2012年3月25日日曜日

福島


「香典の前渡し」島根原発を抱える松江で、空港まで見送ってくれた当地の会社経営者が、原発建設の際に支払われた交付金をこう呼んだ。受け入れた自治体はもちろん香典などと思って受け取ったわけではないだろうが、事故が起きたときの結果はもとより、廃炉にするときのプロセスやコストも明らかにされず、使用済み核燃料の最終処分地も決まっていないのだから、多少の香典では済まない大きな負の遺産を末代まで残したことは間違いないだろう。

その2日後に商用で福島を訪れた。復興ボランティアにも参加していなかったので、白河の関を超えるのは震災後初めてだった。当地でお会いした地元地銀の方の話では、全国的に海外からの観光客が戻っている中、福島はまったく回復の兆しがないとのこと。原発事故のおかげでチェルノブイリ並みに世界的に名前が知れてしまったのだから無理もがない。島根原発でもいえることだが、なぜ原発の名前に泊、女川や刈羽、大飯、玄海のような町の名前ではなく県の名前をつけてしまったのか。

思えば福島には子どものときからよく行っていた。小学生のときは二度の夏休みをそれぞれ会津田島と二本松で過ごし、初めてスキーをしたのは裏磐梯だった。大学時代は飯坂温泉で自動車の教習所に通い、社会人になってからは原発近くの原ノ町(現在の南相馬市)にある協力工場に訪ねた。仙台から常磐線の単線を時間をかけて南下し、海側の車窓から景色を眺めながら、「確かこのあたりに原発があったはず」と思ったことを思い出す。それが福島県全体を不幸に巻き込む事故を起こそうなどとは当時は思いもよらなかった。