで放映された彼女のパフォーマンスを見ているようで、すっかり時の人になっていた。
http://www.youtube.com/watch?v=2XVR9AKZOu4&NR=1
私もホテルの部屋でパソコンに向かいながら全世界で何千万回も再生されているという画像を何度となく見返してしまった。

なぜこうも何度も見たくなるのかと考えてみると、一つには彼女の歌声に心いやされるからだが、何よりもオーディション番組には場違いな中年女性の登場に嘲笑的とも思える反応を示していた聴衆がひとたび彼女が歌い始めると手のひらをかえしたように湧きかえって熱狂するさまが何度見ても飽きないノンフィクションのドラマになっているからな気がする。はじめは期待感の片鱗をも見せていなかった審判たちが最後に彼女を大絶賛するのもまた見ていて痛快だ。

この映像を見ると人を見かけで判断してイメージに合わないものを無意識のうちに排除してしまう我々の習性を反省させられる。また、47歳にして大きな夢に挑戦している彼女の前向きな姿には大いに元気をもらえる。

2009年4月25日土曜日

ロングス


1年半ぶりのベルファスト。夜毎の会食の合間を縫って地元で一番人気のロングスにフィッシュ・アンド・チップスを食べに行った。

食べ物に関しては見るべきものがないイギリスでも、タラのフライに厚切りのフライドポテトがつくフィッシュ&チップスは結構いけていたりする。特にこの店は揚げた後でもわかるくらい素材のタラが新鮮で、しかも切り身を一枚丸ごと使っていてボリューム満点だ。

イギリスはある程度大きな町に行くとだいたいフィッシュ・アンド・チップスの人気店がある。旅行者であれば地元の人、特にタクシーの運転手に聞けば間違いない。東京でおいしいラーメン屋を探すのと同じ要領だ。

一昨年、はじめてベルファストを訪れた際に何人かのタクシー運転手にフィッシュ・アンド・チップスのおいしい店を聞いたところ、皆が皆ロングスの名前を挙げた。そして実際に行ってみると確かにこれまで食べた中でいちばんおいしかった。

ところが日本の定番ガイドブックにはこの店が出ていないばかりか地元で「高い」、「あまりおいしくない」、「観光客向け」と評判が芳しくない店が載っている。日本人の多くが頼りにするガイドブックなのだからもうちょっとしっかり取材をしてもらいたいものだ。

2009年4月19日日曜日

大井町の大衆酒場にて


所属しているゴルフクラブのコンペの打ち合わせ。呼び出されたのは大井町駅から線路沿いを歩いた裏路地にある昭和風情漂う居酒屋。庶民的な店は大歓迎だが、以前は銀座のバーでやっていたというからエライ違いだ。

何でも昭和29年創業で、店の中は昭和30年代を描いたドラマに出てきそうなつくりだ。ずいぶんいい歳になった私ですら初めての雰囲気。メニューも昭和そのもので値段も安く、特筆すべきはもつの煮込みだった。“昭和レトロ”の雰囲気に惹かれてか、店内には常連と思しきおじさんサラリーマンたちに交じって若い人たちの姿も多く見かけられた。

大井町はかつて母の実家があったところで、4歳で父の赴任先のアメリカに引っ越すまで、たびたび連れて行かれた記憶がある。長期信用銀行の重役だった父方の祖父の家が杉並の庭付きの広い家だったのに対し、母の実家は庭のない小さな家と町工場が密集する一角にあった。祖母が毎朝作ってくれる納豆と味噌汁の朝ごはんも、年末になると家族総出で行う餅つきも、体が小さかった私が落ちてしまうのではないかと怖くなった汲み取り式の便所も、当時のごく一般的な日本人家庭の光景だったのだろうが、私にとっては大井町の祖父母の家でしか味わえないものだった。

祖父母が引っ越してからは行く機会がなくなったが、大人になって何かの用事で大井町に行ったときにかつて祖父母が住んでいたあたりを歩いてみたことがある。おぼろげな記憶をたどりながら駅からの道を歩いて行くと、貨物線の線路にたどりついた。そして周囲を見回してそこがまだ幼児だった私が祖父に手をひかれて散歩した場所だったことを思い出した。渡り切る前に貨物列車が来てしまったらどうしようなどと心配になった踏切も、大人の目線から見ると2、3歩で渡り切れてしまう。確かに当時と同じ場所に立っているはずなのだが全体が縮小したかのように感じられる不思議な感覚だった。

それはさておき、戦後に闇市が立っていたといわれる一角にあるこの大衆酒場は、我々が行った2日後に閉店して55年の歴史に幕を閉じるということだった。文化財になるような建物でないだろうが、できれば戦後のもののない時代の建築物として残しておいてもらいたいものだ。子供の頃「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句を聞き、私にとっては歴史に感じられる遠い明治の昔に生き、当時を懐かしむ人たちがいるのだなぁと思ったものだが、いつしか我々の世代が昭和を懐かしむ時代になりつつあるようだ。

2009年4月11日土曜日

外資の人々 2

7年ぶりに再会したヘッジファンドに勤める日系アメリカ人の元同僚。ハワイの事務所に勤務していると思っていたためコナに行くときに寄ってみようかというくらいに思っていたが、前の週に会った別の元同僚から彼が東京に戻ってきていると聞き、連絡先を尋ねた。

義弟が経営する虎ノ門の焼鳥屋で昼食を食べながら聞いたところでは、ハワイの事務所が閉鎖になったことでサンフランシスコの事務所に移り、日本株を担当していたことからさらに日本に来させられたとのこと。せっかく日本を脱出してハワイに永住できるところだったのに残念・・・。

しかし聞けば最近日本の事務所で大規模なリストラがあり、社員の半数が解雇されたとのこと。このご時世に彼の業界で仕事を続けられるのはかなり恵まれている方かもしれない。私と会う直前には僕らがいた投資銀行の元同僚からメールで離職の挨拶が来たという。

外資系金融の人切りというのは何ともドライで情がない。私がいたときも、ある日突然何人かの若手社員が幹部に呼び出され、解雇を告げられた。解雇された者は荷物をまとめる間もなく出て行かなければならない。

彼らが去った後に開かれた全体会議で若いオーストラリア人社長が「彼らは我々の基準に満たなかった」といった。ぼろ雑巾のごとく働かせた挙げ句にこのような言葉で片付けられるのだからエグい業界だ。

大ぶりの焼き鳥をつつきながら当時の記憶が甦り、そうした業界から足を洗うことができたことに感謝した。そして元同僚には仕事を辞めることになったら私の会社で請け負っているリサーチレポートの翻訳でもやったらどうかと勧めた。

2009年4月4日土曜日

外資の人々

外資から足を洗って早6年余り。当時の同僚たちと会う機会もめっきり減っていたが、ここのところ急にお誘いが増えている。どうしたことかと思っていたが、どうやら景気の低迷で皆時間を持て余し始めているようだ。

人材の流動性が高い外資系金融のこと。当時の同僚たちの多くはすでにほかの会社に移っているが、移る先は金融機関であれ事業会社であれやはり外資系である場合が多い。人件費は変動費扱いの外資系ではビジネスが落ち込めばすぐに人員調整に入る。「前の会社から自分を引き抜いた上司がさっさとほかに転職してしまい、所属している部門が廃止されることになった」とか、「人員の30パーセントカットがすでに発表され、誰がその対象になるか来週知らされることになっている」とか、「間もなく新たな首切りが行われるが、年下の上司に自分がその候補にあがっていることを告げられている」なんて元同僚もいる。何ともシビアな話だ。米系の大手人材コンサルティング会社で金融業界を担当している元上司が“ミーティング稼ぎ”のためにうちの事務所に来るといったときには驚いた。

それでも外資系、特に金融の人たちはまだ恵まれている。変動費扱いされる見返りとしてそれなりの報酬をもらっているし、会社都合でやめるときの退職金も悪くない。外資系に勤めている以上はこうしたことへの覚悟もできていよう。終身雇用と思って入社した日本の会社から突然解雇を告げられるのとは訳が違う。今の仕事をやめた(あるいはやめさせられた)後はNPOをやりたいだとか農業にあこがれるといった夢を語れるのもある意味いい身分といえよう。

古巣のメーカーの元同僚たちの10年後は想像がつきやすいが、会う度に勤務先が変わっているような投資銀行時代の元同僚たちの場合はあまり想像がつかない。今度会うときには皆一体何をしているのだろうか。そして私自身も…。