2010年12月25日土曜日

オリーブの島


岡山への出張ついでに足を延ばして小豆島へ行った。1泊だけの短い滞在だったが当地のオリーブ農園を見学するには十分だった。私の会社で少量ながらエジプト産のオリーブオイルを扱っているので当地の農園見学は一応商用である。

小豆島は岡山県と香川県の間に位置していて両方のテレビ局の番組が見られるが、岡山側で一杯500円したうどんが小豆島では200円で食べられことから確かに香川県であることを実感する。島に着いてすぐに100年あまり前に植えられたオリーブの原木が残る島の南側斜面に造られたオリーブ園に行ったが、商業生産を行うにはあまりに小規模で、売店で売られているオリーブオイルはギリシャからの輸入物とブレンドされたものばかりだった。

小豆島産のオリーブだけを使ったものは一種類だけ売られていてわずか150mlで3,700円の値段だったが、農園を見学してこのような値段になるのは生産量が少ないからだけではないことがわかった。ここでは実の損傷・酸化を防ぐために一粒一粒手で摘み、栄養価を損なう加熱・加水が行われる量産機は使わず、効率の悪い小型の圧搾機で少しずつ搾っているからだ。私の会社が輸入しているエジプトのオリーブオイルも同じ圧搾機を使って同じように作られているのでこれがいかに手間暇がかかることかがよくわかる。しかしこうしてできる濃厚で味わい深い本物のオリーブオイルは一度使うと量産品には戻れない。

このようなまじめに作ったオリーブオイルは味の面でも栄養価の面でも高いお金を出してでも買う価値があるものなのだが、オリーブ本来の栄養価が失われてしまっている水っぽい量産ものが同じエクストラバージンの名を冠して大量に販売されている中ではよほど知識のある消費者でないとその価値を認められないのだろう。私自身は仕事柄こうして作られるオリーブオイルがいかに貴重なものであるかを知るだけに、骨を折って作っている生産者自身がギリシャ産の安いものと混ぜて売らなければならない現状が残念に思われた。

世はオリーブオイル流行り。本邦では自国の需要をまかなうにも不十分な量しか収穫されていないはずの“イタリア産”のオリーブオイルがちまたにあふれ、大量に効率よくオイルを取り出すための加熱・加水工程でオリーブ本来の栄養価が失われている代物が何の疑問もなく買われている。こうしたオリーブオイルビジネスにまつわる欺瞞が消費者に認識されるようになり、まじめな作り手が報われる日が来ることを願わずにはいられない。

2010年12月19日日曜日

地方グルメ


2泊3日の西日本出張。初日に宿泊した福岡は雪がちらつく寒さにめげず、当地出身の友人に勧められたすしバーに行った。あえてすしバーといったのは最近当地で流行っているというこの店が何とアメリカ・テキサス州のダラスにある店の支店だからだ。広々として洗練された内装の店内には大きなシャンパンのボトルが並べられていて、一人ではめったに飲まない私が無性に飲みたくなった。当地のネタのよさがなせるわざか寿司も実においしく、しばし幸せな気分に浸った。

すしで十分お腹いっぱいになったが、この店が昔友人に連れて行ってもらった長浜ラーメンの店の近くだったのでシメ?に寄ることにした。以前 “元祖”を謳った店名をめぐって訴訟沙汰になっていると新聞で読んだ気がするが、同じような名前の店が二つあり、記憶にあった方に入った。友人と初めて来たときは豚骨ラーメン自体食べるのが初めてだったので濃厚な豚骨スープと歯ごたえのある細麺がとてもおいしく感じられたが、今回は正直なところイマイチというか、当地出身の人に教わった東京にある豚骨ラーメンの方が上に感じられた。

2日目は岡山。同僚と合流して一緒に夕飯を食べることにしたのだが、当地の名物料理が思いつかない…。私の祖母が岡山の人で(池田藩の祐筆の家の出と聞く)、子どものときにはお土産に吉備団子を買ってきてもらったが、さすがに団子では食事にならない。私自身は当地には観光で一度来たことしかなく、名物料理なるものも聞いたことがなかった。岡山駅の周辺にはチェーン店しか見当たらず、同僚も何ら思いつかないということだったので寒い中当てもなく探し回るのはやめ、駅ビルの中にある韓国料理のチェーン店で済ませた。

3日目は広島で、帰りの新幹線に乗る前に駅ビルにある有名お好み焼き店に入った。今が旬のカキとそばが入ったお好み焼きを頼んだのだが、出て来たものの水っぽさと焼き具合のいい加減さ、さらには麺のまずさに閉口した。それでいてボリュームだけはあったためお腹はふくれたのだが、同僚とどこかで“口直し”をせずにはいられないということで一致した。わざわざ広島まで来て食べたお好み焼きが東京にある店よりもまずいなどまったくもって不本意だったが、そもそも有名店というだけで行ってしまう安易な発想が間違っていたようだ。

思えば以前もまったく同じ経験をし、このブログにも書いた。名古屋の有名味噌煮込みうどん屋だ。本店が人気が出たことで我々のような出張者が利用しやすい駅に隣接したところに支店を出し、味噌煮込みうどんとは思えない強気の値付けをしているパターンまでまったく同じだった。このときは地元の人しかいない近くの別の店でずっとおいしく、ずっと安い味噌煮込みうどんを食べて事なき?を得たが、今回も空いている隣の飲み屋で口直しで食べたお好み焼きの方がよほどおいしく、さらには焼きガキや牛すじの煮込みまで食べて満足して帰ることができた。

それにしてもこうした地方の有名店はなぜ人気が出た途端、拡大志向に走ってしまうのだろうか。値段が上がり味が落ちれば地元の人は足を運ばなくなり、何も知らない我々のようなよそ者だけが行くようになる。それでも商売としてはいいのかもしれないが、こちらは騙されたような気になる(実際には自己責任だが)。今後は出張先で地元の有名店に行く前に直近の評判はどうか、チェーン化して町の中心駅の近くに支店を出していないかなどといったことを確認してから行くようにしたい。

2010年12月12日日曜日

仮名手本忠臣蔵


日本に遊びに来たアメリカ人の友人などに歌舞伎の話をされると日本人でありながら見たことがないというのはいいづらい。高校時代に学生向けの割引料金で見られるイベントなどがあったが、このようなこと?になるとは思わず、参加せずじまいだった。

いつかは見に行こうと思いながらなかなか実行せずにいたところ、ビジネススクールのOB会から歌舞伎鑑賞の案内が来た。資本主義の総本山のような学校のOB会でこのような文化的なイベントをやるのはどういう風の吹き回しだろうかと思ったが、その後同学のOBでキッコーマンの副会長などを務められた茂木賢三郎氏が独立行政法人日本芸術文化振興会の理事長を務めておられ、特別なはからいをしてくださったことを知った。

いい席で観劇できて、しかもその後に文字通り舞台裏を見ることができるバックステージツアーまでついているとなればいうことはなく、一も二もなく申し込んだ。演目は歌舞伎初体験の私でもストーリーを知っている仮名手本忠臣蔵。主演は松本幸四郎と市川染五郎親子、女方は中村福助の顔ぶれ。知っている顔が出ていれば自ずと集客力も上がるだろうから、歌舞伎役者がテレビでの露出に努める理由がわかる。

実際に見てみると、なるほど役者の演技も衣装も音楽も演出も実にすばらしく、休憩をはさみながら5時間という長丁場を感じさせない。台詞を聞きながらストーリーをフォローしていくのはかなりきついが、解説が流れるイヤホンガイドがあればばっちりだ。しかも役者の台詞の邪魔にならない絶妙の語り口でストーリーだけでなく、それにまつわる裏話や史実についても話してくれるのがいい。

照明が電気になり、回り舞台の動力が人力から機械に変わるなどハードの部分が変わったとはいえ、江戸時代に演じられていた劇を21世紀に生きる我々が見ることができるのは何ともすばらしい。特に忠臣蔵などは実話にもとづいているためフィクションものよりよほど面白い。このような機会があればぜひまた参加したいと思った。

2010年12月4日土曜日

再会

サラリーマンをやめてからというもの、外で飲む機会がすっかり減ってしまった。仕事帰りに飲みに行く同僚もいなければ、投資銀行時代のような接待もない。40歳を過ぎてからは合コンの誘いも減り、行くのも恥ずかしくなった。そして最近では年齢のせいか朝早く目覚めるようになり、このため早めに仕事に行き、早めに帰宅し、早めに床につくのが生活のリズムとなっている。

ところがこの一週間余りの間は毎晩のように夜の予定が続いた。しかも長い間会っていなかった高校や大学、大学院時代の同級生と再会したりサラリーマン時代の同僚と久しぶりに飲みに行ったりという機会が集中した。年に一度の年賀状すら欠かすことのあった私にとってはこのようなことはこれまで一度もなく、不義理をしつつもかつて親しくさせてもらっていた人たちの元気な姿を見ることができたのは実に嬉しいことだった。

長年会っていなかった友人たちも容姿はともかく根っこのところでは昔とほとんど変わっていないのが面白い。頭脳明晰で冷静沈着だった高校時代のクラスメートはそのまま年齢を重ねているし、人はいいが空気が読めず、笑いのツボもずれていた大学時代の友人もそのままだ。それでも皆、大企業などで責任ある立場になり、日々頑張っているのだから大したものだ。私も頑張っていないとはいいたくないが、マネージしなければならない上司や部下がいるわけではないので、まだ気楽な方だ。

何年かに一度しか会わない同級生などはあと何回か会ううちにお互いに還暦を過ぎてしまう計算だ。そのときにも皆がハッピーで、私自身もこうした集まりに参加できる状況であることを願いたい。

2010年11月28日日曜日

健忘症

アメリカの大学院時代のクラスメートからの突然のメール。仕事で日本に来るので会わないかという。今年アメリカに住むクラスメートが訪ねてくるのは4人目で、大学院を卒業して10数年が経ってもこうして連絡してきてくれるのは嬉しい限りだ。

今回連絡して来たのは大学院1年目のときに隣の席に座っていた女性で、宿泊先の新宿のホテルで待ち合わせて食事に向かう途中、日本は初めてかと聞くと、10年以上前に一度来てそのとき私とも会ったといわれて驚いた。何せ彼女と日本で会った記憶などまったくない…。ほかの人の間違いではないかと聞いたが紛れもなく私で、shrine(おそらく明治神宮)にも連れて行ってもらったとまでいわれた。

最近同僚にものを尋ねると、前にもいったように…といわれることがある。その口ぶりから前に何度もいわれたことのように思われるが私の方はまったく記憶がないから恐ろしい。電機メーカー時代、飛ぶ鳥を落とす勢いで出世街道を突っ走っていた上司に「人間、40歳を過ぎると目は見えなくなるし、体のあちこちにガタがくる」といわれた通りのことになっている昨今だが、記憶まで飛ぶようになるとは…。

こんなことでこの先どれだけ仕事を続けられるか不安になってくるが、そうした不安さえもまたすぐに忘れてしまう気もする。

2010年11月21日日曜日

グルメ交流会


事務所の移転に伴って商工会議所の所属先が千代田支部に変わった。相変わらず中小企業向けの経営相談だのセミナーなどの案内が多い中、表題の楽しげなイベントの案内が来たので速攻で申し込んだ。

会場は神田須田町にある天保元年(1830年)創業のあんこう料理屋。当時の杉並といえば窪地に荻が生えていたり、井草が自生していたような時代なので、当地の商工会議所でこうしたイベントがなかったのも無理からぬことか。

それにしても予約をとるのも難しい江戸の老舗料理屋を貸し切りにするなど、さすがは地元の商工会。東京都指定の歴史的建造物という古い木造の建物に入り待ち受けていた下足番の人に靴を預けると、鴨居に頭をぶつけそうな2階の座敷に通された。あんこうのフルコースは実に美味で、裏メニューの燻製(写真)までふるまわれ、締めはあんこう鍋の出し汁でつくったおじやだった。

祖父の代から三代続けて東京生まれの私は下町育ちの友人に何といわれようと江戸っ子を自称しているが、江戸と呼ぶには少々無理がある23区の西端で育ったため、このような機会は特に嬉しかった。しかし店の何代目かの若旦那の話では最近の温暖化で茨城辺りで獲れるあんこうが減っているそうで、こうした老舗で江戸の食文化を堪能できるのも今のうちかも知れない…。

2010年11月14日日曜日

稲門会

所属しているゴルフクラブの稲門会(W大学のOB会)。今年最後のコンペと納会に参加した。

我が母校の卒業生はもともと結束力がなく(よくいえば群れない)、ゴルフクラブに稲門会ができたのもライバルのK大学の三田会があるからといういかにも受身的な理由から。毎回参加率の低さに驚くが、今回コンペに参加したのはこれまででもっとも少ない9人なので会の先行きが危ぶまれる。

かくいう私も母校のOB会にそれほど興味があったわけではなく、他界した父の会員権を継承するために入会希望を出したところ、クラブの規定で経歴が掲示板に貼りだされ、それを見た稲門会の重鎮が若手(といっても50代)の幹事に声をかけるように命じたそうだ。会員の平均年齢が70歳近いゴルフクラブで私のような若輩者がそのようなありがたい?申し出を断るわけにはいかない…。

私の次に若いメンバーが50代という年齢差がありながら、というよりあるからこそ実際に参加してみるとゴルフ以外にも学ぶことが多い。大手企業の役員や上場企業の社長など、私とは大きく異なるキャリアを歩んで来られた方々が多いが、それでも人生の大先輩達にその年齢に達したときの自分を重ね合わせて今後の人生をどう生きるべきかなどといったことを考えたりする。

今回は納会ということで会長を務める地元の大手地銀の元頭取の計らいで役員接待用の施設で一足早い忘年会が行われ、メンバー一人一人が近況について語った。会で3番目に若いハイテク企業の社長は還暦を迎えて赤いものをもらうと歳をとった気がするが、自分は今がいちばん楽しく、来年はもっと楽しくなるように思えるという。一代で築いた会社は順風満帆、週末は海釣りにゴルフ、自宅近くに建てた本社ビルには屋内のゴルフ練習場をつくりプロの指導を受けているというから人生楽しくないわけはないか。

結束力に欠けるW大の出身者も集まると決まって校歌の斉唱はするから面白い。しかし某K大と違ってめったに集まることがないため歌い慣れたはずの歌詞がどうもあやしい。今回も一番だけ歌うといいながら誰も歌詞を完全に思い出せず、歌っている間に三番までの歌詞がごっちゃになった。

この会が私が先輩格になるまで続き、元気でゴルフをやっていられたらそれはそれで幸せなことと思う。

稲門会

所属しているゴルフクラブの稲門会(W大学のOB会)。今年最後のコンペと納会に参加した。

我が母校の卒業生はもともと結束力がなく(よくいえば群れない)、ゴルフクラブに稲門会ができたのもライバルのK大学の三田会があるからという消極的な理由から。毎回参加率の低さに驚くが、今回コンペに参加したのはこれまででもっとも少ない9人なので会の先行きが危ぶまれる。

かくいう私も母校のOB会にそれほど興味があったわけではなく、他界した父の会員権を継承するために入会希望を出したところ、クラブの規定で経歴が掲示板に貼りだされ、それを見た稲門会の重鎮が若手(といっても50代)の幹事に声をかけるように命じたそうだ。会員の平均年齢が70歳近いゴルフクラブで私のような若輩者がそのようなありがたい?申し出を断るわけにはいかない…。

私の次に若いメンバーが50代という年齢差がありながら、というよりあるからこそ実際に参加してみるとゴルフ以外にも学ぶことが多い。大手企業の役員や上場企業の社長など、私とは大きく異なるキャリアを歩んで来られた方々が多いが、それでも人生の大先輩達にその年齢に達したときの自分を重ね合わせて今後の人生をどう生きるべきかなどといったことを考えたりする。

今回は納会ということで会長を務める地元の大手地銀の元頭取の計らいで役員接待用の施設で一足早い忘年会が行われ、メンバー一人一人が近況について語った。会で3番目に若いハイテク企業の社長は還暦を迎えて赤いものをもらうと歳をとった気がするが、自分は今がいちばん楽しく、来年はもっと楽しくなるように思えるという。一代で築いた会社は順風満帆、週末は海釣りにゴルフ、自宅近くに建てた本社ビルには屋内のゴルフ練習場をつくりプロの指導を受けているというから人生楽しくないわけはないか。

結束力に欠けるW大の出身者も集まると決まって校歌の都の西北を歌うのが面白い。しかし某K大と違ってめったに集まることがないため歌い慣れたはずの歌詞がどうもあやしい。今回も一番だけ歌うといいながら誰も歌詞を完全に思い出せず、三番までの歌詞がごっちゃになってしまったのがおかしい。社会的な地位はともかくとして、私がこの会で先輩格になるまで会が続き、元気でゴルフをやっていられたらそれはそれで幸せなことだと思う。

2010年11月7日日曜日

ベルリン


10数年ぶりに会ったアメリカのビジネススクール時代の日本人同級生。卒業後は投資銀行などに勤めたがその後結婚して専業主婦をやっている。夏に共通の友人がアメリカから遊びに来たことから再び連絡をとるようになった。

彼女は鹿島建設に勤めていた父上の仕事の関係で子ども時代をベルリンで過ごした。もちろん東西ドイツ、そして東西ベルリンが分断されていた時代のことだ。当時の西ベルリンには彼女の家族のほか商社の駐在員や音楽家など数えるほどの日本人しかおらず、彼女を含む日本人の子どもたちは現地校でドイツ語の授業を受けていたという。

彼女の話を聞くたびに思い出すのが大学時代に短期留学でドイツに行ったときのことだ。まだ東西分断が続いていた当時、旧西ドイツのマインツという町で語学学校に通い、週末などにドイツ各地を旅行したのだが、夜行列車で国境を越えてベルリンに行ったときのことは忘れ難い思い出となった。

西ベルリンは地理的には東ドイツの中にある、西ドイツのいわば“飛び領土”だったため、本土とは途中下車が許されない直行列車で結ばれていた。列車が東ドイツ領内に入ると、車内の明かりがかすかに映し出す沿線の小さな民家が西側に比べた生活の質素さを想像させた。

壁に囲まれ、町の東側とは道路も地下鉄も寸断されていた当時の西ベルリンは独特の雰囲気をもつ町だったが、やはりもっとも印象深かったのは日帰りで行った当時の東ベルリンだった。デパートに陳列されていた数少ない衣料品の質は低く、道端で売っていたヴルストもカフェで食べたタルトも美味しくない…。しかし何よりもそこに暮らしている人たちが幸せそうには見えなかった。

東側に行くには西ドイツのマルク紙幣をおもちゃのような東ドイツの紙幣に1対1で換金させられた。東ベルリンの物価だと一日でなかなか使いきれない金額だったが、西側並みにきれいで新しいホテルのバーに入るとつまみ一皿で手持ちの東ドイツマルクが全部なくなったばかりでなく、所持していた西ドイツマルクにまで食い込んだ。私が日本人とわかるとバーテンダーがそのホテルは鹿島が建てたものだと教えてくれた。そして後年、くだんの同級生の父上がまさにその仕事をされていたことを知った。

その後壁は崩壊し、大学卒業後に就職した電機メーカーがポツダム広場に大金をかけて欧州本社ビルを建てたことから再びこの地を訪れる機会が訪れた。壁は跡形もなく取り払われ、東ベルリン側からは近づくこともできなかったブランデンブルグ門も自由に往来できるようになっていた。日本のニュースで東ベルリンで記念写真をとった巨大なレーニン像が取り払われる様子を見たが、それがどこにあったのかわからないくらい町の風景が変わっていた。

今ではベルリンはおろかドイツに行く用事もまったくなくなり、6年余り勉強したドイツ語もすっかり忘れてしまったが、大学院時代の知人と再会したことで旧東ドイツの観光も兼ねて再び行ってみたい気持ちがわいてきた。

ベルリン

10数年ぶりに会ったアメリカのビジネススクール時代の日本人同級生。卒業後は投資銀行などに勤めたがその後結婚して専業主婦をやっている。夏に共通の友人がアメリカから遊びに来たことから再び連絡をとるようになった。

彼女は鹿島建設に勤めていた父上の仕事の関係で子ども時代をベルリンで過ごした。もちろん東西ドイツ、そして東西ベルリンが分断されていた時代のことだ。当時の西ベルリンには彼女の家族のほか商社や音楽家など数えるほどの日本人しかおらず、彼女を含む日本人の子どもたちは現地校でドイツ語の授業を受けていたという。

彼女の話を聞くたびに思い出すのが大学時代に短期留学でドイツに行ったときのことだ。まだ東西分断が続いていた当時、旧西ドイツのマインツという町で語学学校に通い、週末などにドイツ各地を旅行したのだが、夜行列車で国境を越えてベルリンに行ったときのことは忘れ難い思い出となった。

西ベルリンは地理的には東ドイツの中にある、西ドイツのいわば“飛び領土”だったため、本土とは途中下車が許されない直行列車で結ばれていた。列車が東ドイツ領内に入ると、車内の明かりがかすかに映し出す沿線の小さな民家が西側に比べた生活の質素さを想像させた。

壁に囲まれ、町の東側とは道路も地下鉄も寸断されていた当時の西ベルリンは独特の雰囲気をもつ町だったが、やはりもっとも印象深かったのは日帰りで行った当時の東ベルリンだった。デパートに陳列されていた数少ない衣料品の質は低く、道端で売っていたヴルストもカフェで食べたタルトも美味しくない…。しかし何よりもそこに暮らしている人たちが幸せそうには見えなかった。

東側に行くには西ドイツのマルク紙幣をおもちゃのような東ドイツの紙幣に1対1で換金させられた。東ベルリンの物価だと一日でなかなか使いきれない金額だったが、西側並みにきれいで新しいホテルのバーに入るとつまみ一皿で手持ちの東ドイツマルクが全部なくなったばかりでなく、所持していた西ドイツマルクにまで食い込んだ。私が日本人とわかるとバーテンダーがそのホテルは鹿島が建てたものだと教えてくれた。そして後年、くだんの同級生の父上がまさにその仕事をされていたことを知った。

その後壁は崩壊し、大学卒業後に就職した電機メーカーがポツダム広場に採算を度外視した豪華な欧州本社ビルを建てたことから再びこの地を訪れる機会が訪れた。壁は跡形もなく取り払われ、東ベルリン側からは近づくこともできなかったブランデンブルグ門も自由に往来できるようになっていた。日本のニュースで東ベルリンで記念写真をとった巨大なレーニン像が取り払われる様子を見たが、それがどこにあったのかわからないくらい町の風景が変わっていた。

今ではベルリンはおろかドイツに行く用事もまったくなくなり、6年余り勉強したドイツ語もすっかり忘れてしまったが、大学院時代の知人と再会したことで再び行ってみたい気持ちがわいてきた。来年あたり旧東ドイツの観光を兼ねて行ってみようか。

2010年10月30日土曜日

久留米ラーメン


先日、6年前に他界した父の知り合いの方が九州から来られ、ひょんなことからお会いすることになった。海運関係の仕事をしていた父とはおおよそ畑違いの建設業界の方なのだが、父がロンドンに駐在していたときに当地で世話になったとかで、私の会社が輸入しているオリーブオイルを贈答用に買ってくださったりしている。贈り先が九州で隠居生活を送っている元首相だったり銀座の老舗宝石店の店主だったりするからその交友関係は相当なものと推察する。

待ち合わせ場所は父から会員権を継承した千葉のゴルフクラブ。父とラウンドしたことがあるということで、親子の腕前は雲泥の差ながらご一緒させて頂くことにしたのだ。ところがこの日は台風の影響であいにくの雨模様。ゴルフ場に着く頃には雨足も強まり、初対面の挨拶もそこそこにプレイはやめて食堂でお茶をすることにした。そしてお昼近くなって話も尽きて来た頃に昼食をご一緒することになった。

東京駅近くのホテルに宿泊されているということだったので私の事務所がある永田町のビルにお招きすることにした。稲庭うどん、串揚げ、麻婆豆腐などの店があると説明しているうちに、同じフロアに九州料理の店があることを思い出した。ランチのピーク時間を過ぎた1時以降に出されるここの豚骨ラーメンが本場の九州並みにおいしいのだ。これを選択肢に加えると驚くような話をされた。

この方はブリジストンの創業家で知られる福岡県の久留米出身なのだが、何と当地でラーメン屋を営んでいた父上が豚骨ラーメンの発案者だというのだ。大学時代に当時福岡に住んでいた幼馴染を訪ね、長浜のラーメン屋に連れて行ってもらって以来、元祖を名乗るその店が豚骨ラーメンを始めたものと思っていた。後でネットで調べてみると確かに豚骨ラーメンは久留米発祥とあった。

この九州料理の店はほかの定食類がイマイチ(失敬!)なのに比べて豚骨ラーメンはちゃんと細麺を使っていて豚骨出しの味もしっかりしている。くだんの幼馴染に教えられた都内の豚骨ラーメン屋がその知名度に反比例して出されるラーメンがかなりがっかりな代物になり下がっていった中、事務所の目と鼻の先にちゃんとした豚骨ラーメンを出す店が見つかったのは実に嬉しいことだった。

豚骨ラーメンの発案者の御子息と知って私が良とする豚骨ラーメンが果たしてお眼鏡にかなうかちょっと心配になったが、おいしいといわれて安堵した。そして店員さんとの会話からこの店のオーナーも久留米の出身ということがわかり、メニューをよくよく見てみるとラーメンは豚骨ではなく久留米ラーメンとなっていた。

九州の財界は結びつきが深いのか、うちの会社が取引を考えていた唐津の会社の社長と親しい間柄とのことで、九州に行ったときには地元の老舗ゴルフコースでラウンドをアレンジしてくださるという。この上は出張をでっちあげて?本場の久留米ラーメンを食べに行こうかと思う。

2010年10月24日日曜日

スマートフォン

「朝起きた時にメールボックスに未読メールが残っているのがいやなんだよね。」電車で隣合わせたサラリーマン二人組の会話。どうやら四六時中メールがチェックできるスマートフォンを買うべきか否か話しているようだった。朝メールボックスに未読メールが残っていないというのは海外との取引がないということなのだろう。

私はワンセグ機能がついているものが出ていなかったためスマートフォンへの切り替えをやめたことがあったが、その判断は正しかったと思う。というのも常にメールが読める状態にあると人に思われたくないからだ。携帯は基本的に常時持ち歩いているもので、よほどへんぴなところに行かない限りつながる。その携帯でメールが見られるとなると、読めない状況だったという言い訳?ができなくなる。そんなのはごめんだ。

取引先にメールを送るといついつまで不在にしているので緊急の用件は誰それまでいってくれといった自動リプライが送られてくることがよくある。しかし相手がブラックベリーを使っていたら間違いなくメッセージを読んでいるものと踏み、構わずメールを出し続ける。そして実際に程なくしてブラックベリーのマークがついたリプライが来たりする。しかし私自身はそのような立場にはなりたくない。幼い頃、自分がやられていやなことを人にするなと教わった気がするが、相手が自らの意思でスマートフォンを選んでいるのだからその限りではあるまい。

それにしてもその日のうちに未読メールをなくしておきたいという心理も難儀なものだ。メールの中には重要なものも緊急なものもあるが、人によってはさして緊要性のないことをあえて書いて来たり決定事項でないことを中間報告的にいって来ることがある。よほど緊急性が高いのであれば携帯に電話をかけてくるだろうから、すべてのメールをその日のうちに読む必要性はそれほどなく、ましてや来たメールにいちいち答えるというのは時間の無駄、と私は思う。

2010年10月17日日曜日

HOOTERS

「Hootersができるんじゃないですか!」
永田町の事務所に移ってから在宅勤務を始めた八王子在住の同僚が久しぶりに事務所に来るなり超ハイテンションでいった。

最近赤坂見附の駅前に大きなオレンジ色の看板が突然出現したのでいったい何の店だろうと会社のパソコンでグーグってみると、チアリーダー姿の若い女の子が給仕をする店だとわかった。アメリカのほかにアジアにも店舗があり、今回日本に初出店することがわかった。

同僚はHootersがアメリカのそこかしこにあり、知らない者はいないといったが、私は出張先が地味な町ばかりだからか一度も行ったこともなければ聞いたこともなかった。その後開店準備を進める店の前を通るたびに中を覗き込む人たちを見かけ、日本に出店する前にコアなファン層を獲得していることに感心した。チアリーダー姿というのはミニスカートのウェイトレスが給仕をするアンナミラーズよりあからさまだが、ハマる人はかなりハマるようだ。

事務所にバイトに来ているアメリカに留学経験のある子に聞いてみると(女性に聞くのは不適切と思いつつ)、彼女の留学先のシアトルにも店舗があり、何と彼女自身も行ったことがあるということだった。そしてウエイトレスの子たちは皆“超”かわいかったという。店のコンセプトを考えれば当たり前か。

日本の第一号店の開店が今月末に迫っているが、ここ1、2週間ほど店内でバイトの面接をしている様子が伺える。ウェブサイトの募集要項を見ると採用基準が明白であるにかかわらず、容姿に関する記述も年齢制限も書かれていない。いささか偽善的にも思えるが、ややもすると女性蔑視に見られかねない商売なのでやむをえないか。制服は「チアガールをイメージした健康的なもの」と書かれているのが笑える。

事務所の目と鼻の先なので話のタネに一度は行ってみようと思ってはいたが、さっそく来客にお誘いを受けた。同僚と同じく事務所に来る途中に看板を見かけたそうで、女性の同僚もいるランチの席で台湾のHootersに行ったときのことを語った。同僚並みにハマってしまったようだ。半年以上ぶりにお会いし、急ぐ商談があるわけでもないのに、その後すぐにメールが来て月末に行こうという話になった。

しかしよくよく調べてみるとこの日は開店当日。テレビの取材カメラなども入りかねない。アメリカでは奥さんに知られるといやな顔をされるという店にいるところを映されて全国放送されるのはいかがなものか。しかも開店の当日に行くなんていかにも“待ち切れなかった”感丸出しである。かなりリスキー…。

2010年10月11日月曜日

困った来客

仕事柄海外からのお客さんを相手にすることが多い。ほとんどの場合、ビジネスの常識をわきまえている人たちがやって来るが、業界によってはかなりハイレベルな“困ったちゃん”に出くわすこともある。

先月事務所にやって来たアメリカ人建築家と彼のPR会社の女性担当。事務所に来たときは和気あいあいとしていたが、同僚が外に連れ出すと銀座のど真ん中で大声でけんかを始めるなど、さんざんだったそうだ。

建築家の方はまだ40前の若さだが、持続可能な建築を目指すグリーンビルディングの世界で実績をもつ人物で、今回の滞在でいきなり案件を受注したというからたいしたものだ。しかし大手企業との面談にジーンズ姿で現れたり、面談のための資料を何も用意していなかったり、待ち合わせの時間に待ち合わせの場所に現われなかったり、勝手にホテルを移ったりと、やりたい放題だったという。アテンドする側はたまったものではないが、聞いた私は笑うしかなかった。

一方のPR会社の50代と思しきおばさんもまたすさまじかった。週末に観光で京都に行き、当地がたいそう気に入ったのはいいが、京都はホテルも安いといって東京のホテルをチェックアウトして京都に移ってしまった。聞けば外国人向けの鉄道パスを持っているので新幹線はひかりかこだまが乗り放題とのこと。それにしても毎日京都から東京に通うという発想に驚く。さらに東京で訪問した会社の中年のおじさん(アテンドした同僚によると特に恰好よいわけでもない)に一目ぼれし、薬指に指輪をしていたのでチャンスがあるかしらなどといっていたそうだ。いったい何をしに日本に来てるんだい!といいたくなるがやはり笑える。

ほかにも展示会に出展するはずが来なかったという企業もあった。それも1社ではなく3社もだ。しかもそのうちの2社は事前に何の連絡もよこさず、こちらが会場にいってブースがもぬけの空で初めて気づいたというありさまだった。ここまで来るともはや文化の違いでは済まされない。

こうしたハプニングには笑えないものもあるが、それでもどの企業の人も悪気なくやっているので私にはむしろかわいく思えたりする。これも外資系証券会社などに勤めていたからだろうか…。

2010年10月3日日曜日

すててこ

何たるオヤジくさい響き…。だがこれが使い始めたらやめられない。

きっかけは防寒のためではなかった。もともとウールのズボンの肌触りが苦手だったので荻窪の西友で見かけて買ってみることにしたのだ。実際にはいてみるとウール地が直接肌に触れないのでちくちくとしたいやな感触がしない。背広を着る日は欠かせなくなった。

しかしすててこをはき始めてから別の効果にも気づいた。ずぼんの裏地に直接肌が触れないため、汗などの汚れがつくのを防げるのだ。一日はいたすててこの汚れ方から、頻繁にクリーニングに出さないスラックスが実は相当汚れていることに気づいた。すててこは毎日洗うものなので何とも気持ちがいい。

このことに気づいてからカジュアルの服装の日もすててこをはくようになった。綿製のずぼんは汗などの汚れがつきやすいが、すててこをはいていれば汚れ方が少なく、ずぼんを洗濯する頻度も少なくてすむ(つまりはずぼんが長持ちする)。ところが西友のすててこは化繊なため夏場は蒸れて困る。また汚れも落ちにくい。ユニクロの新素材は肌触りはまずまずだが肌に密着するので鬱陶しいし、夏はやはり蒸れる。結局行き着いたのがイトーヨーカ堂の綿製のすててこで、自然な肌触りが心地よいだけでなく、肌に密着しないので夏場も風通しがよくて気持ち良い。しかし近所にイトーヨーカ堂がないので企業訪問で大森あたりに行ったときにまとめ買いをするようにしている。

初めはすててこを愛用しているなんてあまりかっこうのいい話ではなく、肌着なので黙っていれば誰に知られることもないと思っていた。しかしその後どうあがいてもオヤジといわれる年齢に達してしまっていてすててこをはいていても何ら不自然でないことに気づき、最近ではまわりに積極的に勧めるようになった。

2010年9月25日土曜日

おめでたい日本人

尖閣諸島沖の漁船衝突事件の顛末を見て、昔出した本でこんなフレーズを書いたことを思い出した。仕事柄、国際社会における日本の地位の低下を肌で感じているが、それを自ら加速させるような愚かな決断をくだす国がほかにあるだろうか。

「国民への影響」だの「今後の日中関係」などということばを地検の幹部が口にすること自体不自然に感じるが、実際に検察が独自に判断をくだしたにしても、政府の関与があったにしても、船長が釈放されてもなお中国政府が強硬姿勢を崩さず「謝罪と賠償」を求めていることから今回の判断が日本の立場をさらに弱めただけで何ら国益にかなっていないのは明らかに見える。脅しにのったが最後、という当たり前のことがわからない人たちがこの国の命運を左右する立場にあるとすれば嘆かわしい限りだ。

今回の事件では北京の日本大使館が中国の強硬姿勢に驚いたということが報じられていたが、それが事実とすればあまりの“おめでたさ”に開いた口がふさがらない。彼らはいったい何のために国費を使って中国に派遣されていると認識しているのか…。中国が自らの海洋権益の確保のためには手段を選ばないことはこれまでの行動を見ても明らかで、それは日本と仲良くすることではなく、理屈を力で封じ込め、既成事実を積み重ねることによって達成される。南沙諸島で起きていることを見ればそれは明らかであり、そんなこともわからない浮世離れした人たちが外交官を務めているとしたら日本の将来は明るくない。

先日中国のパートナー企業と話をしていた際に、中国が本当の意味での法治国家ではなく、誰を知っているかがビジネスの成否を分ける、そして中国が民主化され、ふつうにビジネスができる国になるには長い時間がかかる、といわれた。そう。今中国を支配している共産党政権は国民に選ばれたわけでも支持されているわけでもない。党の支配を続けるためには自国民に対しても銃口を向け、少数民族の意に反して彼らの土地を支配し、自らの利益のためには世界の悪名高い独裁国家を支援している。そうした人たちに正論など通じるはずもない。

我が国と中国との国力の差が開き続ける中、中国共産党政権の拡張政策を食い止めるには中国と同じような問題を抱える周辺諸国との連携が不可欠だが、今回の措置はこうした国々を大いに失望させ、そうした機会をも自ら放棄したに等しい。こうしたおめでたい人たちが今後もこうした愚かな判断を続けると100年後には沖縄県が中国・琉球自治区になっているようなこともあながちありえない話ではないだろう。

2010年9月20日月曜日

ライブモカ

最近話題の英語の社内公用語化。しかしこれは何も最近始まったことではない。私が勤めていた電機メーカーでは20年以上前から他の日本企業に先駆けてそのようなスローガンを掲げていた。かといって社内で日常的に英語が使われるなどといったことはない。平均的な日本人社員の英語力からするとあまりに効率が悪く、それが某大手自動車メーカーの社長をして英語の公用語化などナンセンスといわしめたゆえんだろう。

とはいえ国際化の時代、国内だけを相手にしている仕事でない限り英語は避けて通れない。こうした需要を当てこんでか、世界最大手のオンライン言語学習企業の社長が来日することになり、日本のおもだったISPや英語の公用語化を目指す日本企業との面談のアレンジを依頼された。本案件は同僚に任せていたが、面談でデモをやるということだったので個人的な関心から一社だけ同行することにした。

田町にある某大手ISPの会議室でネットにつないで行われたデモを見て、こんなものが普及したら外国語学校もCD-ROMの学習教材を売っている会社も商売あがったりではないかと思った。さまざまなシチュエーションでの会話の練習ができるほか、サービスに登録しているネイティブの人と会話をしたり作文を添削してもらうことができる。英語学校でできてこのオンライン学習でできないことが思いつかない。

パソコンとブロードバンドへのアクセスさえあれば時間も場所も選ばずに外国語のレッスンが受けられるというのは何とも魅力的だ。月額の利用料も1回のレッスン代よりも安いくらい。しかも大手ISPとの商談がまとまればその利用者はさらに安い料金で利用できるようになる。(我々の方でおもだったところと会わせたので、各社との商談がうまくいけば相当数の人々が恩恵を受けられるはず。)

イーモバイルユーザーの私は割引料金の恩恵を受けられそうもないが、家庭教師を雇ってでもやってみようかと思っていたスペイン語か北京語でも始めてみようかと思う。しかし場所も時間も選ばないとなると有言不実行気味の私としては言い訳がしづらくなる…。

2010年9月11日土曜日

チリ

チリで起きた鉱山の落盤事故のニュースを聞き、これがほかの南米の国で起きていたら果たして工夫たちは生き残ることができただろうかと思った。地中深くにきちんと退避所が設けられていることはもちろん、リーダーの指示のもと、わずかな食糧を計画的に分け合いながら食べていたというから大変な統率の取れ方だ。ほかの南米の国ではこうはいかないのではないかと思う。

初めての南米旅行でアンデス山脈を越えてチリからアルゼンチンに入国したとき、アルゼンチン側の入国管理官がたばこ片手にいかにもやる気なさげにポンポンとスタンプを押してフリーパスさせていたのに対し、アルゼンチンからチリに入ろうとするトラックが反対車線に長い列をなしていたのを目にした。チリ産のワインが日本に出回るようになって久しいが、チリは一次産品の一大輸出国なので検疫には特に力を入れているのか、はたまた密輸対策なのか。一方のアルゼンチンは検査の厳しいチリから悪いものは入ってこないと思って手を抜いているのか、それともただテキトーなだけなのか。

ちなみにアルゼンチンで飲んだワインは私がこれまでに飲んだチリ産のワインよりもよほど美味しかったが、いいワインは全部自分たちで消費してしまうため輸出にはまわらないのだと聞かされた。こうした国民性の違いからか、アルゼンチンの人々の中にはブラジルやウルグアイといったほかの隣国に親しみをもつ一方でチリ人の悪口ばかりいう人たちがいる。これほど統率がとれて経済的にも成功しているチリに対するやっかみもあるのかもしれない。

このときの旅行ではロサンゼルスからサンチアゴ、サンチアゴからイースター島往復、そしてブエノスアイレスから再びサンチアゴ経由でロサンゼルスまでチリのラン航空を利用したが、客室乗務員がてきぱきと、おそらくマニュアル通りに仕事をこなしている姿を見て感心した。決して愛想がいいわけではないが、とにかく配膳も片付けも飲み物のサービスも一斉にしかも効率的にこなす。こうした南米らしからぬ?効率性の追求が業績にも反映しているのか、ラン航空はペルーのフラッグキャリアも傘下に収めて南米では一人勝ち状態。最近ブラジル最大の航空会社TAMとの合併を発表した。

日本で質の高いサービスに慣れてしまっている我々にとってラン航空のサービスはこの上なくありがたいが、大らかな南米というイメージとはほど遠い。なぜチリだけがこうなのか。アメリカの取引先にサンチアゴの大学に留学していたという人がいたので聞いてみるとこんな分析をしていた。チリは南米の国々の中でもドイツ系移民の比率が高いのでもともとドイツ人の国民性が色濃く反映している。加えて長年独裁政権のもとにあったので国民が規律正しくトップダウンの指示に従うことに慣らされている、とのこと。なかなか興味深い。

2010年9月4日土曜日

ホテルニュージャパン

前回のブログで取り上げた防火・防災研修で1982年に死者33名を出したホテルニュージャパンの火災の裏話を聞き、高校の交換留学でカリフォルニア州のサクラメントに滞在していた当時のことを思い出した。およそ1年の留学期間だったが、この間にアメリカのテレビで目にした日本に関するニュースはこの火災と東京湾で起きた日航機の墜落事故の二つだけだった。

ホテルニュージャパンの火災では消防当局による再三にわたる指導にかかわらずスプリンクラーなどの消防設備を設置しなかった横井英樹社長が後に裁判で有罪判決を受けて服役したが、この火災の記憶も新しい1982年の6月に日本の高校に戻ると何とこの横井氏の秘書をしていたことがある英語の先生にあたった。授業の内容はまったく覚えていないのに、この横井氏に関する逸話は今でも鮮明に覚えている。

この先生は大学の卒業を控えて就職課の掲示板を見に行ったところひときわいい条件を出している会社があったので応募したところ、それが横井氏の会社だったそうだ。氏は当時いわゆる乗っ取り屋として知られていたそうで、社長室で先生を窓際に呼び寄せ、そこから見えるある建物を指さして「今度はあの会社をやるから。」などといっていたそうだ。氏の渋ちんぶりは相当なものだったそうで、長年仕えた社員が定年退職の挨拶に来たところ思いもかけず封筒に入ったぶ厚い札束を手渡されたので喜んだのだが、後で中を開けてみると全部500円札だったという。

私の両親が結婚式をあげた当時のホテルニュージャパンは一流といわれていたそうだが、横井氏が買収した後は宿泊客の安全を顧みないコストの切り詰めを行った結果、あのような大惨事を招いてしまったようだ。防火・防災講習の講師の話では、部屋数を多く取るために安い可燃性の素材でできた壁で仕切り、スプリンクラーなどの消防設備の設置要請に対しては、法改正を過去に建てられた建物に適用するのは憲法違反だなどと主張してそれに従わなかったという。そして消防当局が告発の準備をしていた矢先にくだんの火災が起きたそうだ。

横井氏のような人物はそう多くないかもしれないが、防火関連の決まりが日本ほど厳格に適用されていないと思われる国のホテルに泊まるときは気になる。とはいえ自腹のときはネットの安い料金で宿泊するのが常の私は高層ホテルでも上の方の景色のいい部屋をあてがわれることはあまりないので比較的安全な方かもしれない。

2010年8月28日土曜日

防火・防災講習


秋葉原にある神田消防署で2日間にわたって防火・防災管理者講習なるものを受講した。以前の事務所では有資格者がいたのでお願いしていたが、今の事務所には資格をもった人がいないので仕方なく?私が受講することにした。

今の仕事を始めて我が国の官僚諸兄が退官後の天下り先確保のためにさまざまな“仕掛け”を作っている実態を目の当たりにしてきたが、この講習に参加して消防庁とて例外でないことがわかった。講習を受ける際に数百ページにわたるテキスト2冊と、およそ読み返すことがないであろう1,000ページを超える消防法の法規集を4,600円で買わされる。神田消防署だけで毎日新たに260人が受講するので一日でおよそ120万円の売上となる。事業仕分けで自動車の運転免許更新時のテキストが問題になったが、防火・防災研修で配られるテキストも御多分にもれず『公益財団法人東京防災指導協会』なる団体が作っている。さらに受講が一巡して売上が減らないようにか5年に一度の“再講習”まで義務づけている。

しかしさらに問題なのは社員をまる2営業日の間拘束することで、これをお金に置き換えるとテキスト代をはるかに超える負担になるし、人手に余裕がない零細企業にとってはたまったものではない。講習は我々が本当に知っておくべき消火器や消火栓の使い方、避難誘導のし方といった内容にしぼれば半日もかからないしオンライン学習で十分対応可能なのだが、もともとは防火管理者だけで1日の講習だったのが地震などに備えて防災管理者なるものが作られ、講習も2日間になったというから驚く。しかも講習を実施しているのは都内では3か所の消防署のみで、家から遠くても時間をかけて行かなければならない。

講習2日目の最後には認定試験が行われるのだが、その直前に出題される内容と二者択一の答えを教え、しかも各机に備え付けられているディスプレイで前に座っている人の答えが丸見え。20問中13問正解しなければ“補講”があるといいながら260人のうち誰一人として落ちる人がいないのだからばかばかしい。本当に管理者に必要な知識を身につけてほしいのであれば視覚に訴える動画をふんだんに使ったオンライン学習に切り替え、試験は受かるまで何度でも受けられるようにした方がよほど効率的であり、現に私の会社のクライアントである海外の政府機関はそのようなやり方をしている。

今回の講習に参加して改めて民間の感覚とかけ離れた官の実態を目の当たりにした気がする。経済が厳しい状況にある中で官が民に合理的な範囲を超える負担を強いるのは大きな問題だが、消防行政となると誰も表立ってその意義を否定しづらいのでなかなか見直されないかもしれない。今後もこのようなことが続くと思うと気が重い…。

2010年8月21日土曜日

羽田の再国際化

羽田空港の再国際化のニュースは感慨深いものがあった。幼い頃ロサンゼルスに赴任する父を見送ったのも、その後を追って母と兄と日本を発ったのも羽田からだった。当時まだ4歳になるかならないかの年齢だったが、雨天の中、展望台から飛行機を眺めたことや、空港でもらった花束を機内でスチュワーデスに捨てられたこと(検疫上の理由からだろうがそんなこともわからない年齢だったのでかなりショックだった)、当時はロスまで直行便がなかったため、ストップオーバーしたホノルルで日系人が経営するおにぎり屋に行ったことなどが断片的に思い出される。

ただ私が羽田の再国際化を歓迎するのはそうしたノスタルジックな理由からではない。日本の航空行政の失敗を取り戻すにはそれしかないと思うからだ。成田からの直行便がない中東などに行くときに大韓航空を利用してソウルのインチョン空港で乗り継いで行くと非常に便利で、機内に多くの日本人を見かける。東京に住んでいてさえそう感じるのだから地方に住んでいて羽田から成田まで移動してさらに海外のほかの都市で乗り継ぐことを考えるとインチョンに直接飛んで乗り継ぐ方を選ぶのはごく当たり前のことだ。乗客の利便性も考えずに国際線の成田と国内線の羽田とにすみ分けしたことは日本の航空会社にとっても競合上の不利益を生んだことは間違いないだろう。

ソウルもインチョンと旧国際空港であるギンポとの間で国際線と国内線のすみ分けをしているが、成田と羽田と決定的に違うのは市内から同じ方角にあってお互いのアクセスがいいことだ。成田という場所に空港をつくってしまったのもいかがなものかと思うが、乗客の利便性も考えずに成田に国際線を独占させたこともそれに輪をかけて理解に苦しむ判断だ。あれだけアクセスの悪いところに空港をつくってしまったのであればロンドンのガトウィックと同様に国内線、国際線両用にしていれば少なくとも地方の旅客の利便性は確保され、インチョンの後塵を拝することもなかったかもしれない。羽田の再国際化がこうした過去の誤った判断を正していく第一歩となることに期待したい。

先月、海外出張のために成田のカウンターでチェックインをすると搭乗券と一緒に空港施設使用料の値上げを通知する紙切れを渡された。テロ対策で費用がかさんでいるというのがその理由だったが、出張から帰国するとテレビで成田空港のCMが流れているではないか…。空港施設使用料を値上げしなければならないくらいお金が足りないならなぜ意味のないテレビCMなど流すのか。CMを見て羽田ではなく成田を利用しようと思う人がいるとでも思っているのだろうか。こうした経営感覚も国際線を独占してきたことの弊害だとすれば羽田との競争にさらされることで改められることに期待したい。

2010年8月15日日曜日

都心回帰

久しぶりに投資銀行時代の同僚と飲んだ席、都心の家賃がだいぶ落ち着いてきていると教えられた。3年前に事務所を神谷町から自宅に近い阿佐ヶ谷に移したときには公私混同ではないかとあらぬ?疑いをかけられたが、港区の家賃が高騰する中、神谷町の事務所の契約の更新が迫っていたという事情があったのは紛れもない事実だ。そして事務所のロケーションを多少なりとも気にする海外のクライアントには阿佐ヶ谷は都庁がある都心から4マイルほど(もちろん直線距離)の場所だと説明して理解を得た。もちろん都庁からどちら方向に4マイルかによって大違いなのだが…。

あれから3年余り。元同僚の話では彼が仕事を手伝っている会社が神谷町の駅近くのそこそこ立派なビルに坪1万円台(2万円未満)で借りられたというから驚いた。それでは3月に転居したばかりの中野の事務所よりもはるかに安く、阿佐ヶ谷で支払っていた坪単価並みということになる。私の通勤には便利とはいえ、中野の事務所は窮屈この上ない狭さで、さらに当地にあるまじき高い家賃を払っていたことを知り、にわかに都心への再移転を考え始めた。

ネットで検索したり、不動産屋から情報を取り寄せていると、いずれの物件も家賃の欄が応相談となっているものばかりで、いかに買い手市場になっているかが伺えた。そしてそうした中、別の知人が神谷町の有名高層ビルから移転した赤坂見附駅前(住所は千代田区永田町)のビルのことが妙に気になった。見附であれば都心のロケーションの中では比較的通勤に便利だし、何よりも駅前というのがいい。しかもうちが必要とする小さめのスペースの物件が出ているではないか。坪単価は2万円台半ばというが、それでもこのロケーションであれば文句はない。

ところが不動産屋に調べてもらったところこの物件はすでに申し込みが入っているとのことで、仕方なくほかの物件を探すことにした。四ツ谷で比較的気に入った物件に申し込みを入れようとしたところ、またも一足先にほかの会社にとられてしまい、いよいよ適当なところで妥協しようかと考え始めていた矢先に不動産屋からくだんの赤坂見附の駅前の物件がまたフリーになったとの連絡があった。何でも先に申し込みをした会社とビルの運営会社との間で条件面で折り合わなかったのだという。やはり応相談だとこういうこともあるのか。すっかり諦めていたところに思わぬ朗報で、当初提示されていた家賃より上がっていたがが、即座に申し込みを入れた。こうして中野に3カ月いただけで3年3か月ぶりに都心への復帰を果たした。

阿佐ヶ谷の事務所にいた頃、地元の名士でもあるビルのオーナーから「竹内君はまだ若いんだから都心でもっとバリバリやった方がいいよ。」といわれたのを思い出す。大病をしたことで残りの人生を心穏やかに過ごしたいとだけ思っていた私は会社を大きくして要らぬ面倒を抱え込む気もなかったので、こうしたアドバイスを受けながらその後中野という何とも中途半端なところに移ってしまったが、いざ都心に戻ると闘志がわくとまではいわないまでも気持ちが引き締まる思いがするから不思議だ。そして何より移転して1週間で多くのランチの誘いを受け、いかに自分が都心で働く人たちから心理的に遠い場所にいたかを認識させられた。

そんな折、今回の急な移転のきっかけとなった元同僚が新しい事務所を訪ねて来た。開口一番「便利だね。」といい、ランチと食後のコーヒーを一緒にした後、別れ際に「前の事務所だとなかなか行く気にならなかったけど、ここなら便利なのでちょくちょく来させてもらうね。」といわれた。こちらが都心に移って来てはじめて知らされた本音で、中野だとか阿佐ヶ谷というのはやはり無理があり、ビジネス上の機会損失もずいぶんあったのだろうかなどと考えさせられた。

2010年8月7日土曜日

MGM

“ジェームスボンドは誰が殺した”。2週間ほど前、移動中の機内で読んだファイナンシャル・タイムズ紙にこんなタイトルの記事が掲載されていた。ウエストサイド物語、ベンハー、風と共に去りぬなどの名作で知られるハリウッドの名門MGMスタジオの経営が絶不調であの007の次回作の制作もままならないのだという。この会社の大株主こそ私がかつて勤めていたソニーである。

同社を去ってから4年後の2004年に同社とアメリカの投資会社のコンソーシアムがMGMを買収したとのニュースに触れたときにはまたライブラリー目的で高い買い物をしているのではないかと疑った。ライブラリーとはスタジオが保有する過去の作品のことで、私が在籍していた頃の同社ではそれに無限の価値があるかのようなことがいわれ、それが高い金を払ってレコード会社や映画会社を買収することを正当化していたところもあった。

しかし私はそうした考えに疑問をもっていた。というのも過去の作品は時を経てリアルタイムでその作品を知る人が減るにしたがって需要は下がる一方で、毎年新たなヒット作が生まれている中である程度の収益力を維持できるのは“名画”として名を残すほんの一握りの作品でしかない。さらに娯楽が多様化し、消費者が音楽や映画の視聴にかけるお金が増えなければなおさらだ。

記事を読むと私の推測通りライブラリーが十分な収益をもたらしていないことが同社の経営危機の原因であると書かれていた。だがソニーがまた高いものをつかまされたのかといえば必ずしもそうではないという。同社の作品はソニーの販路を通じて売られるため思ったほど売れなかったとはいえ一応儲けはあったし、何よりMGM買収のおかげでブルーレイとHD DVDとのフォーマット戦争に勝つことができたというのだ。

当時はフォーマット争いも手伝って映画会社の価格が高騰していたように記憶しており、ソニーが買収に投じた資金に見合うリターンが得られているのかは定かではないが、それでもMGMがあげる利益だけが頼りの投資会社よりはましな状況というわけだ。投資会社を巻き込むことで“自腹”の投資額を減らす一方で戦略上の目的はしっかり達成するなど、コロンビア・ピクチャーズの買収で空前の損失を出したソニーも10数年を経てしたたかさを身につけたのだろうかと移動中の機内で一抹の感慨を覚えた。

2010年8月1日日曜日

三洋電機

関西出張で定宿にしている京都駅に直結するホテルで部屋に案内してくれたボーイさんに渡された夕刊紙を見ると一面にSANYOブランド消滅のニュースが出ていた。パナソニックの完全子会社となり、製品群の多くが重複する以上はしかたがないことか。

思えば今日まで続く私の関西出張が始まったのは投資銀行時代のことで、初めての出張で最初に訪問したのが三洋電機だった。このときのことは9年余り経った今でも忘れることができない。というのも飛行機派の私は余裕をもって大阪空港まで飛んだのだが、乗ったタクシーが高速で大渋滞に遭い、30分以上遅刻してしまったのだ。携帯で面談相手に連絡し、事なきをえたが、初めての面談で何たる失態…。

その後三洋電機と松下電器(現パナソニック)がある守口市へは空港からモノレールに乗れば難なく行かれることがわかった。メーカー時代の私であれば間違いなくそうしたはずで、投資銀行に入って身についたすぐにタクシーに乗る癖が裏目に出てしまったわけだ。ただ大阪の高速ではその後もほとんど車が動かないくらいの渋滞に遭い、オリンピックだのAPECだのに立候補する前にインフラを何とかせい!と思ったものだった。

最初の面談での遅刻にも関わらず、同社からはM&A関連の案件を頂けそうなところまで行ったのだが、その後私がいた投資銀行のマネジメントの干渉で三洋の担当者の頭越しに同社の役員にアプローチして出入り禁止状態になってしまった…。こうして三洋さんから商売をもらうことはついぞなかったものの、今の仕事を始めてからは環境関連のビジネスで再びお付き合いが復活した。

かつて私が勤めていた電機メーカーとライバル関係にあったパナソニックも今や海外市場で韓国勢に押され気味の家電製品から環境などの分野に大きく舵をきっている。経営問題でのごたごたばかりが印象に残ってしまった三洋電機だが、地道に環境事業を展開してきたことが統合後の会社にとって大きな資産となるのではないだろうか。今回の完全買収が会社にとっても日本の環境産業にとっても吉と出ることを願いたい。

2010年7月24日土曜日

マンマ・ミーア

一年ぶりのエジンバラ。例年だとクライアントが町の中心部のホテルをとってくれるのだが、今回はなぜか空港近くのホテル。何のことはない、セントアンドリュースで行われている全英オープンと日程が重なり、観客がエジンバラに滞在しているためだった。ヒースローからエジンバラに向かう飛行機にはゴルフファンと思しき日本人がいつもより多く乗り合わせていたが、残念ながらエジンバラの空港で石川遼プロの姿を見かけることはなかった。

市の中心部で行われた会食の帰りに乗ったタクシーの運転手によると、エジンバラ市内のホテルが混んでいるのは全英オープンのためばかりでなく、あのロッド・スチュワートのコンサートが行われているためでもあるという。5月にベルファストから来日した50歳代のクライアントは帰国後の週末に奥さんと当地で行われるロッド・スチュワートのコンサートを見に行くのだと楽しげに語っていた。ロッド・スチュワートといえば私が子どもの頃によく聞いた名前だが、その後はほとんど聞かなくなった。

それにしても還暦を過ぎているであろうかつての大物スターが母国のある年代の人々の間で高い人気を維持し、いまだ現役で活動しているというのだから驚く。しかもジャズとかではなく体力の消耗の激しいロックだ。もはや新曲がヒットチャートを上ってくることも、日本などの海外で公演することもないだろうが、コンサートでの集客力を維持できるというのは大した過去の遺産で、そうしたレベルのアーチストはそう多くないだろう。

2年前、ニューヨークで人気ミュージカル“ジャージーボーイズ”を見たとき、会場を埋め尽くす団塊の世代と思しきおじさん・おばさんたちが主人公であるフォーシーズンズのヒット曲に熱狂する様を見て、若い頃に聴いた音楽というのは一生ものなのだと思った。ロッド・スチュワートもイギリスのある年代の人たちにとって青春時代を思い起こさせるアーチストなのだろう。私の年代にとってのロッド・スチュワートやフォーシーズンズは思い浮かばないが、イギリスに向かう飛行機の機内でブロードウェイで大ヒットした “マンマ・ミア”の映画版を見て、アバの曲はよく覚えていることに気づいた。わかりやすい歌詞と耳に残るメロディー。国境や世代を超えて愛されているという意味ではロッド・スチュワートやフォーシーズンズよりも偉大かも知れない。

アバの全盛期はまだ子どもだったのでコンサートを見に行ったことはないが、再結成して来日するなら見に行くかもしれない。しかしそれはかないそうもない。3か月ほど前、出張帰りに乗った飛行機で隣合わせたスウェーデン人女性によると、マンマ・ミーアの大ヒットでアバが母国でも再び脚光を浴びたが、ほかのメンバーが現役で作曲や歌手活動を続ける中、リードボーカルのブロンドの女性は完全引退してしまっているとのことだった。残念…。

2010年7月18日日曜日

参院選

選挙結果を見て思った。長年の悲願であったはずの政権交代を果たしてから一年足らず、坂道を転げ落ちるスピードがあまりに速すぎ…。

個人的には民主党の政策には賛成できないものがあり、何でも法案を通せるような状態になっては困ると思っていたので今回の選挙結果は歓迎したいが、気になるのは引き続き判断力に欠けると思われる人物が国のトップを務めていることだ。自らの言動で自らの首をしめることになった前首相の教訓から学んでいるかと思いきや、選挙前にわざわざ票を失うような発言をするのだから驚く。野党はもとよりマスコミが首相の発言を好意的に編集したり報じたりするわけがないことくらい百も承知だろう。長年の夢であった政権のトップに上り詰め、支持率をV字回復させたことでハイになっていたのだろうか。

加えて今回の選挙を自らの信を問う選挙だといってみたり、投票日の間際になって自らの発言を修正したり謝罪した。自らの信を問う選挙であれば負けたら辞任すべきとなることはわかりきっていることで、そもそも選挙に負けても辞める気がないならいうべきことではない。選挙戦に突入した後に自らの発言を修正したり謝罪したりするのは選挙対策であることが見え見えの安易さで、余計に信用されない。よくもまあこれほど的確に票が逃げていくような言動を重ねて墓穴を掘り続けたものだと思う。あまりに判断力がなさすぎ。

首相がころころ変わるのは国益に反するが、こうした判断力のない人物が首相の職にあり続けるのとどちらが国民にとってマイナスだろうか、と考えてしまう。とはいえ現政権党は閣僚を含めて発言の軽さが目立つので、また党首が変わっても同じことを繰り返すだけかもしれない。

2010年7月10日土曜日

認定ゴール

今回のワールドカップではひそかにウルグアイの健闘を祈っていた。3年前にブラジルとアルゼンチンという大国にはさまれた同国の首都モンテビデオを訪れ、大国のような気負いが感じられない、そののんびりとした雰囲気が大いに気に入った。立ち寄ったお土産屋では英語が流暢な店主にマテ茶用の茶器を買わされ?、かばん屋ではやはり英語が流暢な女性店員に必要もないスーツケースまで買わされたのもいい思い出だ。

南米での短い滞在期間中に大した見どころがあるとも聞かないウルグアイに行く予定などなかったのだが、アルゼンチンのブエノスアイレスに滞在中にモンテビデオまで船で行かれることを知り、行ってみることにしたのだ。1泊2日で訪問国を一つ増やせるなら効率がいいという発想もあったように記憶しているが、いずれにしてもいつもながらの計画性のない行き当たりばったりの旅がなせる技だ。

そんな存在感の薄い?小国が強豪ひしめく南米予選を勝ち抜いてワールドカップに出場するなど驚きだったが、決勝リーグまで勝ち残るのだから実際に実力があったのだろう。それだけにガーナ戦でのスアレスのあからさまなハンドの反則には実にがっかりした。球筋からして間違いなくゴールに入っていたボールであり、試合後の本人の発言からも腕に当ったのが偶然でないことは明らかだ。本人は出場停止処分になったが、ロスタイムの出来事で勝者と敗者が入れ替わったのだから、ウルグアイの勝利を無効にするようなルールが必要だったのではないだろうか。あのような行為を許してしまったらまさに“反則した者勝ち”になってしまう。

その後FIFAの会長が明らかな得点機会が故意の反則などで阻まれた場合、ゴールを認めるようにルールを改定する準備があることを明かしたと聞き、是非そのようにしてもらいたいものだと思った。今回反則を犯したスアレスがウルグアイの主要紙で英雄扱いされているやに聞くが、あのような勝ち方をよしとする国民だとしたらかなりがっかりで、同国での楽しい思い出がすっかり色あせてしまう…。

2010年7月4日日曜日

ワールドカップ 2

サッカーのワールドカップは私の予想通り?日本がカメルーンとデンマークに勝って決勝リーグに進んだが、やはり元々の期待値が低かったのが選手たちに何も失うものはないと思わせてよかったのではないかと思う。それに引き換え強豪国は大変だ。

イギリスの取引先と電話で話した際、ワールドカップの話題になり、同国ではアメリカ戦でボールを取り損ねたゴールキーパーに批判が集中したと聞いた。この試合は結局1対1の引き分けたが、追加点をとれなかったフォワードの責任を不問にしてキーパー一人に矛先を向けるのは何とも酷な話だ。こんなナショナルチームに入ったら大変だ。

一次リーグで敗退したフランスやイタリアの叩かれ方もすごい。不甲斐ない結果に立腹したファンやマスコミが叩くのならまだしも、首相や大臣が移民問題などと結び付けてあれこれといい出すのだから驚く。そこまでサッカーに国の威信をかけられては選手もたまったものではあるまい。

南米の強豪となるともっと大変だ。大事な試合でミスしようものなら命に関わる。前回の大会で優勝を逃したブラジルは帰国した空港で罵声を浴び、「選手たちは試合中寝ていた」とまでいわれたそうだが、その寝ていたチームに4対1で敗れた日本はいったいどうなってしまうのだろうか…。

その点PKで失敗してもフォワードが絶好のチャンスにゴールを外しても叩かれることもなく、決勝トーナメントに進出するだけで拍手喝さいを浴びることができる日本のチームは恵まれている。次回も(出場できたら)こうした強みを生かして伸び伸びと番狂わせを演じてもらいたい。

2010年6月26日土曜日

役員報酬

今年から東証に上場している企業に義務づけられた高額な役員報酬の開示。株主への情報開示を積極的に進めているかのようなポーズをとりながら役員報酬だけは頑なに公表を拒んできた企業ほど高額な報酬を払っていたことが明らかになって面白い。

それにしても一時期もてはやされた大手自動車メーカーの外国人社長の“お手盛り”ぶりには驚く。かつて自らが社外役員を務める企業のトップに経営目標を達成できない場合には引責すべしといっていたやに聞くが、その後自らが経営目標を達成できなかったときには引責することもなく平然と高額報酬を受け取り続けていたというのか。グローバルスタンダードというが営業利益率4%というのはとうていグローバルスタンダードのレベルではないし、5倍の当期利益をあげているトップメーカーの社長の8倍以上の報酬というのはいかがなものか。

私が元いた電機メーカーの外国人幹部に対する大盤振る舞いぶりも相変わらずのようだ。優秀な経営者を雇うにはお金がかかるというが、0.5%にも満たない営業利益率しかあげられず、2期連続最終赤字の状況では説得力に欠ける。「株主にもきっとご理解頂ける」のであればなぜこれまで自発的に公表してこなかったのか…。

投資銀行時代に出入りしていた大手総合電機メーカーでは業績給の比重が大きい社長の年収が部長クラスよりも低いという話を聞いた。今回高額報酬が明らかになった企業の中にはストックオプションで高い年俸にさらに上積みしているところがあったが、株価の値上がりで莫大な収入を得られるようにするのであれば、もともとの年俸の水準は抑えるべきであろう。

当時勤めていた投資銀行の幹部はストックオプションというダウンサイドがない制度自体が問題で、経営トップはオプションではなく株そのもので報酬を受け取るべきといっていた。つまりその時の株価をベースに年俸相当分の株式を受け取り、株価が上がったときには売却益を享受し、下がったときには一般の株主と痛みを分かち合うというのだ。業績に関わらずお手盛りし放題の一部企業の実態が明らかになると頷かざるをえない。

2010年6月20日日曜日

名古屋飯


地元出身者でも見どころはないと断言する名古屋なのでたまに行ったときにも観光はせずに地元の料理を食べて帰るようにしている。名古屋グルメといってすぐに思いつくのは味噌カツと味噌煮込みうどんだが、東京で育った私には前者はどうしても理解できない。トンカツによく合うウスターソースなるものがあるのになぜあえて味噌をかけるのか。このあたりは八丁味噌を食べて育った地元の人たちにしかわからないのかもしれない。

ということで今回も味噌煮込みうどんを食べることにしたが、飛騨牛のこともあったので以前二度ほど行った有名店ではなく、地元の人に支持されている店を探すことにした。この有名店は名駅に隣接した地下街という便利な立地もあって外来の客の定番となっているが、ほかの店に比べて特においしいわけでもないのに値段だけはやたらと高い。名古屋コーチン入り味噌煮込みうどんが2300円などというのはもはやうどんの値段ではない。店の内装は洒落ていて汁が衣服につかないように紙の前掛けがついてくるのも気が利いているが、それにしても高すぎる。

パソコンで色々なキーワードで検索していくうちに、何とこの有名店と同じ地下街で、しかもすぐ裏手にあるうどん屋が地元で人気と知った。さっそく行ってみると店頭に置かれたメニューの中に味噌煮込みうどんがあったが、それが目当ての観光客に来てもらいたくないからか、あるいは近隣の有名店に気を使ってか、数ある品目の一つという扱いで、注意しなければ見落としてしまいそうだった。中に入ると夕方の時間帯だけあって広々とした店内は仕事帰りのサラリーマンで賑わっていた。まわりを見回すと一品料理をつまみに酒を飲んでいる人ばかりで、こんな居酒屋のような店で本当においしい味噌煮込みうどんが食べられるのだろうかと思った。

注文してからしばらくして運ばれて来た味噌煮込みうどんは一見何の変哲もないものだったが、スープはもとより絶妙のゆで加減の麺が歯ごたえがあって実においしかった。これで900円というからやはり地元の人の目は確かだ。特定の店が実力以上の評価を受けて質と価格にギャップが生まれてしまうのは“有名店”だの“専門店”だのといったことばに惑わされる人が多いからだろう。旅先でおいしいものにありつくには味と値ごろ感を知る地元の人たちが行く店を探し出すに限る。

2010年6月12日土曜日

ワールドカップ

今一つ盛り上がりが感じられない今回のワールドカップ。日本チームが弱すぎというのがその理由だろうが、逆にこれだけ期待が低いと選手にプレッシャーがかからなくていいのではないかと思う。オランダには逆立ちしても勝てないだろうが、カメルーン戦とデンマーク戦はうまくいけば勝つか引き分けに持ち込むことができるのではないだろうか。

いつもは視聴者の期待を煽りまくり、前回もブラジル戦しか残っていないのにまだ望みがあるかのように報じていた本邦のテレビ局も今回はさすがにおとなしめだ。最近は放映権をもつ局が日本以外のチームやプレイヤーについてさかんに取り上げているのが伏線を敷いているようで面白い。世界のトッププレイヤーの技と動きはJリーグの試合が緩慢に見えてしまうくらいだと聞くが、今回はそれを見るいい機会であるのは間違いない。

以前も書いたが今回のワールドカップは盛り上がらない方がいい部分もあるように思う。昨年の暮れに南アフリカを訪れて、一目で外国人とわかる日本人サポーターが行くのは危険と実感したからだ。また、8年前の日韓ワールドカップで静岡で行われたイングランド対ブラジルという夢の対戦を見たが、スタジアムで豆粒のような選手を見るよりは自宅のテレビで観戦する方がよほど何が起きているのかわかりやすくていいと思う。(もちろんファンの心理としては実際に行って声援を送りたいのだろうが。)

オランダには間違っても勝てないとなると初戦のカメルーン戦に負けた時点で残りは実質的に消化試合になってしまう。今回のワールドカップの最悪のシナリオは日本が全敗することではなく、日本をはじめとするアジア勢が不甲斐ない成績に終わって次回のアジア枠が減らされてしまうことのように思える。今回はアフリカ大陸の、それもオランダ系移民が多い南アフリカでの開催なのでカメルーン戦もオランダ戦も実質アウェイのようになると思うが、期待の低さを逆手にとって伸び伸びとやってもらえればいいのではないだろうか。

2010年6月6日日曜日

新総理

今から20年余り前、当時通っていた都の西北の大学に菅直人氏がやって来た。革新系の議員として名前が知れ始めていた頃のことだが、大隈講堂の前の方に座って話を聞いていたはずが、その内容も、その後に行われた質疑応答の内容もまったく思い出せない。もっといえば政治家の講演会にそれほど興味があったわけでもない私がなぜこのとき足を運んだのかも思い出せない。当時社会民主連合で菅氏と政治活動をともにしていたゼミの先輩の故久和ひとみさんの関係だったかも知れない。

思い出せることといえばライトに照らされる壇上に座る菅氏の姿と、東京工業大学を出ていながらなぜまっとうに?エンジニアの道を進まずに好き好んで政治の世界などに入ったのだろうと思ったことくらいだ。そして国会議員4人しかいない革新系のミニ政党に所属するこの人物が総理大臣になる日が来ようなどとは夢にも思わなかった。何せ当時政治学の権威であった私のゼミの教授をして、想像しうる将来自民党が政権の座を降りることはないだろうといわれていた時代だった。

BBCでは3年で5人目、CNNでは2006年以降5人目の日本の首相と報じられ、国内の評論家も首相が代わりすぎるのはよくないといった論調が目立つ。確かに外交上マイナスな面はあろうが、国民が「失敗した!」と思っても任期中は代えられない国と比べてどちらがいいだろうか。それよりは前政権が対外的に約束したことを反故にしないことの方が外交的に信用を保つのに重要だろう。

市民運動出身としては初、世襲以外の首相も久しぶり、私の隣の選挙区だがいつも余裕で当選していたわけでもなく、野党時代が長かったのでずいぶん苦労もしているはず。浮世離れしている感じもなく、プラグマティックな考え方ができそうにも思える。首相の座を虎視眈々と狙い、実現したらやりたいことが色々あったやに聞くが、果たしてどれだけ政権を持続させ、それを実行することができるだろうか。

2010年5月29日土曜日

飛騨牛づくし


年齢のせいで体質が変わったのか、最近長い時間熱いお湯に浸かるのが苦手になってきた私だが、それでも泊まりがけで大阪方面に出張するときには有馬温泉に泊まったりする。温泉につかるのが目的というよりは街中に泊まるよりも空気がきれいで落ち着くし、朝は梅田まで直行バスが出ているのでよほど朝早いアポイントでなければ問題なく間に合うからだ。今週は珍しく名古屋方面に泊まりがけの出張が入り、しかも朝一番の訪問先が岐阜から高山線を入った某重工系企業だったので、名古屋市内ではなく、あの有名な下呂温泉に泊まることにした。

新幹線は苦手なので高速バスで高山まで行き、そこから特急で下呂に向かうことにした。そして大学時代に初めて高山を訪れ、駅の近くの店で学生にとっては決して安くない飛騨牛のステーキを食べたところたいしておいしくもなく、非常にがっかりしたことを思い出した。インターネットが普及する前の話なので、口コミなどで店の評判を比較することもできなかった。今回はそのときのリベンジとばかりに下調べをして店を選んで行ったのだが、電話を入れたところ予約でいっぱいと知り、断念した。

そのまま下呂に向かうため駅に行くと全国の駅弁大会で入賞したという飛騨牛のしぐれ弁当なるものが売っていたので、さっそく買って下呂に向かう列車に乗り込んだ。この弁当はローストビーフのスライスをわさび醤油につけて食べるのだが、薄っぺらい肉片数枚がそれなりにおいしく、かえって物足りなさを感じることとなった。そこで下呂に着くとすぐに観光案内所に向かい、飛騨牛を食べられる店はないか尋ねた。下呂が飛騨なのか美濃なのかわからなかったが(後で飛騨地方であることを確認した)、高山からそれほど離れていないので飛騨牛はあるのではないかと踏んだのだ。

宿に荷物を置いてさっそく教えられた店に行き、飛騨牛の寿司を注文した。いい牛肉ほど焼き過ぎない方がおいしいし、生で食べられるというのはよほど新鮮な証拠だ。ボリューム満点の寿司(写真)は味も絶品で、お店の人にどうして同じ飛騨牛でも味に大きな隔たりがあるのか聞いたところ、肉の卸業者との関係でいい肉を卸してもらえる店とそうでない店があるとのことだった。そしてこの店には高山からわざわざやって来るお客さんもいるということだった。何たる幸運。

山形市で食べた山形牛は実においしかったがすぐ隣の米沢牛のようなブランド力がないためか値段はリーズナブルだった。一方、飛騨牛は米沢牛に近いステータスで黙っていても一見の観光客が食べに来るからなのか、東京のスーパーで買う安い輸入牛肉のような味のものでも平気で出てくる。おいしい寿司に味をしめてほかの店で夕食も含めて二度飛騨牛を食べたがいずれも輸入牛肉に劣るとも勝らないがっかりな代物だった。やはりブランドに引かれて料理を食べるときには地元の人に聞いてしっかり店を選ばないとだめなようだ。

2010年5月22日土曜日

イギリスからの来客

「週末はぐっすり寝られたよ!」前の週に来日したイギリスのクライアントからのメール。思えば過酷なまでにハードなスケジュールを組んでしまった。

まず到着当日の月曜日にはホテルにチェックインした後、休む間もなく面談に連れ出し、その後に会食、翌火曜日は東京で2社面談した後横浜に移動して面談、東京に戻ってさらに面談をこなした後、立て続けに新聞社2社の取材、そして会食、水曜日は都内で2社面談をした後大阪に移動してさらに2社と面談、そして会食、木曜日は大阪で2つ面談をした後広島に移動し、面談、工場見学、会食、そしてその日のうちに大阪に戻り、翌金曜日の朝に関空から送り出した。スケジュールを見返してよくここまで詰め込めたものだと思う。

しかし、である。それだけ多くの企業さんが面談の申し入れを受けてくださったことは有難く思うべきで、日本的な社交辞令の要素が多少あったにしても総じて感触は悪くなく、今回の来日の目的は達成できたと思う。また、そもそもこのようなキツキツのスケジュールになったのは月曜日到着の金曜日出発という正味3日余りの滞在だったからということもある。海外に出張するときには前後の週末を移動にあてるのが当たり前と考える我々日本人に比べてプライベートを重んじていることの表れだろう。

昼食もとる時間もろくにないほどの分刻みのスケジュールながらすべて時間通りに進んで満足していたところ、クライアントから思わぬことをいわれた。奥さんにお土産を買わなければならないというのだ。思えば連日夜の会食の予定まで入れてしまったので買い物に行く時間がなかったのだ。奥さんからは”Don’t buy me anything. ”(何も買って来なくていいから)といわれているということだったので、それなら今回はいいんじゃない?といったら、その言葉を文字通り解釈したらエラいことになる、「高いものは買わなくていいが、自分と離れていて寂しかったことが伝わる程度のものは買って来なさい」という意味なのだそうだ。大阪での面談の合間に船場の高架下のショッピングモールに連れて行ったが、安すぎるという理由で結局何も買わなかった。

その後博労町にある英国総領事館に行くと受付の掲示板に同館の管轄区域で国際結婚する予定のイギリス人とその結婚相手の年齢、住所等が印刷された紙が貼り出されていた。見ればそのほとんどがイギリス人男性と日本人女性のカップルで、これを見たクライアントは「日本の女性はsubservient(従属的)なんだよね。」といってきた。企業訪問などでお茶を出す秘書さんたちの姿を見てそのような印象をもったようだ。見ればほとんどのカップルが女性の方が年齢が上で、日本で生活するとなればなおさら旦那が主導権を握れそうにない。誤った認識を持ち帰られても困ると思い、「結婚するまではね。」と断った。

2010年5月16日日曜日

ファーストクラス

今回の海外出張で初めてファーストクラスなるものに乗った。一生に一度は経験しておきたいと思っていたが、私が自腹でそのような贅沢をすることなどまずありえない。たまったマイルを使ってのアップグレードだ。どうせ乗るなら距離の長い便を選ぼうとするあたりが我ながらセコく、そのようなことだから大きな勝負に出ることもなく、零細企業のままくすぶっているのだろう。ちなみに成長を目指さないのは「大企業に勤めた経験からその非効率さをよくわかっているため」というのが表向きの理由だ。

成田空港でチェックインと出国手続きを済ませて搭乗ゲートの近くにあるファーストクラスのラウンジに向かった。中に入ると職員の人が席に案内してくれ、飲み物のオーダーを聞かれ、ほどなくしておしぼりが運ばれて来た。このあたりは完全セルフサービスのビジネスクラスのラウンジと違う。また、当たり前だが置いている食べ物や飲み物の質も明らかにビジネスクラスラウンジの上をいっていて、そばやうどんもその場で作ってくれた。目覚めが早かったため必要以上に早く空港に着いてしまったが、こうしたところでくつろげるなら早めに来るに越したことはない。

搭乗時刻になって優先搭乗で飛行機に乗り込むと、客室乗務員さんが機内用のスリッパをそろえてくれたり着替えの寝巻を出してくれたりと早々に世話を焼いてくれ、こうした扱いに慣れている人が乗るべきクラスなのだと改めて感じた。見ればB777型機だというのにファーストクラスは8席しかない。席は奥行きも幅もエコノミークラスの倍以上で、ビジネスクラスでも横幅がもったいないと思う私にはもてあますくらいだが、“フルフラット”のベッドは長時間のフライトではありがたかった。

食事のメニューは布地のカバーのついたもので、料理は前菜からメインまでフォアグラ、キャビア、トリュフといった名前がつくメニューが並び、飲み物もワイン、芋焼酎、日本酒に至るまでビジネスクラスにはない珍しいセレクションのものが用意されていた。希少品として提供されていた日本酒が出発の前日に実家の墓参りで行ったばかりの西多摩の酒蔵で造られていることに驚いた。ここぞとばかり色々な種類のお酒を頼んでしまうところがまた我ながらセコい。でもどれも美味しい…。寝巻に着替えるために案内されたトイレは通常の2倍の広さがあった。

エコノミークラスとビジネスクラスの差は歴然としているが、ビジネスクラスとファーストクラスはそれほど違うものだろうかと思っていたが、料理や飲み物だけでなく、大きな液晶ディスプレイの画質といい、ソニーのロゴが入ったケースに入れられたヘッドフォンの音質といい、差は歴然としていた。食事のサービスが終わると客室乗務員がファイテンの寝具でベッドメイキングをし、枕元に置くための使い捨てのアロマシートまでくれた。飛行機の機内で1畳ほどのスペースを占有して横になることができるなど何たる贅沢。

到着前の朝食は飛行機の機内とは思えない身の柔らかい煮魚やおいしいご飯まで出てきて、おかげで12時間余りの長いフライトを快適に過ごすことができたが、飛行機の到着が遅れたせいで別のターミナルから出る乗り継ぎ便に乗るためにだだっ広いヒースロー空港の中をさんざん走らされ、汗だくになってしまった。優先的に飛行機をおろしてはくれるが、当然のことながらほかのクラスよりも早く到着することはできない。おかげでファーストクラスの機内で体を休めて広々としたトイレで体を拭いてきたのに台無しだった。

エコノミークラスとビジネスクラスでは4倍以上の価格差は当たり前で、ファーストクラスはそれよりもさらに高いわけだが、今回乗ってみて思ったのは私のようにふつうにエコノミークラスにも乗り、渡航先で何らぜいたくもしない人間にはたかが移動手段にそんな大金を払う気にはなれない。逆にどうせ散財?するなら10時間余りの贅沢にではなく、渡航先でもっと長い時間をかけてしたいと考えてしまう。やはり私のような人間が乗るべきクラスではないようだ。

2010年5月8日土曜日

タイタニック号


1年ぶりのベルファスト。今回の出張にはベルファスト港周辺地域の視察が組み込まれていた。ここはあのタイタニック号が建造された地で船内の内装工事が行われたドライドックは自由に見ることができるが、今回はふだんは見られない船体工事が行われたドックと工事を請け負ったハーランド&ウルフ社の旧本社屋の中まで見せてもらった。煉瓦造りの旧本社の建物は使われなくなってからの長い年月を物語るように壁の塗装ははがれ、天井近くの柱の間から木が生えていたりと荒れ放題で、我々一行が案内人の説明を聞いていると誰もいないはずの扉の方からノックの音が聞こえてきた。夜一人では絶対に来たくない…。

上の階へと続く木の手すりのついた階段はタイタニック号の船内に設置されたものと同じだそうで、建造に関わる様々な重要事項が話し合われた役員会議室も当時のまま残っている。タイタニック号の惨劇の原因ともなった救命ボートの数もそこで決められたそうで、当時の法律では乗客の数ではなく、船の重量に応じて最低数が規定されていたために本来64は必要だったのが20に抑えられたというから驚く。ボートの数を法律上の最低必要数に抑えたのはタイタニック号を“沈まぬ船”と呼んだ自信もあったのかもしれない。もちろん事故の後、この法律は変えられたそうだ。

はじめてベルファストを訪れた2年余り前、ハイヤーの運転手さんが「タイタニック号はここ(ベルファスト)を出たときには何の欠陥もなかった。」といっていたが、今回の視察に同行した案内人によると、当時ベルファストの人々は当地で建造された世界最大級の客船を大いに誇りに思い、前述の通り“沈まぬ船”と呼んでいたので、その沈没の報に大きな衝撃を受け、しばらくはタイタニック号の名を口にすることもなくなったのだそうだ。そしていつしか自分たちをなぐさめるかのようにハイヤーの運転手さんがいっていたことばを口にするようになったのだそうだ。事故から一世紀経ってもなお、それが受け継がれているのが興味深い。

今回の視察はただの物見遊山ではなく、タイタニック号の建造地やベルファストの港の周辺にある開発用の土地を見て回るのが目的だった。建造地の周辺にはすでに研究所やシティグループの大規模なバックオフィス拠点などが進出し、コンドミニアムの建設が進められているが(今回視察したH&W社の旧社屋は高級ホテルに生まれ変わるとのこと)、造船産業の衰退で余った土地を海上風力発電関連事業の集積地に生まれ変わらせようというのだ。ベルファストはイギリスに3つしかない水深の深い港で、周辺に開発可能な土地が残されているのはここだけだそうだ。何年後かに生まれ変わった姿を見に来たいと思った。

2010年5月2日日曜日

takebo.jp

数年前、拙著が商業出版されることになったのを機に取得したこのドメインが、更新忘れで見も知らぬ人の手に渡ってしまったが、このほど奪還?することができ、出版社との契約も終了しているので、これを機にオリジナルのサラリーマン体験記を掲載することにした。

私も齢40代に達し、この本を書いた当時とはすっかり考え方も変わってしまったので、今さらオリジナルを掲載するのも恥ずかしいところはあるが、他愛のない元サラリーマンの体験談が大幅な削除と編集を経てずいぶんと趣の異なる本として世に出たことを少なからず不本意に思っていたので、思い切ってありのままの姿を公開することにした。

オリジナルを読んだ人の中には電機メーカーよりも投資銀行での体験談の方が面白かったといってくれる人もいるので、関心のある方は暇つぶしにお読み頂ければと思う。

2010年4月25日日曜日

おおかみ中年

離党をちらつかせながらなかなか党を離れようとしなかった“国民的人気のある”議員に向けられた、同じ党に所属する議員のことば。何とも的確である。政権交代直後に8割あった現政権の支持率が今やその半分をきっていることからも国民の人気などというものがいかに移ろいやすくあてにならないものかは明らかで、党内で批判され、誰もついてこないような状況の中での離党はいかにも時期を逸している感がある。誰かがついてくるのを待ったためにここまで遅れてしまったというのが本当のところかもしれないが。

それにしても今の首相に対する失望感はぬぐい難いものがある。就任時には私も期待感をもって見ていたが、抽象的な美辞に終始した所信表明演説を聞いてこの人は具体的に何をなすべきか考えがあるのだろうかという疑問が頭をもたげ、その後の行き当たりばったり的な政権運営を見て、疑問が確信に変わった。米軍基地の問題についていえば誰もがハッピーな解決策などないわけで、最終的な落としどころとそこに至るための道筋も成算もないままに耳触りのいい発言を繰り返すなど自ら墓穴を掘るようなもので、海外メディアの記事に関連して自ら愚かな首相かもしれないなどと公に発言するのは輪をかけて愚かしい。首相だけではない。政権交代以降、幹部や所属国会議員が中国詣でを繰り返し、外国人参政権を認める法案を可決しようとしている現与党はいったいこの国をどうしたいのだろうかと思う。

税金の無駄遣いをなくしつつ国益をきちんと守ってくれる政党に政権を担ってもらいたいところだが、自民党に民主党のような事業仕分けができるとも思えないので、そうなるとみんなの党のような第三極に期待するしかないかもしれない。政権公約に掲げる国会議員の定数削減など是非やってもらいたい。しかしみんなの党という名前は何ともいただけない。ロゴも含めていかにも軽い印象を与え、投票用紙に書くのが恥ずかしい気さえする。この党、英語名はYour Partyだそうで、いったい誰の政党なの?と聞きたくなる。

5月6日に投票日が迫っているイギリスの総選挙では大方の予想をくつがえして保守党が政権奪還できない可能性が出てきているという。理由は万年第三党の自由民主党(といっても同じ名前の日本の政党とは違って左寄り)の台頭で、今や保守党・労働党という伝統的な2大政党と支持率が拮抗しているというから驚く。イラク戦争に唯一反対していたことや、若くテレジェニックな党首と金融危機を予見したという影の蔵相を擁していることなどが信頼感をもたせているようだが、日本でも2大政党への失望感から第3の政党がキャスティングボートを握るようになるのだろうか。

2010年4月17日土曜日

Eyjafjallajoekull

これほど発音が想像がつかない言葉を見るのは初めてだ。しかも長い…。今週噴火してヨーロッパの空路をまひ状態に陥れたアイスランドの火山の名前で、カタカナにすると“エイヤフィヤトラヨークトル”となるそうだ。

イギリスへの出張ついでに観光でアイスランドに寄るつもりでいたが、別の商用が入ってしまったため諦めた。“エイヤフィヤトラヨークトル”山噴火の報に触れ、ハワイ島で見たキラウエア火山の溶岩が海に流れ込んで勢いよく水蒸気をあげる迫力満点の光景を思い出し、噴火の様子を実際に見てみたいと思ったが、噴火が続いている限りは日本からの空路がふさがれてしまうので無理そうだ。

日本人的にはアイスランドの温泉につかってみたいなどと思っていたが、考えてみれば同じ火山国の日本でも同じように噴火が起きれば風向き次第で空路がまひ状態になりうるということか。一昨年ブエノスアイレスの空港で帰路便のチェックインを済ませて搭乗口に向かっているとフライトのキャンセルを告げるアナウンスが流れた。何でもチリの火山が突然噴火し、その煙がアメリカへ向かう空路をふさいでしまっているとのことだった。幸い私はサンチアゴ経由の便だったので、噴煙を迂回する形で予定通り帰国することができたが、何の準備もなく空港で足止めされた人たちはたまったものではなかっただろう。

今回の火山噴火の報道で面白いのはどのテレビ局も噴火している火山の名前をいわないことだ。過去にニュースになった火山の噴火はアメリカのセントヘレナ山にしてもフィリピンのピナツボ山にしても必ず噴火した山の名前をいっていたのに、今回は頑なにそれを避けているように見える。やはり“エイヤフィヤトラヨークトル”ではアナウンサーが舌をかんでしまうからか、はたまた正しいイントネーションを誰も知らない、あるいはそれが日本でまだ確立されていないからか。かくいう私もこのように文字にしてはいるが発音は皆目見当がつかない…。

2010年4月11日日曜日

コラージュ


電機メーカー時代の同僚が渋谷の文化村ギャラリーで作品を展示するというので行ってみた。退社の挨拶には美術関係の仕事をすると書いてあったが、よもやコラージュ作家になっているとは思わなかった。他社に転職した人は少なからずいるが、芸術家になったのは彼女だけだ。

東急本店で好物の福砂屋のカステラを買ってから会場に行くと、同時期を同じ部署で過ごし、やはりその後転職をした別の同僚が来ていた。聞けば転職先の会社も辞め、今はフリーで社員研修の講師なぞをしているという。差し出された名刺がその3日前にたまたま会ったイギリス系のコンサルティング会社のもので、世の中の狭さに驚かされた。

“自由”の身となった者どうしでサラリーマンの楽さと自営の気楽さについて語ったが、3人とも大きな組織で人をマネージすることに向いていないと感じていたことがわかった。年功序列の日本の大企業では早晩部下を束ねなければならない立場になるわけで、そのような意味で我々は適性がなかったのかも知れない。

さて肝心の作品の方だが、トーマス・マクナイト的なものが好きな私にはコラージュのような抽象系のものは少々難解に感じられたが、作品のタイトルと照らし合わせて鑑賞すると作者の妄想が垣間見れるようで面白い。コラージュの技法は会社を辞める前から習っていたというが、やはりそれなりの感性というか“妄想力”があり、且つそれを再現する能力がないとできないものと感じた。

もう一人の元同僚は即決で気に入った作品を買うことにしたが、私はこれはというものがなかったので、もっと多くの作品を展示することがあれば案内してほしいと伝えた。会社の経費で買って事務所に飾ったらどうかと勧められたが、サービスオフィスに移った今はそれを飾る雰囲気でもなければお客の目に触れることもない。かといって将来彼女が有名になったときの値上がり益に期待するというのも何ともイヤラしい。

2010年4月3日土曜日

ホノルルの空港にて

夜のフライトで到着したホノルルの空港。ダウンタウンのホテルまで路線バスで行こうとターミナルビルの前にあるバス停に向かった。同僚につまらないところでケチだといわれたことがあるが、大きな荷物をもっているわけでもなければ初めて来る土地でもないので窮屈であまりきれいでもないタクシーに乗るよりは路線バスで済ませて浮いたお金でおいしいものでも食べたほうがいいという発想はそれほど間違っていないと思う。

バス停に着くと料金が2ドル25セントになっていて(6年前に来たときは2ドル以下だった記憶がある)、クォーター(25セント硬貨)を一つも持ち合わせていないことに気づいた。2ドル50セントであれば3ドル払っても仕方なく思えるが、2ドル25セントなのに3ドルを払うのは何とももったいない気がする。タクシーに乗ることを思えばたいした金額ではないので、このあたりはつまらないところでケチといわれても仕方ないか。

夜遅かったためかなかなかバスが来ず、やはりタクシーにしようかと思いかけたとき、ラフな(というかやや粗末な感じの)身なりをした40歳前後と思しき黒人の人が荷物も持たずに歩いて来た。ほかに話し相手もいないのでどこに行くのかと尋ねるとダウンタウンに行く途中のマクドナルドだという。そこが食べるのにいちばん安くていいのだそうだ。クォーターを持ち合わせていないことを思い出し、1ドルを両替できないかと尋ねると無造作にポケットに手をつっこんで入っていたクォーター1枚、ダイム(10セント硬貨)1枚とペニー(1セント硬貨)1枚を私に差し出した。いやいや両替してもらえないかという意味で、ただで受け取るわけにはいかないといっても取っておけの一点張り。あなたもバスに乗るのに必要だろうというと、彼は兵役で負傷して後遺症があるので1ドルの割引料金で乗れるのだという。そういえばバス停に歩いてくるときに片足をひきずっていたような…。タクシーに乗るお金がないわけでもない私が食費を切り詰めるためにマクドナルドに向かおうとする人からクォーターをもらうなど、何てことをしてしまったのだろう。バス代も倹約しようというのか、彼はしばらくしてやっぱり歩いていくといってバス停を去って行った。

自分が金に困っていたら果たしてなけなしの金を惜しげもなく見ず知らずの人にあげることができるだろうか…。お金がない人ほど心がきれい、などと一概にはいえないかもしれないが、私が見る限り金をもっている人間の方が渋ちんで意地汚い人が多いようには思える。日本の一般のサラリーマンとはけた違いの報酬をもらっていた投資銀行時代の上司に食事をおごってもらったことは一度もない。奥さん名義で会社を経営し、横浜の豪邸に住んでいた電機メーカー時代のある上司は一緒に飲みに行くと恩着せがましく「多めに出してやる」といいながら、私が出した金額を含めて店から領収書をもらい、その会社の経費にあてていた。彼が余計に出した額はわずかで、明らかに節税額の方が大きかった。

ビジネススクール時代のクラスメートの中にも財を成した人が少なからずいるが、在学中と変わらない人もいれば悲しいかな人間が変わってしまったような人もいる。自分より稼ぎの低いクラスメートを上から目線で見るようになる者もいれば、投資銀行で何百万ドルも稼いでいても誰それに比べればまだまだなどという者もいる。しかしこうした人々は常に不平不満ばかりいっていてあまり幸せそうには見えない。彼らは物質的には恵まれた人生をまっとうするのだろうが、やがて経済的な成功をもって人にリスペクトされるわけではないことに気づき、晩年には長年かけて貯め込んだものもあの世にはもって行かれないことに気づくのではないかと思う。

2010年3月27日土曜日

コナ


米国本土への出張の帰りに所用でハワイに立ち寄った。“所用”といっても誰も信じないが、日曜日を含めてわずか3日の滞在で、ワイキキには一切足を踏み入れていない。

滞在期間中、ハワイ島のコナに住む元同僚を訪ねた。ボストンに留学していた1992年の夏に当地で“サマージョブ”をさせてくれた不動産投資会社に勤める女性だ。ハワイ諸島最古の教会の裏手にある、コナの美しい海を見下ろすオフィスで日暮パソコンに向かって商業不動産の収益予測をしていたことを昨日のことのように思い出す。ハワイでサマージョブをするといったときにはクラスメートの誰も信じてくれなかったが、間違いなく毎日オフィスに通って働いていた。

思えばあれからもう18年が経とうとしている。サマージョブをさせてもらっていた会社はその後急成長し、私が働いていたときと同じオフィスビルの、広さが倍はあろうかという場所に移っている。ただ不動産不況の影響はまぬがれなかったようで、何年か前に来たときに比べて社員の数が減っていた。元同僚は今やコナのオフィスの最古参で、私を雇ってくれた社長が本土のアリゾナ州に居を移したことでコナのオフィスを取り仕切っている。

アメリカの不況はだいぶ深刻なようで、滞在したホテルがずいぶんと安くなっていたのにも驚いたが、くだんの不動産投資会社が買収したエコノミーホテルも近隣のグレードの高いホテルが大幅な値引きを始めたために苦戦しているという。しかしこの会社はパートナーシップ形式で物件を買収し、担保となる不動産以外に債務が発生しないノンリコースローンで資金を調達しているため不動産の価値が下がっても会社自体は安泰だ。

こうしたビジネスモデルを考えた同社の社長はボストンの有名大学で化学を専攻し、私が通っていた大学院で経営学修士(いわゆるMBA)を取得した。ハンガリー系移民の父親が経営していたニュージャージー州のパルプ会社を受け継いだが後に売却し、不動産投資の世界に転じた。大学時代のクラスメートのアメリカ有数の大富豪などが出資者となり、不良債権化した商業不動産を競売で買って、修繕や占有率の向上などでその価値を高めてから売却し、高いリターンを得て来た。

今思えば、超零細企業を経営する私もずいぶんと彼の教えに影響を受けている。まず拡大志向に陥らないこと。彼は不動産市況がいいときには年率に換算して30%を超える高いリターンを実現していたため、ほかの投資家からも運用の打診を受けていたが、これらの投資家は既存の投資家と同じ水準の報酬を払いたがらなかったためあっさり断ったそうだ。利益率を犠牲にしてまで利益額を追及しないのだ。規模のメリットがものをいう産業でない限り、経営の安定の観点からは拡大志向に陥らない方が賢明だろう。

「固定費を低く抑えろ。」これも彼の教えである。ビジネスには浮き沈みはつきもので、固定費が重いと売上の減少が利益を大きく圧迫し、経営の危機を招きかねない。固定費は製造業などが宿命的に背負っているが、これを最小限に抑えることができれば不景気による売上の減少に負けない体力をつけることができる。私の会社の場合、固定費は事務所の家賃や運営費用くらいで、私やコントラクターの給与を含めてすべて変動費化している。それだけに売上が減ると自らの収入に直に影響するが、私はプライベートでも固定費が低い地味な生活を送っている(これが自慢すべきことかははなはだ疑問だが…)。

思えば大企業勤めをしていた私が初めて身近に接した企業家がこの不動産投資会社の社長だった。彼がいなければ私がこの地を訪れることもなかったし、こうして起業することもなかったかもしれない。元同僚と当時と変わらない海辺のバーに行くと、彼女が携帯でアリゾナにいる社長に電話をかけた。向こうの時間で日曜日の夜9時だというのにまだ事務所で仕事をしていた。今年で70歳になる彼の当時と変わらない快活な声を聞き、“所用”で立ち寄ったハワイで思わぬ元気をもらった。

2010年3月21日日曜日

ご先祖探し

"Who do you think you are?"英語がわかる人にこんなことをいったら恐らくムッとされるだろう。日本語でいえば「いったい何様のつもり?」といったところだろうか。出張先のアメリカでこのような名前のテレビ番組が人気であることを知った。

何年か前に高校時代にホームステイしていたホストファミリーの娘(といっても今は40代半ばの4児の母)がインターネットで集めた情報から家系をたどっていってメイフラワー号に乗ってアメリカに渡った最初の移民に行き着いたという話を聞いた。どっからどう見ても“アメリカン”でしかないアイルランド系やイタリア系のアメリカ人が自らを“アイリッシュ”だの“イタリアン”だのと呼ぶ北東部ニューイングランド地方の人々ならともかく、西海岸育ちの彼女が自らのルーツに興味をもったというのは意外だった。ちなみにメイフラワー号でやって来た人々の末裔の中には会員組織まで作っている人たちもいるというから驚く。

昨年末南アフリカを旅行したとき、ツアーのガイドさんがアフリカ系アメリカ人が祖先の地であるアフリカにやって来てビジネスを始めようとするが、なかなかうまくいかないのだという話を聞いた。何でもアフリカでは土着の人々が皆同じ人種という意識はなく、細かい部族(tribe)に分かれているため、自分の祖先がどの部族に属していたかがわからないと仲間として扱ってもらえないのだそうだ。アフリカ系アメリカ人の祖先は移民としてアメリカに渡ったわけではなく、家系図を残せる状況にあったわけでもないので、これはなかなか難しいだろう。

前述のテレビ番組は有名人の先祖を調べるというもので、人気女優の何代か前の先祖の一人が奴隷だったといった発見があるのだそうだ。こうした番組の影響でご先祖探しがますます盛んになり、インターネットに掲載される情報が増えていくと、簡単な検索で意外な人たちと血縁関係にあることがわかったりして面白いかもしれない。果たして日本でもこうしたことが流行り出すのだろうか。

2010年3月13日土曜日

引っ越し


「来月で契約が切れるので一か月分の更新料を振り込んで頂けますか。」事務所のオーナーの秘書さんからの突然の電話。“公私混同”といわれながら神谷町にあった事務所を地元に近い阿佐ヶ谷に移してからもう3年も経ったのだ…。

家賃を折半していたクライアントが不況で予算を削減せざるをえなくなり、そのあおりで私の会社の負担が増えていたところにさらに更新料を払ってまで阿佐ヶ谷にいたいという気にはならなかった。今いるビルは地元ではそれなりに名の知れたところだが、それでも所詮は杉並。周囲に初めて訪ねてくる人がわかりやすいランドマークもなければプレゼンテーション資料の製本をしてくれるKinko'sすらない。職住接近の生活は楽ではあったが、ビジネスをやる雰囲気ではない。行き先も決まらないうちにオーナーに退去の意思を伝えて次の事務所を探し始めた。

とはいえ家賃と通勤の(不)便を考えると港区あたりに戻るというのは考えられず、やはり中央線で新宿以西ということになる。ただし電話番号が03圏内でないとビジネス上不都合だし、家賃を折半していたクライアントは予算を削ってもなお、それなりのアクセスと建物の体裁を望んでいたので西荻窪は検討の対象から外れた。さらに私個人の希望として駅前ないし駅から至近の場所にしたいということがあったので自ずと候補がしぼられ、最終的に中野駅近くの有名ビルにあるサービスオフィスに移転することに決めた。

阿佐ヶ谷から中野に移転する旨を顧客に連絡したところ、「不景気な中よく…」といった反応が来た。杉並区民にとって中野区は同じ沿線ということもあって同格というか仲間のようなイメージだが、世間的には阿佐ヶ谷より中野の方が上らしい。東京人であれば誰しも知るビルだけあって坪単価は周辺の倍だが、会議室などが共同になる分、デスクのスペースを今の半分以下におさえて家賃の総額を低く抑えることができた。それでも“アップグレード”したと思われるのなら、それはそれで結構なことだ。

デスクのスペースを半分以下にしたことで4つあったデスクの2つを処分し、常勤していた3人のうち1人を在宅勤務に切り替えてもらった(彼は八王子在住なので喜んでいる様子)。今の時代メールでのやり取りが主で電話も転送できるので、私もあまり通う必要はないのではないかと思っている。サービスオフィスとうい形態は初めてだが、これでうまくまわるようだったら高い保証金や更新料を払ってふつうの事務所を借りる必要はないだろう。

ビルのオーナーの秘書さんから電話をもらってから3週間以内で引っ越しを完了した。この間に移転先探し、条件交渉、契約の取り交わし、新しい事務所に入らない家具の処分、そして引っ越しまでやってのけた。我ながら何たるスピード技。空になった事務所(写真)をながめ、一か月前には想像もしなかった展開に、一人暮らしを始めてから賃貸契約を更新することがなかった自らの引っ越し魔ぶりを思い出した。今度の事務所は更新料がかからないので少しは腰を落ちつけることができるだろうか…。

2010年3月6日土曜日

第二の人生


御殿山のアメリカンクラブで行われたワインのテイスティングイベント。仕事上のお付き合いで行っただけなのだが、せっかくなので業者でもないのにバンバンと試飲させてもらった。

ワインのテイスティングでは数多くの銘柄を試すためにワイングラスにごく少量注がれたワインを味わった後、紙コップや会場に置かれた容器に吐き出して次に行くのだが、私はせっかくのおいしいワインがもったいなく思えるのと、人前で吐き出すことへの抵抗感からついつい飲み込んでしまう。また、せっかく来たのだからなるべく多くの銘柄を試したいという欲張り根性を出して次から次へと試飲をしてしまう。今回はテイスティングの後にアメリカンクラブからも近い懐かしの大崎にあるアイリッシュパブで電機メーカー時代の友人たちと会うことになっていたのだが、会場を出るころにはすっかり千鳥足状態で、パブではひたすらコーラとジュースを飲み続けた。

今回のテイスティング会場で3つの銘柄を上代2000円という値ごろ感のある価格でそろえている業者があり、そのスタンドには私と同じくらいの年齢と思しきブロンドのおじさんが立っていた。聞けば外資系証券会社のJPモルガンの債券(fixed income)部門をリタイヤし、アメリカのワインを輸入しているのだという。取引しているカリフォルニアのワインメーカーは自らぶどう畑をもたず、複数の農園から適宜必要な量を買い入れて醸造しているとのこと。銀座のワインバー経営者に同じ農園のブドウでも斜面上の木の位置など、微妙な違いで実の品質が大きく異なってくるといったウンチクを聞いたことがあるが、このおじさんは醸造技術の方がよほど重要で、よそから買ったブドウでも十分おいしいワインができるといった。試飲してみると確かに価格のわりに美味で飲みやすかった。

アメリカのワイン産地ではシリコンバレーあたりで成功して若くして財を成した人々が農園を買い取って究極のワインづくりを目指したりしているという。第二の人生というと日本では定年後を意味することが多いが、終身雇用が当たり前でないアメリカでは会社で勤めあげて…といった発想はないようだ。それだけに若くして次のチャレンジができるわけで、それはそれでうらやましい身分だ。「竹内さんは定年がないからいいですね。」といわれるが、決まった年齢で組織を追い出されることがないだけで、顧客がいなくなれば否応なくリタイヤせざるを得ない。外国のお客さんばかり相手にしていると、日本の大企業のように長く仕事を続けられるかわかったものではない。

2010年2月28日日曜日

大津波警報

日曜日に公共放送が長時間にわたって伝えた津波情報。こんな大々的な報道ぶりは私の記憶にはない。私はどんな大きな津波もとうてい届かない武蔵野の一歩手前に住んでいるが、かつて旅行した全国各地の海岸沿いの道や鉄道が不通となり、湘南の住宅街を走るあの江ノ電も止まっていると聞いて驚いた。

まさに1960年のチリ津波の再来だが、海外を旅するようになって半世紀前のこの津波が太平洋全域に大きな被害をもたらしていたことを知った。1992年の夏にキラウエア火山の観光拠点であるハワイ島東岸のヒロの町を訪れたときには1960年の津波で建物という建物がすべて流されて、町全体がまさに廃墟と化したことを知った。そして一夜にして家も持ち物も全部流されてしまうようだと、こうした一見のどかな海辺の町で暮らすのも考えものかも知れないと思った。また、一昨年訪れたイースター島では1960年の津波でモアイ像が押し流され、その後日本の企業がその修復に一役買ったことを知った。果たして今回の津波では大丈夫だったのだろうか…。当時はチリが地震国であることも忘れ、のんきに旅行していたが、このとき利用した首都サンチアゴの空港は今回の地震で天井が崩落し、ターミナルビルを結ぶ歩道橋の一部が落ちるなど大きな被害が出たという。

思えば私が訪れた場所はその後災難に見舞われることが多い。サラリーマン時代に会社の同僚とダイビングをしに行った東マレーシアのシパダン島では、我々が帰国した2週間後にフィリピンのイスラム武装ゲリラが上陸して観光客を拉致していった。同じくダイビングをしに行ったタイのピピ島はその後インド洋大津波で甚大な被害を受けた。実際に沖合でダイビングをした身としてはそんなときに突然津波が襲ってくるなど想像もできない。昨年訪れたペルーのマチュピチュの遺跡は増水した川に鉄道が押し流されて孤立した。私が行ったときも同じ雨季で、列車の車窓から見える川の激流が印象に残ったが、思えば護岸工事もしていない川のすぐわきを鉄道が通っていたので、浸食が進んでこのような事態に至るのも時間の問題だったのかもしれない。

延々と続く津波報道を見ながら通信技術の発達はありがたいものだと思った。海岸近くに住む人たちは自分で地震を感じることができればすぐに津波の危険を察知して避難することもできるが、太平洋の反対側で起きた地震のことなど報道で知るしかすべはない。1960年の津波では波が太平洋を渡ってくるなどとも思わず、まさに不意をうたれたのではないかと思うが、今や十分に準備ができる時間的な余裕がある分、近くで起きた地震による津波よりもむしろ遠くで起きた地震による津波の方が安心かもしれない。

2010年2月21日日曜日

春節

Happy Lunar New Year! 韓国の知人からのメールの書き出しで春節の到来を知った。”Chinese New Year”といわないのが韓国人らしい。

春節といえば中国人が里帰りをする、日本でいえばお盆休みのイメージだったが、最近は休暇を利用して旅行をする人が増えているそうで、秋葉原は現金で大量買いをする中国人観光客で大賑わいだったという。本国へのお土産なのか、同じ製品をいくつも買い求める人がいたり、一度に百万円単位の買い物をして現金で払っていく人もいるというから驚く。

中国人が好んで買うのは日本製の製品だそうで、電気製品などは指定買いだそうだ。Made in Japanがブランドになっているのは喜ぶべきことだが、デフレ真っ盛りの日本の人たちが安い中国製品を買い求めるようになっている一方で、中国の人たちが割高な日本製品を買っていくというのが何とも皮肉な気がする。いよいよGDPが逆転する今年は象徴的な年になるかもしれない。

日本の10倍以上の人口がいる中国なのだから、経済規模で逆転されるのは時間の問題だっただろう。一人当たりGDPではまだ日本の方が上であるが、中国の人口の1割が日本人並みの所得を得るようになるとそれだけで日本と同じ規模の消費市場ができてしまうのだから母数が大きいというのはたいへんなことだ。

高まる経済力を背景に休暇を利用して海外旅行をする人が増えている中国。おかげで海外に行くと中国人と間違えられてニーハオなどと声をかけられることが多くなった。東洋人と見れば日本人と思われ、客引きに日本語で声をかけられていた時代も今は昔。当時は迷惑に思うこともあったが、二度とそのような日が訪れないと思うとそれはそれでさびしく感じたりする。

日本政府もそうした中国人の観光需要のおこぼれにあずかろうとしてか、昨年から個人向けのビザを発行し始めたが、先日乗ったタクシーの運転手の話では、上海などから直行便で羽田にやってくる人たちはそのままタクシーで富士山を見に行くという。接待需要の激減で銀座でさえタクシー待ちがまれになっている時代にずいぶんと景気のいい話だ。日本人の財布のひもがかたくなればなるほど、今後も中国人観光客への依存が増していきそうだ。

2010年2月14日日曜日

バンクーバー


冬季オリンピックが始まったバンクーバーが雪不足であると聞き、昨年末に当地を訪れたときのことを思い出した。ナイアガラの滝の見物を終えてトロントからバンクーバーに向かう飛行機から見える果てしなく続く雪山の風景があまりに見事で思わずビデオカメラを回したのだが、バンクーバーに近づくにつれて山に雪がなくなり、着陸前にはこんなことでオリンピックが開催できるのだろうかと心配になった:

http://www.youtube.com/watch?v=Nxvu5UvtpHc

地球温暖化は極端な気象をもたらすというが、北米大陸の西海岸とは対照的にアメリカの首都ワシントンをはじめとする東海岸は大雪。メキシコ暖流のおかげで緯度が高いわりには比較的温暖なイギリスでもこの冬は大雪に見舞われたという。先週来日したイギリス人によると同国の人々は大雪に慣れていないため、どのように対応したらよいかわからず大混乱だったという。

いつもながらの大々的な報道ぶりのわりには今一つ盛り上がりに欠ける今回のオリンピック。前回のトリノ大会で大騒ぎしたわりにはメダル1個に終わったからか、それともよく当たることで知られるスポーツ・イラストレーテッド誌のメダル獲得予想で日本は銀メダル2個とされたくらい期待される選手が少ないからか。いずれにしても過大な期待をもたれない方が本番に弱いといわれる日本人選手には好ましい状況かもしれない。

それでもオリンピックはオリンピック。日本からも相当な数の観光客が見に行くようだ。面白いのは(といっても本人たちは笑えないだろうが)、バンクーバーがあるカナダのブリティッシュ・コロンビア州と国境を隔てるアメリカ北西端のワシントン州にもバンクーバーという町があって、間違ってそこのホテルに予約を入れる人が後を絶たないとのこと。国境を隔てて隣といってもワシントン州のバンクーバー市はカナダとは正反対のオレゴン州側にあり、とても通える距離ではない。

私もワシントン州の仕事を始めて初めて知ったのだが、このワシントン州のバンクーバーは決して小さな町ではなく、州の主要都市の一つだ。しかもカナダのバンクーバーと同じ西海岸沿いにあるのでよけいややこしい。ワシントン州を北米大陸の反対側にある首都ワシントンと間違えてうちの事務所に観光資料を請求してくる大手旅行代理店もあるくらいなので、地図上並んで見える二つのバンクーバーを混同するのは無理かなることか。いやいや両者はいくら近いといっても国が違う。テレビのニュースでも「カナダのバンクーバー」といっているのだからそこは間違えるべきでないだろう。

2010年2月6日土曜日

リコール

トヨタのリコール問題のニュースに触れ、つくづく車は失敗が許されない製品と思った。ソニーに勤めていた頃、同社の製品は壊れやすいといわれ、保証期間が切れる1年後に故障するように“ソニータイマー”なるものが仕掛けられているのではないかなどとさんざん揶揄されたものだが、テレビが映らなくなろうがウォークマンで音楽が再生できなくなろうが人命には関わらない。何年か前にソニー製のPC用リチウムイオン電池が発火する恐れがあるとのことでリコールされ、同社に大きな経済的損失をもたらしたが、犠牲者が出たとは聞かない。

投資銀行時代に大阪の大手電機メーカー系列の電池会社の幹部と面談したとき、自動車用の電池は怖くて手が出しづらいといわれた。確かに同じリチウムイオン電池でも不具合を起こしたときの結果がPCとは比べものにならない。ひとたび人命に関わる事故が起きてリコールとなれば、それまでコツコツと積み上げて来た儲けが一挙に吹き飛んでしまい、資本力のない会社であれば会社が傾きかねない。

しかし今回のようなことが“ゴーン改革”で系列の部品会社を整理した日産ではなくトヨタに起きたというのは意外だった。昨年ヨーロッパに自動車エンジン用のダイカスト成型工場をもつ会社さんを訪ねたときに、現地に工場をもつトヨタ向けのビジネスはやらないのかと尋ねたところ、やりたいけどトヨタは自前主義で外の会社にやらせないのだといわれた。車の性能の決め手となるエンジン部品は外に出さない一方で、ユーザーの安全に直に関わるアクセルペダルはグループ外から買っていたのだろうか。

昨年アメリカのPGAウェストで一緒にラウンドしたカナダ人が、父親が齢70歳にしてはじめて日本車を買ったと語った。何でも常にその時々でいちばん性能のいい車を買っていたが、今回はトヨタ車にしたというのだ。その後注意して見てみると、当地の道路を走っている車の多くがトヨタ車であることに気づいた。このような状況では長年にわたって市場シェアのトップを占めていたGMが倒産に追い込まれたのも無理からぬことか。

私がカリフォルニアの高校に留学していた1980年代にはトヨタといえばピックアップトラックのイメージで、国産車至上主義の人がまだまだ多かったこともあり、道行く車も日本車ばかりが目立つということはなかった。これほど日本車の地位が向上したのは喜ばしいことだが、それだけに今回の一件がどのような影響をもたらすのか気になる。

2010年1月30日土曜日

ブルックス・スポーツ

高輪のアメリカンクラブで行われたメディア向けのイベント。主催者はアメリカのブルックス・スポーツというランニング用シューズメーカー。聞きなれないブランドだが走る人たちの間では知らない人がいないほどよく知られていて、アメリカでは市場シェアがトップに迫る勢いとのこと。ランニングシューズなど目新しい製品でもないのになぜこれほど急速に台頭するメーカーが出て来たのか、にわかに興味がわいた。

かのウォーレン・バフェットが出資しているこの会社、バフェット銘柄らしく戦略が非常に明快。あれもこれも手出しせず、ランニング用のシューズにのみ特化している。このため広く一般にブランド名を知らしめる必要がなく、あれもこれもやっている大手のスポーツ用品メーカーのように人気スポーツ選手を起用した広告宣伝も行わない。経営資源をより走りやすく機能的な製品の開発に充てることができるため、この分野においては他社の追随を許さないのだそうだ。

一つの分野に特化し、経営資源を集中しているというのは強い。このメーカーはあらゆる足のサイズと形、体重、そして用途に合ったシューズを取りそろえている。取材の合間に来日していたブルックス社の社長に冗談めかして「運動不足の中年男にも合うシューズはあるのか」と尋ねると、「あなたにぴったしのものがある!」と即答された。何も運動不足の中年男が自分のことだといったわけではないのだが…。

ちょうどジョギングを再開しようと思っていたこともあり、ふつふつと購買意欲がわき、仕事も忘れてスタッフに足の状態を調べてもらった。体重や用途(ランニングかウォーキングか)、一回の使用時間などを聞かれ、さらに座った状態と立った状態で地面からくるぶしまでの高さを測って筋肉の状態を調べられた。私は運動不足との判定で、体重を聞かれて「これから減らす予定だけど…」と前置きする見苦しさ。

面白かったのは左右の足のサイズに1センチの違いがあったこと。これまで26.5cmか27.0センチの靴を買っていたが、大きいほうの足は27.5センチあって、靴を買うならそちらに合わせないと足を痛めるという。こんなことどこの靴屋にも教えてもらったことがない。1センチの違いというのはとても大きいように感じるが、そのくらいの差がある人は珍しくなく、私と同じで本人が気づいていないだけとのこと。調べてもらってよかった…。

かつて私が勤めていた電機メーカーは本業とはおおよそ関係のない金融や小売、レストラン業にまで手を広げていった。最近テレビでよく流れている傘下の保険会社のCMを見ると「お前はいったい何屋になりたいんだぃ!」とつっこみたくなる。エレクトロニクス事業の落ち込みをほかの事業が埋め合わせているという人もいるが、はたして本業の弱体化は経営資源の分散と無縁だったといえるのか、改めて考えさせられた。

2010年1月24日日曜日

キャピタルロス

日本航空株を売らないかという証券会社からの電話。二束三文で売るまでもないと思っていたが、何でも一応売却しないと確定申告のときに損失を控除できないとのこと。そこで一株2円で売ることになった。

しかし有価証券の売却損はほかの所得とは相殺できない。3年間繰り越せるというが、それはそれで面倒くさい、というか安い料金で請け負ってくれている税理士さんに申し訳ない。売却益が出る株を売って日本航空株の損失と相殺することにした。我ながら面倒を避けるための決断だけは早い。

証券会社の人に私がもっている銘柄で上がっているものはないかと聞くと、ソニーが上がっているとの答え。いくらの値がついているか聞くと3,020円といわれ、即刻売ることにした。ソニーをカバーしている知り合いの証券アナリストに3,000円になったら売るようにいわれていたからだ。1,800円くらいで買ったはずなので、いくらかの売却益は出るはず。

株価は個別銘柄の状況よりも市場全体の動きに左右されることが多いので、これから株価全体が戻したらもっといい価格で売れるのかもしれないが、コスト高の会社が厳しい価格競争に巻き込まれているというのは日本航空の状況とよく似ていて不安になっていた。ソニーのIR(投資家との窓口)の話では業況が好転する見通しも立っていないという。

ソニー在職中に持ち株会を通じて買った株はその後の株価下落で売却損を出して売るはめになった。今回は純粋な投資目的で買ったのだし、同じ銘柄で二度失敗したくない。賢明な判断と思いたいが、かといって元いた会社がどうかなることを望むわけではない。複雑な心境だ。

2010年1月21日木曜日

八ツ山通り散策


一昨年神谷町から御殿山の開東閣裏に移転したアメリカンクラブで行われたイベントに参加するため、新入社員時代に通っていた八ツ山通り(通称ソニー通り)を歩いた。私が最初に勤務した昔の本社ビルは跡形もなく取り壊され(写真)、マンションが建設されているようだった。後に勤務した通り向かいにある2つのビルはそのままに残っているが、本社ビルが芝浦に移転したせいかひっそりとしていた。

ソニーの需要に大きく依存していると思われた近隣の飲食店だが、昼食時間に行われる役員会の食事を提供していたそば屋や、本社のお偉方が仕事の後に飲みに行っていた近くの飲み屋はまだ営業しているようだった。この飲み屋では夜な夜な会社の内情に関わる話がされていたので、この店の主人は誰よりもソニーの事情に通じているといわれていた。一方、ソニー需要が減ったためかはわからないが、姿を消した店や看板が掛け変わっている店もあった。よく食べに行っていた本社近くの寿司屋が店名をそのままに定食屋に変わっていたのには驚いた。

10年ひと昔というが、私がこの通りを歩いて会社に通っていたのはもうふた昔も前の話になる。新入社員のときに20年前のソニーを知る人は大先輩といった感覚だったが、私も会社に残っていたら今の若い社員にそのように見られていたのだろうか。留学時代の同級生(といっても年齢は私よりだいぶ上)からの年賀状に、娘さんがソニーに就職したと書かれていたことを思い出した…。

事務所に戻った後、たまたま用事があって私が新入社員時代に同じフロアで働いていた人物(今は同業者)に電話をかけた。昔本社ビルがあった跡地を見て来たなどと話しながら、こんな話ができる相手もすっかり少なくなってしまったと思った。思えば当時から本社ビルが2回変わっている。何年後になるかわからないが、再びこの地を訪れたときにはそびえる高級マンションを前に、ここは昔…なんて話をするようになっているのだろうか。

2010年1月16日土曜日

甲州ワイン

甲州ワインをイギリスに売り込むためにロンドンで大規模なテイスティングが行われたという。海外展開を試みる理由が国内市場で輸入ワインとの競争が厳しくなっているからという。アメリカのワイン産地でもっともおいしいといわれる小規模なブティーク系のワインは国内で消費される量で充足されてしまうので輸出にまわらないものが多い。海外に出して売れるほど競争力のあるワインであれば国内で十分に売れると思うのだが。

私は大のぶどう好きで季節になると山梨産のぶどうを買って食べるが、当地のワインを飲んでおいしいと思ったことはない。昨年能登を旅行した際に地元のワイナリーに立ち寄って試飲してみたが、やはり水っぽくてとてもおいしいといえる代物ではなかった。日本の風土はワイン用のぶどうの栽培に適していないという話を聞いたことがあるが、それが真実味をもって感じられた。実際に大手メーカーの中にはぶどうを海外の産地から輸入して国内の自社の醸造所でワインにしているところもある。

今回のイベントをワインの有名産地がある大陸欧州ではなく、イギリスでやったというのが興味深い。やはりワインの本場でやる勇気まではなかったのか。イギリスでは軽いワインが人気だそうで、味にこだわりのある国民でもないので(失敬)、物珍しさも手伝っていくらか売れるかもしれないが、美食家の国で同じようなイベントを開いたら立ち直れないくらい酷評されてしまうかもしれない。このあたりは主催者側も心得ているのか。

お茶の葉は緑茶も紅茶も烏龍茶も皆同じだとかで、最近は緑茶の価格が下がっているため国内のお茶農家でも紅茶を作り始めているところが多いと聞く。しかし鳥取で買った大山産の紅茶も、静岡の業者に頼まれて試飲した当地産の紅茶もまずくはないが海外の有名産地のものにはとうてい及ばない。逆にスリランカで試飲した緑茶は嗜好の違いはあるかもしれないが日本で売れるレベルではなかった。土壌による違いなのか製造の技術によるものなのか、あるいはその両方なのか。

世界中のものが流通する時代、土壌であれ、気候であれ、製法であれ、ほかの国にまねができない強みのある商品でないと勝算はないだろう。日本産のものだと価格も安くないだろうからなおさらだ。日本人が海外のおいしいワインの味を知ってしまった以上、甲州ワインの売れ行きが伸び悩むのは当然のこと。輸出にこだわるなら、むしろ食用のぶどうを近隣の国々に売ることに注力してはどうかと思う。

2010年1月12日火曜日

上場廃止


日本航空の上場廃止の報。いよいよ来てしまったか。株主的にはいちばん避けてほしかったのだが…。金融機関が貸付金の棒引きをしているのに、優先順位が劣後する株主の利益が守られるのはおかしいとの指摘はもっともである。しかし自らの懐に関わるから文句をいっているといわれるのを覚悟でいえば、今回の一連の事態には釈然としないものを感じる。

まず今回の事態に至った原因。もともと高コスト体質ではあったが経営陣はその負の遺産を何とかしようと努力していたはず。むしろ採算が疑問視される地方空港の建設を認めて日本航空に定期便を飛ばさせ、この1年のことでいえば金融危機による旅客の減少にさらに拍車をかけた新型インフルエンザ騒動を引き起こした国や政治家に責任はないのか。これが経営危機の決定打になったのだとしたら、公共インフラを守るという大義にとどまらず国が資金援助する合理性はあると思う。

次にタイミング。国によってばらつきはあるとはいえ、世界全体で景気が回復傾向にあるという今のタイミングでなぜやらなければならないのか。実は今が最悪期で今後は旅客需要も伸び、業況も回復するかもしれない。その場合は当座のつなぎ融資とアメリカの航空会社からの出資で間に合う可能性はないのか。経営陣を入れ替えた効果をアピールするためにこうしたタイミングでここまでやっているのかと勘繰りたくなる。

などと小口株主がいってもいたしかたのないこと。結果を受け入れるしかないのだが、株主優待券をどうすればいいのか迷う。これも日航にとって一種の債務だろうが、保護される優先順位がわからない。紙くずになるなら早く使いたいのだが、経営危機が叫ばれる前後から大量に送られてくるようになった上、私が行く先が全日空しか飛んでいなかったりするため、日航の優待券は余りまくっている。今の状況では金券ショップも引き取ってくれないか…。

2010年1月9日土曜日

ナイアガラの滝


イグアスの滝とビクトリアの滝を見たことで世界三大瀑布はナイアガラの滝を残すだけとなった。旅行代理店に勤める友人が1位と2位にランク付けした滝を見てしまった後ではわざわざ3位を見に行くべきか迷うところだったが、ビクトリアフォールズで同じホテルに泊まっていたカナダ人夫妻にトロントから日帰りで見に行かれると聞いて急にその気になった。というのも今回の旅程の最後の訪問先がカナダのバンクーバーで、途中トロントで飛行機を乗り継ぐことになっていたからだ。さっそく航空会社に連絡をしてバンクーバーまでの乗り継ぎ便を変更した。

ビクトリアの滝では上流で例年になく雨が少なかったためこの時期としては珍しく水しぶきにじゃまされずに滝の全景を見ることができたが、カナダもまた異常気象なのか、トロントに着くと驚くほど気温が高く、季節はずれの雨が降っていた。ボストンに留学していたときに同級生と行ったコッド岬で中途半端な服装の私が寒さで震えているのを見て彼のカナダ人妻が「カナダ人は寒さを甘く見ない」といったのを思い出し、上から下まで重装備で空港に降り立ったのだがまったくの拍子抜けだった。

さすが世界のコマーシャリズムの中心地。ナイアガラの滝の周辺は大手のホテルチェーンやレストランチェーンやらが軒を連ねる一大観光地になっていた。肝心の滝はといえば、カナダ滝とより小規模なアメリカ滝の二つがあり、いずれも水量が豊富で迫力はあるのだが、ビクトリアやイグアスのような美しさがなく、友人のランク付けに賛同せざるを得なかった。朝早い便で到着してほぼ丸一日を滝周辺で過ごし、夜のフライトでバンクーバーに向かう予定だったが、遊覧船も出ていないオフシーズンだったので滝見物はすぐに終わってしまい、到着しておよそ1時間半後にはトロント空港に戻るバスに乗っていた。

これから三大瀑布を見る人には感動を損なうことがないよう、くれぐれもナイアガラの滝を最初に見るようにお勧めしたい。

2010年1月2日土曜日

ケープタウン


中学の世界史の授業で習った南アフリカの喜望峰は一生に一度行ってみたい場所だったが、同国の治安の悪さについては旅行の事前準備として調べるまでもなくわかっていたので当初の旅程には入れていなかった。しかしビクトリアフォールズから次の目的地に向かうためにはどうしても同国の中でももっとも危ない町といわれるヨハネスブルグに一泊しなければならないことがわかり、急きょケープタウンに“退避”することにした。ケープタウンはヨハネスブルグよりは安全と聞くし、帰路は朝早い便に乗ればヨハネスブルグで同日乗り継ぎをして南アフリカを脱出?できる。

ところがビクトリアフォールズからのフライトが遅れて大変な目にあった。機体の到着が遅れた上に、積載重量が予定を超えたために燃料が足りなくなり、隣国のザンビアに立ち寄って給油をしなければならないという。何か釈然としない説明だったが、後に客室乗務員からイギリスの大手石油会社がジンバブエから撤退を始めたために空港に燃料の備蓄がなくなっているのだと知った。出国の段になって一見平和でのどかなビクトリアフォールズの町も混乱が続くジンバブエにあることを再認識させられた。

乗客はクーラーのない空港の待合室で長時間待たされ(虫よけがなくなっていたので汗をかきながらまたマラリアが心配になった)、ようやく機内に乗り込んだらまたクーラーのない状態で長時間待たされ、離陸してほどなく到着したザンビアの空港で給油を受けた後も何の説明もないまま炎天下の滑走路に駐機された機内でまた長い時間待たされた。このままケープタウンへの乗り継ぎ便に乗れずにヨハネスブルグに滞在することになっては元も子もないので気が気ではなかったが、ぎりぎりで予定していた次の便に乗り込むことができた(ホッ)。

ヨハネスブルグより安全といわれるケープタウンに着いてひとまず安心したのもつかの間、空港から宿に向かうタクシーの中で運転手にペンギンを見に行くにはどうすればいいのか尋ねると、鉄道があるが外国人が乗ると命に危険が及ぶ(life threatening)というから穏やかでない。これまで色々なところを旅行してきたが、こんな強烈なことばを平然といわれたのは初めてだ。ていうか、そんな国がサッカーのワールドカップを開催していいのだろうか…。安全が当たり前の日本から来るサポーターにとっては想像をはるかに超える状況で、彼らの身に何も起こらないとは思えない。

滞在先のB&B(ベッド・アンド・ブレクファスト)は市内でも安全といわれる高台の高級住宅地の中にあったが、それでも暗くなったら近距離でもなるべくタクシーで移動するようにいわれた。命は金に代えられないので、テーブルマウンテン(市内や喜望峰を一望することができる、てっぺんが平たい山)やウォーターフロントなどの市内の観光はすべてタクシーで回り、郊外にある喜望峰、ペンギン園、ワイナリーなどは2日に分けてツアーで回ることにした。

滞在はそれなりに楽しいもので念願の喜望峰を見ることができたのも(何があるわけでもないただの岬だが)嬉しかったが、ケープタウンも失業率が30数%といわれる南アフリカ社会の現状と無縁ではなく、とりわけ安全が当たり前の国から来ている人間には積極的に勧めることはできない。行くのであれば常に最大限の注意を払い、市内の観光はタクシー、郊外へはガイド付きのツアーで行くことだろう。

(写真はテーブルマウンテンから望む、喜望峰に沈む夕日)