2009年6月27日土曜日

中年健診

区役所から来る健診の知らせ。サラリーマン時代は毎年誕生月に会社で行われていたので年齢を意識することもなかったが、国民健康保険の場合、40の声を聞こうかという頃にお声がかかり始めるので否応なく中年の域に達したことを認識させられる。今年の誕生日を経てもはやアラフォーとはいえなくなった身としてはさすがに受け入れざるを得ない現実だが、それにしても最近は年をとっていくことがどういうことかを知らされる機会が増えた。

今年の前半は出張などで長時間飛行機に乗ることが多かったが、機内エンターテインメントで音楽を聴くとき、自分がリアルタイムで知るなじみの曲が懐メロ(またはオールディーズ)扱いをされていることが多くなった。20代の頃は懐メロといえば自分が生まれる前、あるいは物心つく前に流行っていた曲というイメージがあったが、確かに今の20代が生まれた頃、あるいはその前に流行っていた曲をリアルタイムで知っている年齢になってしまった。

先日他界したマイケル・ジャクソンの全盛期ももちろん余裕で記憶している(ジャクソン・ファイブではない!)。1982年に大ヒットアルバム“スリラー”がリリースされたときは高校生だった。大学一年のときにはクラスメートが銀座のソニービルでマイケルを見かけて声をかけ、握手まで交わしたという。私は昨年渋谷の公園通りのパチンコ屋にいるところをたまたま通りがかったが、人だかりで姿を確認することすらできなかった。年齢を経て老化とは別の意味で容姿が変わっていったため、享年50と聞き、もうそんな年になっていたのかと驚いた。

仕事上接する人たちも自分より若い人たちがますます増えていくように感じる。もちろん自分より年上の人たちもまだまだ活躍しているが、当り前のことながら年々自分より若い人たちの比率が増えていく。特に海外のお客さんの場合、自分より若い人がかなりの要職に就いていることも珍しくない。今年就任したばかりの契約先のアメリカ及びイギリスの政府機関のトップはいずれも私より若い。日本のように年功序列でないのはわかるが、私と同年代以上の人たちはいったいどうすればいいのだろう。

ロシアの大統領も次期イギリス首相と目される保守党の党首も私より若い。こうして国家のリーダーも企業経営者も自分より若い人たちが占め、自分の世代がどんどんと過去の人になっていくのが想像できるようになった。もはや大企業のサラリーマンではないのだから若手に煙たがれていることに気づかずいつまでも会社に残って“老害”をばらまく心配もないし、今は与えられた仕事が続く限りそれをまっとうするのみと考えているが、いつどのような形で終わるかもわからない現役の後のことを考えなければならない日もそう遠くないかもしれない。

2009年6月21日日曜日

株主総会

古巣の電機メーカーの株主総会。昨年同社の株を買ったので時間があれば行こうと思っていたが、結局忙しくて行かれなかった。

わざわざ株主総会に行こうと思ったのは株価のせいではない。今の倍以上の価格で買った人はともかく、私の場合は金融危機で株価が暴落した後に今の価格より4割以上安く買っているので株価に関しては文句をいう立場にない。むしろ経営陣に為替や景気の動向次第で赤字に転落してしまう今の体質を抜本的に変える施策があるのか探りたかったのだ。それがなければ長期的に株を保有し続けるのは躊躇される。

この数か月同社の株価が上がってきたのは市場全体が上がってきたからで同社固有の要因によるものではない。むしろ同社を取り巻く環境は他の業種にも増して厳しいように見受けられる。かつてコンスーマー・エレクトロニクス業界は実質的に日本のメーカーどうしの競争だったのが、今は圧倒的なコスト競争力をもつアジアのほかの国のメーカーと競争しなければならない。コストベースが全く異なる相手と同じ土俵で戦っているのだから、相手に合わせて価格を下げれば当然利益はあがらない。その結果、同じ価格帯で売っても利益があがる(あるいは赤字にならない)他国のメーカーに比べて将来に向けた投資を行う資金的余裕もなくなり、競合上さらに不利になる。そうなるとまさにじり貧だ。

こうした状況は今に始まったことではなく、円安や好景気で過去最高益を出した2年前も厳然と存在していた。過去最高益というのはあくまでその会社の過去との比較であり、しかも会社の規模も変わっているので利益の絶対額をもって単純に業績の良し悪しは語れない。本来は同じ時に同じ環境下で戦った国内外のコンペティターに比べて相対的にどうだったのかという視点が必要だろう。

今年の総会でも経営陣からじり貧のリスクを脱する根本的な解決策は聞かれなかったようだが、あえて触れなかったのかそれとも考えてもいないのかが気になった。ハードとソフトの融合だとかネットワーク事業だとかは方向性としては正しいのかもしれないが、社員の大半が旧来のエレクトロニクス事業に従事している中で、それだけで問題は解決するだろうか。

株主総会まで3週間となったある日、同社の本社に勤務していたときの同僚から突然退社の挨拶が来た。そこには「今のような不況下で会社を辞めるのはリスキーと思ったが、会社に残る方がもっとリスキーな気がする」と書かれていた。株主としては聞きたくないセリフだった。リチウムイオン電池の技術を足がかりにした自動車産業への参入など、株主にも本社の社員にも知らせていない大きな秘策がいくつもあることを願いたい。

2009年6月13日土曜日

ウミガメ


スリランカで印象に残った場所の一つにタートルファームがある。南部の浜辺のすぐ近くにある施設で地元のNPOが運営しているという。ここでは浜辺に産み落とされたウミガメの卵をふ化させ、生まれてきた子ガメをしばらく水槽に置いてから海に放つのだそうだ。何でも一日、二日安全なところで育てるだけで海に放った後の生存率が飛躍的に高まるのだという。水槽がいくつかあるだけの簡単な施設なので、日本の産卵地でも作れないものだろうかと思った。

ウミガメといって思い出すのが電機メーカーで過ごした最後の年となった2000年にダイビング仲間と訪れた東マレーシア・ボルネオ島沖にあるシパダン島だ。水深600メートルの海底から隆起した島で、浜辺から海に入ると海底が果てしなく落ち込む迫力に圧倒される。海水の透明度は高く、ほかでは見られないような大量の魚の群れをそこかしこに見ることができる。日本の近海でウミガメを見ようものなら皆大喜びするところだが、シパダンではあまりにふつうに泳ぎ回っているのでありがたみがなく、しまいに「お前はもういいから、あっちに行ってくれ」とでもいいたくなる。

ある晩、ダイビングのガイドがウミガメの産卵を見に行こうというのでついて行った。月明かりと懐中電灯の光をたよりに人気のない浜辺を進むと、木のたもとに2、3人の人が集まっているのを発見した。覗き込むと大きなウミガメが産卵中だった。はじめて見るウミガメの産卵風景に感動したいところだったが、まわりにいたガイドにも観光客にも見えない怪しい風貌の人たちが何をしにそこにいたのかが気になった。しかし彼らがその後何をしたのか見届けることなくガイドに引率されて宿に戻った。

我々が帰国した数週間後にテレビのニュースでシパダン島に滞在していた外国人観光客がフィリピンのイスラム過激派組織アブサヤフに誘拐されたことを知った。あらためて地図で見てみると、この孤島はマレーシア、インドネシアとフィリピンの三国に囲まれていて、警備兵も立っていないことからどこからでも簡単に上陸できるように感じられた。ウミガメの産卵場所にいた人たちもどこの国から来た人かわかったものではない。その後2004年にシパダン島は立ち入り禁止となり、宿泊施設もすべて立ち退いた。

シパダン島に行くのが難しくなるとウミガメと一緒に泳げることのありがたみがにわかに増す。今回はモンスーンで海が荒れていたため海水浴すらできなかったが、今度スリランカに行ったときには是非タートルファームの沖合を潜ってみたい。

2009年6月6日土曜日

白毫銀針


スリランカ滞在中、ひょんなことから島の南部にある茶園を訪ねることになった。ここは中国宋代の徽宗帝の時代に作られていた白毫銀針(はくごうぎんしん)と呼ばれるお茶を、本国ではすでに廃れてしまっている伝統製法で作り続けている。白毫銀針は新芽の芽の部分だけを使って作られるため生産量が極端に少なく、茶摘みをする際に金のはさみで切った芽を金の器で受け、皇帝の口に入るまで人の手に触れることはなかったという。そしてその製法は門外不出で口外した者は死罪に処せられたというから驚く。その値段もビックリだったが、せっかくの機会なので話の種に一箱買って来た。

ここの茶園では何と烏龍茶も作っていて、これがまた独特の甘みがあって美味しい。同じ木でもスリランカは土壌がいいので他の国よりもおいしいお茶ができるのだという。コロンボにあるオークション会場では一年中オークションが開かれていて、日本のバイヤーは一番いい時期の一番いいお茶を高額で大量に購入するため、市場価格が一挙に跳ね上がるのだそうだ。日本人が海外で買い占めるのは最高級マグロだけではないようだ。

茶園の中にあるお茶の製造所を見学させてもらった後、茶園主の案内で様々な紅茶のテイスティングをさせてもらった。テイスティングルームの壁には弁護士をしているという茶園主の息子たちの写真があり、イギリスの大学の卒業式と思しき一枚には何とあのマーガレット・サッチャー元首相と握手しているツーショットのものもあった。茶園主の家はスリランカ独立後いったん茶園を接収され、その後その一部を取り戻して今日に至っているという。地元では相当な名士の家らしく、1971年にシンガポールのリー・クアンユー元首相がスリランカを訪れた際には自らが理事長を務めるゴルフ場で一緒にプレイをしたそうだ。

今なお海岸沿いに残る屋根や窓ガラスのない廃墟など、インド洋大津波の爪痕が残るスリランカ。タイのプーケットでは津波の被害を想起させるものをすべて取り払って何事もなかったかのように観光客を受け入れているというが、スリランカの場合は内戦でそれどころではなかったのかもしれない。しかしリー・クアンユーをしてシンガポールをスリランカのような国にしたいといわしめたほど繁栄し、観光産業が最大の産業だった時代もあったというから内戦が終わった今、この国には大きなチャンスが訪れているのかもしれない。再びこの茶園を訪れる機会があるかわからないが、そのときにはこの国はどのような変化を遂げているだろうか。