2010年11月7日日曜日

ベルリン


10数年ぶりに会ったアメリカのビジネススクール時代の日本人同級生。卒業後は投資銀行などに勤めたがその後結婚して専業主婦をやっている。夏に共通の友人がアメリカから遊びに来たことから再び連絡をとるようになった。

彼女は鹿島建設に勤めていた父上の仕事の関係で子ども時代をベルリンで過ごした。もちろん東西ドイツ、そして東西ベルリンが分断されていた時代のことだ。当時の西ベルリンには彼女の家族のほか商社の駐在員や音楽家など数えるほどの日本人しかおらず、彼女を含む日本人の子どもたちは現地校でドイツ語の授業を受けていたという。

彼女の話を聞くたびに思い出すのが大学時代に短期留学でドイツに行ったときのことだ。まだ東西分断が続いていた当時、旧西ドイツのマインツという町で語学学校に通い、週末などにドイツ各地を旅行したのだが、夜行列車で国境を越えてベルリンに行ったときのことは忘れ難い思い出となった。

西ベルリンは地理的には東ドイツの中にある、西ドイツのいわば“飛び領土”だったため、本土とは途中下車が許されない直行列車で結ばれていた。列車が東ドイツ領内に入ると、車内の明かりがかすかに映し出す沿線の小さな民家が西側に比べた生活の質素さを想像させた。

壁に囲まれ、町の東側とは道路も地下鉄も寸断されていた当時の西ベルリンは独特の雰囲気をもつ町だったが、やはりもっとも印象深かったのは日帰りで行った当時の東ベルリンだった。デパートに陳列されていた数少ない衣料品の質は低く、道端で売っていたヴルストもカフェで食べたタルトも美味しくない…。しかし何よりもそこに暮らしている人たちが幸せそうには見えなかった。

東側に行くには西ドイツのマルク紙幣をおもちゃのような東ドイツの紙幣に1対1で換金させられた。東ベルリンの物価だと一日でなかなか使いきれない金額だったが、西側並みにきれいで新しいホテルのバーに入るとつまみ一皿で手持ちの東ドイツマルクが全部なくなったばかりでなく、所持していた西ドイツマルクにまで食い込んだ。私が日本人とわかるとバーテンダーがそのホテルは鹿島が建てたものだと教えてくれた。そして後年、くだんの同級生の父上がまさにその仕事をされていたことを知った。

その後壁は崩壊し、大学卒業後に就職した電機メーカーがポツダム広場に大金をかけて欧州本社ビルを建てたことから再びこの地を訪れる機会が訪れた。壁は跡形もなく取り払われ、東ベルリン側からは近づくこともできなかったブランデンブルグ門も自由に往来できるようになっていた。日本のニュースで東ベルリンで記念写真をとった巨大なレーニン像が取り払われる様子を見たが、それがどこにあったのかわからないくらい町の風景が変わっていた。

今ではベルリンはおろかドイツに行く用事もまったくなくなり、6年余り勉強したドイツ語もすっかり忘れてしまったが、大学院時代の知人と再会したことで旧東ドイツの観光も兼ねて再び行ってみたい気持ちがわいてきた。