2011年9月24日土曜日

家系図


伯父(父の姉の夫)からの突然の電話。孫(私にとっては従兄の息子)が結婚するので父方の家系図をもたせたい、ついては父方の祖母の実家である竹内の方を調べてほしいといわれた。父は女きょうだいばかりなので竹内の名字を継いでいるのは兄と私だけ。次男の私に頼んでくるということは私の方が暇と思われているか?などと余計なことを考えつつ、調査に取り掛かった。

父方の祖父の家がもとは日本橋の裕福な鰹節問屋であったこと、曾祖父、その先代とも養子で曾祖父は信州、先代は九州の出ということは聞いていた。ただ先代は大分とも黒田藩(つまり今の福岡県)とも聞いていて、どちらか定かではなかった。曾祖父が信州に里帰りするときにはまるで大名行列のようで、大伯母(祖父の姉)は女中さんを伴ってお稽古事に通っていたという。ところが祖父の長兄が放蕩をして店が傾き、祖父の姉が番頭さんと結婚してその後を継いだものの時すでに遅しだったと聞く。かつての商売敵があの“にんべん”だったというからずいぶんと明暗を分けたものだ。

伯父にお寺に過去帳が残っているはずなので、それを調べればご先祖のお墓に入っている人たちの名前はわかるはずといわれ、曾祖母までが入っている浅草のお寺(江戸の商家のならわしとかで墓石には名字ではなく店の名前が刻まれている)に聞いてみたが、関東大震災と第二次大戦の戦災に遭っているので残っていないといわれた。また、祖父の本籍地である中央区の区役所に出向いて調べてみたが、曾祖父の戸籍はすでに廃籍となっていて、それ以上はたどれなかった。ただ若くして亡くなった曾祖父が彌右衛門という名前だったことだけはわかった。

竹内の家系図作りはこうして残念な結果に終わってしまったが、面白い発見もあった。祖父の戸籍を見ると祖母の元の戸籍が岡山市の小橋町というところになっていた。祖母は池田藩士の家の出だが、東京の学校に通っていた祖母の兄と級友だった祖父が当地に遊びに行ったときに、川沿いの道を日傘をさして歩いて来た祖母に一目ぼれしたという話を聞いていたが、グーグルマップで調べるとこの小橋町は岡山のお城から川を隔てたところにあり、こうした話を見事に裏付けるロケーションだった。

結婚する従兄の息子にとって竹内は父方の祖母の実家。そして私にとっての父方の祖母の実家がこの岡山にあったわけだ。祖父の一家の家系図ができなかったのは東京のお寺が震災と戦災に遭ったためで、岡山の方は親戚を探し当てれば比較的簡単にわかるかも知れない。しかし冷静に考えてみるとご先祖の名前がわかったからといってそれ以上のことは何もない気がする。誰か歴史上の人物に行き当ればミーハー的な興味はわくが、地方の士族の家だとその可能性も低いだろう。